第5話 京都駅大階段
チリン。
小さな鈴の音と共に、背の高い男が店に入って来た。
さほど大きくない喫茶店内に緊張が走る。と言っても、他の客は誰もいないのだが。入って来た、その男は上質な生地の細身の背広を着こなし、隙の無い身のこなしで店内を見回した。
マスターはカウンター越しに、ゆっくり振り返ると低い声で「いらっしゃい」と言った。
「相変わらず愛想のない顔やなあ」
馬鹿にしたように言った客は、こらえきれずに笑いだした。
「あほみたいに客商売の似合わん男やなあ。可哀想に」
えらい勢いで笑われっぱなしのマスターは微妙な笑顔で怒りを隠して口を開く。
「兄ちゃん、何しに来たん?」
「コーヒー。うんと濃いの入れて」
マスターの兄、
「濃いの、ね」
マスターはエスプレッソマシーンのスイッチを入れて、冷凍庫からエスプレッソ用の細かく挽かれた豆を取り出した。この店でエスプレッソを飲むのはマスターの兄だけである。たまにカプチーノの注文もあるが、この店のカプチーノは本来のエスプレッソか普通のコーヒーのどちらかが選べて、圧倒的に普通のコーヒーが選ばれている。単に、濃いコーヒーが得意でない客が多いだけなのだが。
ブーンと低い音をたてて、機械がエスプレッソを抽出する。イタリア製の白地に紺色のラインの入ったデミタスカップに、泡立ったエスプレッソが湯気をたてている。
「どうぞ」
どうせお金を払わない客だから、扱いは何でもいいのだが、そこは喫茶店のマスターの意地がある。
「おおきに」
恭一はカウンターに置いてあるシュガーポットから角砂糖を三個カップに入れて優雅に混ぜ、美味しそうにエスプレッソを一気飲みした。
「うーん、うまいなあ」
満足げにカップをソーサーの上に置いて、恭一は弟を見上げた。
「で?」
恭一は前置きなしに弟に尋ねる。
「兄ちゃん、その唐突な話し方、やめてんか。ほんまに、兄弟ちゃうかったら頭おかしんかと疑うで」
「またまた、恥ずかしがって、この子は」
恭一は魅力的な笑顔で、自分と正反対の愛すべき弟の人相の悪い顔を見ている。
「お前、どうなん?お見合いの相手とは連絡とってんのか」
「駄目だった」
ポツリと漏らして、マスターは兄に背を向けた。
「そっか。ま、気にせんでもええわ。また次の、用意してあるみたいやし。親父も懲りひんよな。これで何回目や?お前が興味ない上に愛想ないの、わかっててお見合い話持ってくんねんからなあ。お前の結婚を見届けるまでは俺に旅館は譲らへんって言ってんねんから、よっぽど心配なんやで。はよ、結婚したり」
恭一は言って、「水ちょうだい」と催促する。
グラス一杯表面張力の実証実験かというくらい、嫌味のようになみなみと水が注がれたグラスを器用に持ち上げて水を飲み干すと、恭一は立ち上がった。
「あ、そや。こないだ二月にあった京都駅の大階段駈けあがり大会の写真できたし持って来てん。忘れるところやったわ」
恭一はポケットから写真を数枚撮り出して、カウンターに置いた。
京都駅大階段駈けあがり大会とは、京都駅の中央口の方、伊勢丹のビルの合間にある大階段を駈け上がるタイムを競う大会で、女性一名、四十五歳以上一名、あとの二人は十八歳以上という四名一組のチームで申し込み、団体、個人、女性、四十五歳以上の部門に分かれて171段を駆け上がる。過去にはパフォーマンス部門というのがあり、コスチュームを着た走者が見学者を楽しませることもあった。五年連続優勝者は上の階段の銘板に名前を刻まれるという名誉(?)が与えられる。
「俺ら優勝する予定やったのになあ。惜しかった」
マスターは振り返り、写真を見た。これは恭一の趣味の古いタイプのカメラで撮ったものだ。趣味が行き過ぎて現像室まで持っているのだから、恭一のカメラ好きは留まることを知らない。
「小鳥があんなに早く階段上るとは思わんかったな」
マスターは写真を手に取って、呟いた。
「ほんまやな。小鳥ちゃん、見た目を裏切るすばしっこさやもんな。小鳥って言う名前よりスズメにした方がええんちゃう?」
お互いに目を合わせて思い出し笑いをする。
「ほな、またな」
恭一は優雅に手を挙げて出て行った。
いちいち癇に障る所作を見せつける兄に、マスターがふん、と鼻をならして、空のカップを回収した。
カップを洗いながら、彼は思い出すように宙を見上げる。
京都駅は目の前にあるが、滅多に行くことはない。出かける用事は近所のエビスクというスーパーに買い出しに出るだけだし、遠方に行くようなことがないのだ。出かけたとしても市内は地下鉄やバスで事足りるので、やはり京都駅構内に入ることはない。それが年に一度の大階段駈け上がり大会の日だけは別だ。京都駅に入ると、やはり京都駅という場所は特別だな、と思う。クリスマスには大階段自体がライトアップされたり、巨大なクリスマスツリーが出現する。春夏秋冬、様々なイベントが大階段のある室町広場で催されていて、何年か前まではマスターもデートでよく京都駅には行っていた。
今は近くて遠い、京都駅である。
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