第4話 京都水族館
チリン。
小さな鈴の音が鳴って、これまた小さな店内に響き渡る。
おおよそサービス業の人種とは思えない人相の悪いマスターが低い声で「いらっしゃい」と新規の客に声をかけた。
この小さな路地裏の喫茶店に入って来たのは三十代くらいの男で、日に焼けたさわやかな笑顔がマスターと対照的である。
「こんにちは。お久しぶりです」
彼の言葉にマスターは最初はきょとんとしていたが、すぐに「ああ」と得心した、貴重な笑顔を見せる。
「京都マラソンの時の」
マスターは水の入ったコップを、常連客でも滅多に誰も座らないカウンター席に座った彼の前に静かに置いた。
京都マラソンとは二月に催される京都の観光地を横目にマラソンするイベントである。西京極運動公園を出発し、天龍寺、仁和寺、龍安寺、金閣寺、上賀茂神社、下鴨神社、銀閣寺の7つの世界文化遺産付近を巡った後、平安神宮前に辿り着くコースだ。各所の関所を制限時間内で通過せねばならず、最大六時間かけてのコースとなっている。エントリーはインターネットで受け付けているらしい。
「林です。あの時はお世話になりました」
彼はお辞儀して、ウィンナーコーヒーを注文した。
マスターはネルドロップのホットコーヒーにホイップをたっぷり乗せて、真っ白なカップを林の前に置いた。
彼は嬉しそうにホイップを一すくいして口に入れると、残りのホイップは思い切ってコーヒーの中にかき混ぜた。
「宿がなくて困っていたので、本当に助かりました」
林は改めて言い、ホイップが溶けて乳白色の渦ができているコーヒーを口に含んだ。
「なあに大したことないですよ。宿には顔が利くんで」
マスターの怖い笑顔にも、林は動じない。
このマスター、実は京都駅の近くにある宿屋の社長の息子で、次男坊なので後を継ぐことはないが、代わりにこの喫茶店と民泊と呼ばれる「旅行者が対価を払って一般の家に宿泊する」施設を経営するよう援助してもらったのだ。ボンボンと言われても、経営のチャンスを得たのだから、彼は精一杯やっているつもりである。
近年、インバウンドのお陰で宿泊客は増え、以前ならあった「オン・オフ」の観光シーズンの区切りも曖昧になってきた。その上、ホテルがあちこちに立ち続け、民泊も認可されていない施設も含めて増殖を続けているのが現状である。民泊については、様々な問題を抱えているのだが、この先どうなっていくかはわからない。違法民泊が増え続ければ、何らかの法的措置も取られ、正規の民泊経営も難しくなるか、否か。現在は手探り状態の時期なのかもしれない。その上での民泊の営業は面白いと彼は思っていた。
このインバウンドの影響のある時期に稼いでおかなければ、やがてくるであろう観光客激減に耐えられない気がするのであるが、まあ、観光のシーズンがあるべき姿に落ち着くのだと考えれば、価格帯の破壊は考え物だと彼は思っていて、ホテルや旅館のたたき売りをするのは全体の存続を危うくするのではないかと憂慮している。
「今日はお仕事ですか。観光やったら、まだこの時期は絶賛観光シーズンちゃうから、お客さんも若干少ないんでゆっくり見て回れると思うんですけど、その顔はやっぱり仕事の顔ですね」
マスターは言いながら、外の様子を見た。春休み前で人通りは少ないが、春休みに入ったらわんさか人で溢れる。桜の見ごろもその年によりけりで、入学式前に満開になることが多い。これからどんどん観光客は増える季節である。
「おっしゃる通り、仕事です。日帰りなんで、また慌ててお世話になる事態にはならなかったんですけど、できれば、また私用でゆっくり宿泊させて頂きたいですね」
林はコーヒーを飲み干し、立ち上がった。
「ゆっくりしたいところですが、今日はこれで。これから、京都水族館へ行くんです。ちょっとした下見なんですけど、仕事と言いながら、楽しんできます」
「ええ、ぜひイルカショー見ながら、新幹線が通るのを写真に収めてきてください」
「お、そんなタイミングで新幹線が通るんですか?」
林は期待に満ちた顔で問うが、マスターは肩をすくめた。
「すみません、俺、行ったことないんで、そんな瞬間があるかどうかはわからへんのですけど、噂では、あるらしい、と」
林は笑って四百五十円をカウンターに置いた。
「イルカもいいですけど、オオサンショウウオとか京の里山っていう展示を目当てにしているので、イルカショーは見ないかもしれないです。それじゃ、また来ます」
彼はさわやかな笑顔で言った。
ドアの鈴がチリン、と澄んだ音色を鳴らし、林を見送った。
マスターはカップを洗って、店に置いてあるチラシに目をやる。京都水族館のチラシだ。できた当初と違って、今は色々な催しをしているようだ。小鳥が言うには頭上にペンギンが歩く場所ができていたり、オットセイのえさやりの時間を見られたり、一緒に写真が撮ることができたりするようになったという事だ。
「ま、当分行くことないわな。一緒に行く相手ができたら、別やけど」
彼の独り言は鈴の音よりも小さかった。
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