第7話 オヤジ達の憂鬱
誰もいない店内にチリンと鈴の音が鳴った。
この鈴、小さいくせによく響く。この店のマスターはカウンター越しに、ガラスの扉を眺めながら、風に揺られている鈴をどうやって黙らせようかと考えていた。
そもそも、ドアが風で開くのがいけないのだから、鍵をかけてしまおうか。
その考えはベストな気がしたが、営業中の喫茶店には致命的な営業妨害だと彼はわかっているのか、いないのか。ガラスのドアまで進み、手をかける。
向こう側に、見知った人間が現れた。仕方なく、彼はドアを開けてやる。
「いらっしゃい」
「ああ。あったかいのん、頼むわ」
しゃきっとした老人は、そう言うとお気に入りの窓際の席に座った。
「おい、新聞」
「はいはい」
言われて、マスターが新聞とアーモンドの入った小皿をテーブルに置く。
「おおきに」
老人はマスターを見もせずに言った。この二人、似ている。
「お父さん、ココアでいいやんな」
「ああ」
マスターの確認にも目を上げずに新聞を読んでいる。
コンロに純ココアを入れ、砂糖はたっぷり、それから弱火にかけ、少しずつ牛乳を足しながらかき混ぜていく。焦がすか焦がさないかのラインで牛乳を足していく。ほぼ、練っているような状態だ。
一定の量になったらカップに入れ、その上に生クリームを入れる。他のお客さんにはホイップにして出すが、彼の父親は昔ながらのやり方が好きなのだ。
「はい」
席に持っていくと、おおきに、と言って出来立てのココアをずずっとすする。
あとは黙々と新聞に目を通している。
マスターはカウンターに戻って、伝票をパソコンに打ち込む作業を開始した。
しばらくして、チリン、と鈴の音が響き渡り、兄の
「いらっしゃい」
「俺、あったかいのね」
恭一は父の席の前に座り、持参した新聞を広げた。
二人、黙って向かい合って新聞に目を通している。
マスターはエスプレッソマシーンの電源を入れた。
二人の客に目をやると、親子とは思えない雰囲気だ。昔のマフィアのドンと警察の取引現場みたいだ、と変な感想を抱いて、マスターはエスプレッソを抽出した。
湯気の立つデミタスカップを持っていくと、恭一は笑顔でありがとう、と言ってカップを自分の手で受け取った。
「ここは静かで落ち着くなあ。そういや、お前、民泊の方はどうなん?」
恭一に聞かれて、マスターはお盆を脇に抱えて唸る。
「もう毎日お客さん入ってるで。掃除のおばちゃん増やすかなあ」
「ええ悩みやなあ、お前。俺とこ、人材募集しても
目の前の父親に真っ直ぐ目を向けて恭一が言うが、父親は目を上げない。
「友達んとこも募集出しても誰も応募してこおへんって。時給上げても無理なんやってな」
マスターが言うと、恭一がうんうん、と頷く。
「そやねん。時給上げてもあかんねん。どういう世の中なん、これ?労働力が足りないけど、世間の人たちは働かんでも間に合ってるってことやろ?贅沢してる人ようけおるやんな。ってことはやで、お給料は旦那はんがようけ貰ってきているから、十分?女性進出の社会やから女性でも十分稼いでいる?もちろん、そういう人もおるさ。でもそんな人稀ちゃうん?俺なんて慎ましやかな生活しかできひんのにさあ。じゃあ、なに?旅館業が駄目な訳?不人気?もう、わからんわ」
一通り喋り終えると、まだ言いたいことはあるらしいが、大人しくなって、恭一はエスプレッソを飲み干した。
「時代が違うんやなあ」
黙って聞いていた父親が、新聞から目を離さずに呟いた。
兄弟顔を見合わせて、新聞の向こうの父親の顔を見る。
「新聞に募集広告出したら、昔は人が集まったもんや。それだけやない。飛び込みで、働かせてくれ、なんてざらやったな。今は何でもおしゃれになって、地道に働くのが難しいんかもなあ」
言い終わると、新聞を一枚めくって、また黙々と目を通す。
「そういや、お梅さんって人、おったよな。俺らが小さい頃、住み込みで。お前、よく部屋行って、お菓子もろてた」
恭一がマスターを見上げて言うと、マスターは頷いた。
「お梅さんのくれるお菓子は黄金飴か八つ橋やったけど、俺、あんまり好きやなかったな」
意外な告白に恭一が吹き出した。
「やっぱりな!俺も貰っても困るから逃げてた。お梅さんて今何してんの?」
「知らんわ。でも、お梅さんて、唐突にいなくなった記憶が…」
マスターが遠い目をして考える。
「お梅さんは偽名や。旦那さんの暴力から逃げてきはったんや。んで、お姉さんが迎えに来てくれはったから、うちを辞めはったんや」
父親が新聞を置いて説明した。
「え?」
兄弟一緒に反応して、父親を見る。
「昔は多かったんやで。借金取りから逃げたり、夫が稼がへんから子供を親戚に預けて住み込みで働いたりな。旅館っちゅうのは、客も働き手も色んな事情がある人が集まる所やったんやなあ。今は贅沢になって、働かんでも生きていけるんかもなあ」
父親の憂鬱そうな顔が、この先の未来を示していそうで、急に不安になる兄弟だった。
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