鈴の音の向こうに

七海 露万

第1話 喫茶、あります!

 チリン。

 ガラス戸を開けると、小さな鈴の音が鳴った。可愛らしい音のわりに、良く澄んだ響きは誰もいない店内を隅々まで探索する。

「おかえり」

 入ってすぐの明るいオークの木のカウンターには誰もいないはずなのに、声が迎えてくれる。

「ただいま」

 相沢小鳥あいざわことりはエコバックに入った野菜をカウンターに置いて、背の高い椅子にかけておいた水色のエプロンを手に取った。

 カウンターから、にょきっと人影が現れる。しゃがんでいただけで、誰もいないわけではなかったらしい。しかも、立ち上がるとかなり身長が高い。

「マスター、今日もお客さん来ませんねえ」

 小鳥はほのぼの言って、カウンターの内側に入った。

 ここは京都駅にほど近い小さな喫茶店である。細い路地の奥に入ったところにあり、立地的には喫茶店をやるには不向きな場所のような気がする。しかし昨今、ネットの普及でグルメサイトに広告さえ出せば、例え不利な立地でもお客さんは来てくれるはず、だった。

「なんかひどい言い方してるけど、お客さんがまったくこおへん訳ちゃうからね、知らん人が聞いたら誤解するような言い方せんといてな」

 マスターと呼ばれていた若い男はデニム生地のエプロンが恐ろしく不似合いで人相が悪いのだが、生真面目な様子で言った。

「あの、マスター、私、弘法さんに行ってきたいんで、早めに上がらせてもらっていいですか」

 小鳥が可愛らしく言うと、マスターは考える様に首をひねった。

 弘法さん、とは東寺で毎月二十一日に境内で開かれる市のことだが、一月は初め弘法、十二月は終い弘法と呼ばれ、毎月庶民が楽しみにしている市である。

「君、先月の天神さんの時もそう言って、早上がりしたやろ?んで、変な置物やら何やら買ってきて、うちの店に置いとくから近所でアンティークの店に鞍替えするんちゃうかって変な噂になってんで」

 マスターは困ったように言って、小鳥を見る。一方彼女はどこ吹く風、にっこり笑っている。

 ちなみに、天神さん、とは毎月二十五日に北野天満宮で催される市だ。京都ではお寺や神社の境内で市が開かれることが多い。これ以外にも、知恩寺で手作り市が開かれたりするのだが、寺社仏閣の多い京都らしいところである。

「マスター結構気に入ってたじゃないですか」

「そんなわけあるかい」

 マスターに突っ込みを入れられても小鳥は気にしていない。

「それで、早く上がってもいいんですか」

「ええけど、時間内はせっせと働いてや」

 ほう、と息をつきながらマスターが言った。

「もちろんですよ」

 小鳥はほうきとちり取りを持って店の外に出た。

 外は眩しい光に溢れている。寒い冬を越え、まだちょっと肌寒いが、温かい春が来たのだ。浮き浮きする気分を隠しきれない。

「すみません」

 小鳥が道路を掃除していると、後ろから声をかけられた。

「はい?」

「あの、こちらの方ですか?喫茶店ですよね?」

 若い男性は旅行者のようで、小さめのリュックにマウンテンパーカー、その下にはトレーナーと綿パンという軽装だ。スマホで地図を検索しながら歩いていたようで、チラリと見える画面には東寺にピンが刺さっている。

「喫茶ありますよ!」

 小鳥が「喫茶店ですよ」と言いたいのに間違えて言うと、彼は微笑んだ。

「喫茶、ありましたか。じゃあ、あったかいコーヒーもらおうかな」

 小鳥がドアを開けて本日初の客を招き入れる。

「いらっしゃいませ」

 低い声と堅気には見えない人相の悪さで客を招き入れるマスターに、天然育ち満載の小鳥の様子を見比べて、彼は妙な笑顔になった。

「お好きなお席へどうぞ」

 小鳥が言い、水の入ったグラスとお手拭きをすぐに用意して、彼の後ろに続く。彼は少し迷って、奥の席に座った。

「じゃあ、ホットコーヒーお願いします」

「はい。あ、さっき地図見てらしたでしょ?」

「ええ。東寺ってとこに行こうと思ってたんですけど、迷っちゃって、疲れたところに喫茶店が見えたわけです。有難い」

 彼が言うと、小鳥が満面の笑みになる。

「私も弘法さんに行こうと思っていたので、連れて行ってあげます」

「え?」

 小鳥はマスターを振り返る。

「マスター、早上がり、いいですよね」

「うん」

 マスターの低い声に冷や汗をかきつつ、彼は「ありがとう」と言った。

「じゃ、その前に、コーヒーゆっくり楽しんで下さい。結構、ここのコーヒーおいしいんです」

 小鳥は自慢することも忘れずに言って、カウンターへ戻った。

「知らない男に付いて行って大丈夫か?君なら心配いらんとは思うけど、一応な、聞いとくわ」

 小声でマスターが小鳥に尋ねるのを、客の彼は聞こえていても知らぬ顔をしておいた。

「マスター、どっちの心配してるんですか」

「もちろん、君や」

 マスターの答えに機嫌よく頷いて、小鳥が大丈夫です、と太鼓判を押す。

「私、危険な人と危険じゃない人の区別がつくんで、安心してください」

「君、犬みたいやもんな」

 苦笑して、マスタは薫り高いコーヒーを深い藍色のコーヒーカップに入れて小鳥に渡した。彼女はソーサーの上に置いて、慣れた手つきで客席まで運んで行った。

「お待たせしました。ブレンドコーヒーです」

 優雅な手つきでコーヒーをテーブルに置いて、彼女はカウンターに戻った。

「それじゃ、マスター。私、もうあがりますね。着替えてきまーす」

 小鳥は返事も聞かずにタイムカードを押しにカウンターの奥の控室に入って行った。

「ほんま、ちゃっかりしてんなあ」

 マスターの独り言が聞こえたかどうか、赤いリュックを背負い、控室から出て来た彼女はニコニコと客席の彼の向かいの席に座ったのだった。


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