第10話 三十三間堂
チリン、と鈴の音が鳴って、小さな店内に響く。
ざわざわと喋り声のする店内には珍しく数組のカップルが客席を占めている。他は常連の頭頂部の寂しいサラリーマンだったり、近所のおじさんが競馬新聞片手にホットを飲んでいるいつもの光景だ。
春は観光シーズンだけあって、見知らぬ新規の客も
チリン、とまた鈴が鳴って、若い女性が一人で入って来た。
「いらっしゃい」
マスターが声をかけると、彼女はしばし固まって、カウンター越しに彼を見上げる。
「こちらへどうぞ」
小鳥が横からすかさず案内する。
可愛らしい彼女に安心したのか、女性客は微笑んで席に着いた。
「マスター、白玉オーレと玉子サンドです」
注文を通して、小鳥がカフェオレボウルと白い平皿を出して紙ナプキンを敷く。
マスターは鍋でカフェオーレを温め、冷蔵庫から水の入ったタッパを出し、作り置きしてある白玉団子を取り出して少し湯で温めてからカフェオレボウルに移す。そこへカフェオーレを注ぎ、あんこをひとすくい静かに落とす。これが白玉オーレである。
それから食パンを薄切りにし、片方にバター、片方に辛子マヨネーズを塗り、薄切りのキュウリとゆで卵を潰してマヨネーズで和えた具を挟み、少し手で押して三角に切ってからパセリと一緒に平皿に盛ると、小鳥に運ばせる。
小さな店内はいつの間にか満席である。
「マスター、時間ですよ」
小鳥が時計を指さす。
「ほんまや。ちょっと行ってくるから、留守番頼むわ。看板しもといてええから」
マスターはまったく似合っていないデニムのエプロンを外し、慌ただしく出て行った。
「小鳥ちゃん、店放り出してマスターどこ行ったの」
近所のおじさんに尋ねられ、小鳥は微笑んだ。
「民泊の方へ、なんか問題があったらしくて」
「ああ、あの洒落た町屋風ビル。あれはホテルなんやろ」
「だから、民泊ですってば。詳しい事は私はわかりませんから、本人に聞いてくださいね」
小鳥は言い切って、カウンターの内側で洗い物に専念した。
民泊の方も満室続きで大繁盛なのだが、長期滞在でマナーの悪い客がいたらしく、近所から苦情が出ているのだ。いつもは管理人部屋におばさんとフリーターの男の子が交代で常駐しているのだが、客が手に負えないから、とマスターが呼ばれていった。
あの怖い顔が来たら、きっと客もその手の物件に泊ってしまったと思って素直に謝ってチャックアウトするだろう、と小鳥は安心している。
「小鳥ちゃん、お勘定」
近所のおじちゃんが席で小鳥を呼んでいる。
「はーい」
小鳥が行くと、おじちゃんは小銭を並べて勘定しながら、後ろを指している。
「?」
彼女が目をやると、カップルが喧嘩を始めていた。
「どこ行くか揉めてるみたいやで。助けたり」
おじちゃんはそう言って、帰っていった。
水差しを持って、小鳥がカップルの席に行くと、彼らは声を潜めて不機嫌を隠した。
「あら、三十三間堂ですか?」
ガイドブックを覗き込んで、小鳥が声をかけると、カップルは顔を見合わせる。
「行きたいんですけど、彼は東福寺がいいって」
彼女の言葉に、彼は苦笑する。
「俺たち、三時の新幹線で東京に帰るので、その前にどこか一つだけ行こうかって言っていて、実は東福寺は一回行ったことがあるから、知らない場所にしようって彼女は言うんです。でも、知らない場所で迷うよりは、知っている場所の方がいいかなって」
「なるほど。でも、三十三間堂は近いし、迷わないと思いますよ?バスでも徒歩でも大丈夫で、あの千手観音の大群を見たら好きになるんじゃないかな?」
小鳥の言葉に、彼も興味を引かれたようだ。
「お雛様の時かな、無料だったんで一回私も行ったんです。それから好きになりました」
小鳥はグラスに水を満たすと、微笑んだ。
「市バスの206で行けると思います。一度行ってみて下さい」
一礼して、小鳥はカウンターに戻った。
チリン、と音がして、人相の悪い男が戻って来た。
「早かったですね、マスター」
「うん。俺が行ったら、なんか知らんけど丸く収まったわ」
マスターはデニムのエプロンをかけて、洗い物の続きをやる。
「その顔も売り物の一部ですよね」
小鳥がしみじみ呟く。
「え?何か言ったか?」
「いいえ、何も。それより、マスター。今年はお花見できなかったから、何か違う事企画して下さいよ」
毎年恒例の円山公園の夜桜のお花見を、民泊のフリーター君とマスターの兄の恭一と四人でやっているのだが、皆忙しすぎて日程が合わなかったのだ。人手不足と観光シーズンが重なるとロクなことはない、とは恭一の弁だ。
「ほな、太秦映画村?保津川下り?十石船?」
「無理な事ばっかり言って」
春の観光地は人でいっぱいだから、いつも避けている小鳥だ。マスターは知っていて言っている。クツクツ笑いながら、マスターは洗い終えたグラスを拭いていた。
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