第6話 嵯峨野線
チリン、と小さな鈴の音が鳴った。小さいくせに澄んだ音は店内によく響き渡る。
マスターはカウンターからぼんやり入口を見ている。
チリン、チリン。
鈴は鳴れども、客は入ってこない。
時々吹く突風がガラス戸を揺らして鈴を鳴らすのだ。春にはよくあることだった。
小さな店内に、頭頂部の茂みが寂しい若い男がアイスコーヒーを飲みながら煙草を吸っている。本日二度目の来店だ。もうすぐ日が暮れそうだが、まだ仕事があるのか、彼は息抜きにここへ来ている。客席に座ってから五分も経っていないが、彼はもう立ち上がって、カウンターにお代の四百五十円を置いて出て行った。
マスターはグラスと灰皿を回収してテーブルを拭くと、新しい灰皿を置いてカウンターに戻った。
チリン。
「いらっしゃい」
ドアに背を向けたまま言い、彼は汚れ物を洗ってしまった。
「マスター、ただいま」
小鳥がカウンター席に座って、カバンをごそごそやっている。
「おかえり」
マスターは洗ったグラスを拭いて棚に戻すと、小鳥に向き合う。
「なんか飲むか?」
「じゃ、お水下さい」
小鳥はカバンから手ぬぐいを取り出してマスターに渡した。水の入ったグラスを置いて、彼はそれを受け取ると広げて見た。
「龍安寺のおみやげです。石庭てぬぐい」
小鳥は言って、水を飲み干した。
「嵐山に行ったんか?」
「ううん。仁和寺からすぐに京都駅に引き返したんです。博美さん、仕事の呼び出しですぐに帰らなくちゃいけなくて。だから天龍寺に行くのを逃したわ」
小鳥は悔しそうに言って、もう一杯、と水を要求する。
「ほんで、楽しかったんか」
「はい、それはもちろん」
小鳥の答えに、マスターは満足そうに微笑んだ。
「マスターは忙しかったですか」
「いんや。いつも通り。そういや、京都マラソンの時に来た林さんって覚えてるか?あの人がここへ来たよ」
マスターの言葉に、小鳥が驚いた顔を見せる。
「あの、さわやか星人ですか。私も会いたかったなあ」
「さわやか星人て。君のネーミングセンス、わからんわ」
マスターは苦笑して、小鳥のグラスに水をつぎ足す。
「そういや、林さん、京都水族館行くって言ってはったわ」
「マスター、水族館も交通博物館も行ったことないんですよね。梅小路公園なんて、すぐそこなのに」
小鳥が勿体ない、と顔をしかめる。彼女がやると、天然効果なのか、しかめっ面に嫌味な言葉も、苦情にも文句にも聞こえない。得な性質やなあ、とマスターは思った。何しろ、強面の彼からすれば奇跡のような芸当なのである。
「君ね、一人で水族館やら交通博物館に行くのって、ちょっと世間的にどうなんよ?って思われるってわかってるか」
「でも、林さんはお一人だったんでしょ?」
「そや。でも、よう考えてみ?あのお人と俺と、一人でいても納得なんはどっちや」
「うーん。マスターかな。林さんなら、一緒に来るはずだった人が来なかったのかな、って思います。けど、マスターは友達いないのかなって」
「…」
何も言い返せなくて、マスターは小鳥に背を向けて、何やら作り出した。
「交通博物館って、汽車とか新幹線の古いタイプが展示してあるんですよね。私は小さい頃、まだ博物館がない時に遠足で汽車に乗った覚えがあるんですけど、電車とか汽車って興味ないんですよね」
屈託なく言って、小鳥は背中からマスターの手元を覗き込みながら言った。
「俺は電車好きやで。そういや、嵯峨野線の駅が増えるんやっけ?梅小路のとこ。なんて駅になるん?」
小さな可愛らしいグラスに芸術品のようなチョコレートパフェを作り上げて、マスターは小鳥の前に出すと、話を変えた。
「さあ、私は知りません。興味ないし」
パフェをつっつきながら小鳥が答えた。
「工事してたけど、凄いよな。線路作ってんの、あれ、くっつけるんかな。あんなん見てたら、おもろいよなあ」
少年のようにキラキラした目、もとい、怖い顔をもっとギラギラさせてマスターが言うのを、冷めて目で小鳥が見る。
「そんなの興味あります?」
「うん、あるある」
「嵯峨野線で興味あるとすれば、トロッコ列車くらいです」
小鳥はチョコレートパフェを平らげて言った。
「ああ、あれ。確かJR嵯峨嵐山駅か亀岡駅から乗り換えていく観光列車。保津川下りと両方楽しむのがええねんな。でも、俺はまだどっちも乗ったことないわ」
「京都の人はそんなものかしら?」
生粋の京都生まれではない小鳥からすれば、不思議に思うが。マスターが珍しい部類なのか、それが通常なのかはわからないが。
「でも、親父とかは乗ってるで。嬉々として。あれでも旅館の人間やからな。観光案内するには体験せなあかんって常々言うてたけど、自分が楽しみたいねん。保津川のラフティングもやってるし、やりたがりやねんな」
マスターの言葉に、小鳥は地元を観光するかしないかは、ただの性格の差だと悟った。
彼はチョコレートで汚れたグラスを泡たっぷりのスポンジで洗いながら鼻歌を歌いだす。洗剤が勿体ない、と小鳥が思いながら、彼の背中を見ている。
「マスターは今はひきこもりなんですね。アヤメさんがいた時は出かけてばっかりだったもの」
小鳥の爆弾発言がマスターの心臓を威力たっぷりに攻撃する。
「君、その話はもうええわ」
うめくように言って、マスターが肩越しに小鳥を窺う。
「失恋しちゃったもんはしょうがないでしょ。次、行きましょうよ。嵯峨野線だって、新しい線路増えてるんでしょ?次、次!」
小鳥の変に強い発破に、マスターの冷や汗が流れ、攻撃はとどめを刺すかに思われたが。
「じゃ、また明日。失礼しまーす。ご馳走さまでした」
満足そうに微笑んで、天然娘はチリンとドアを鳴らして出て行ったのだった。
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