第2話 弘法さん
「お名前なんて言うんですか」
小鳥が客席の男性に尋ねると、彼は飲みかけたコーヒーカップを置いて、きちんと座り直した。
「
「博美さんね。私は
「それは、ことちゃんって呼んでくれってことですね。わかりました。それで、東寺はここからどれくらいのところにあるんですか。今日は他にも回りたいところがあるんですけど、時間配分とかよく分からなくて」
風間はカバンから折りたたんだ大きな地図を出して困ったように言った。
「早く歩いて十五分かな。京都駅の南北自由通路をまっすぐ南に下がって、八条口からまず右手に行くでしょ。それで歩道をずっと歩いて行ったら、入口が反対のとこにあるんです。そこは正門じゃないけど、一番無駄なく行けるコースじゃないかな」
小鳥は地図など無用、とばかりに大雑把な説明する。
「実は俺、地図が苦手で。男は地図に強いって世間では言われているらしいけど、なんでか反対方向に行っちゃうんだ」
お陰で東寺に行くつもりが東本願寺にお参りしていた、ということらしい。
「それで、他にどこに行きたいの?ついでだから案内してあげる」
すでに敬語は遥か彼方に置いてきた小鳥がニコニコして身を乗り出す。
「本当に?助かるなあ」
嬉しそうな風間の顔を満足そうに眺めて、小鳥は時計を見た。
「弘法さんやっているから東寺さんは人がいっぱいだと思うし、ちょっと多めに時間を見といた方がいいかも。私も見たいものあるから」
「弘法さん?」
「うん。毎月二十一日にお店が出るの。着物のお店やおせんべいとか、つくだ煮のお店とか、いっぱい」
「へえ。ことちゃんは何が目的?」
「私は毎月同じ所でおせんべいとちりめんじゃこと焼餅を買ってるの。あ、もちろん、お参りもしてるよ」
小鳥はムフフ、とおいしい戦利品を想像して顔をほころばせている。
「それじゃ、弘法さんに行って、その後は金閣寺と清水寺に行きたい」
風間のキラキラした提案を、小鳥の冷たい目が一蹴した。
「え?」
「金閣寺と清水寺って反対方向でしょう。ほら、地図見て。どっちか選んで、その方角に近い観光地を見た方が絶対合理的。まあ、行けなくもないのよ?バスも出てるし、まだ午前中だし」
小鳥は見た目がのんびりしているので、てっきり性格もそうなのかと思った風間だったが、案外しっかりしているなあ、と彼は変に感心した。その実、天然な性格は侮りがたい。
「で、どっち行く?」
「あ、じゃあ、清水寺で。明日、また金閣寺に行ってくるよ。昼には京都を発つんだけど」
「あまーい。今日のうちに遠い所を行くのがおすすめ。特に、清水寺なんて、近い所にあるでしょ?パッと行ってパッと帰れるような駅に近い場所は明日に取っときましょ。でも、注意しないといけないのは、清水寺方面行きのバスはいつも混んでいることが多いってことかな。帰りも、東山から京都駅行は満席で停留所も素通りされることが多いのよ。ま、私はいつも歩くけど」
「歩いてどれくらい?」
「早足で三十分。歩き慣れてない人にはお勧めしないけど」
「うーん。宿で聞いたのは、清水寺から金閣寺に向けて回ったらどうですかって言われたんだけど、今話を聞いていたら、どっちが正解かわからなくなるね」
「私が正しいに決まっているでしょ。さ、行きましょ」
小鳥はさっさとテーブルの上を片付けて、立ち上がると、風間の飲み終わったカップをカウンターに置いた。
「マスター、行ってきます」
朗らかに出発である。
「すみません、お嬢さんをお借りします」
風間が四百円をカウンターに置いて言うと、お辞儀して出て行った。
「お嬢さん!?俺、まだ三十やで。いくつの時の子やねん。ってか、小鳥はあんな顔しとるけど、結構いっとんのになあ。女は怖いな」
ぶつぶつ言いながら、マスターはカップを洗い始める。
チリン。
鈴の音が響く。
「いらっしゃい」
マスターは振り返って言った。
「アイスコーヒー」
若い男が言って、いつもの席に着く。この店の周辺で働いているサラリーマンだ。若いのに少し頭の頂点が寂しい。人相の悪い男と頭髪の寂しい男が同じ空間にいるのを見たら、小鳥はきっと大笑いしたことだろう。以前、実際に笑い転げていた前科持ちなのだから。
駅周辺の道で煙草を吸うと罰金が課せられるので、彼はここに煙草を吸いに来ている。今時珍しい喫煙できる喫茶店だからか、彼は定休日以外ほぼ毎日やってくる。どんなに寒い日でもアイスコーヒー、ブラックでストロー無しだ。
大きめのグラスに氷を入れて、マスターは朝に冷やしておいたアイスコーヒーのポットからなみなみとコーヒーを注いだ。もはや、儲けは考えなしの大サービスだ。
テーブルにアイスコーヒーを運んだマスターの人相の悪い顔を見ないように、彼は外を向いている。
オリジナルのコースターを敷いて音もなくコーヒーを置いて、マスターは流れる動作で立ち去る。
置物をも威嚇しそうな人相の悪いマスターは、ステレオの電源を入れてジャズをかけると、またカウンターの奥に陣取って、何やら作業を始めたのだった。
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