第156話 赫奕たる異端~後編~


 斬撃により左前脚を失ったザッハーク。

 しかし、超生物としての矜持か、はたまた純粋に堪えていないのか、その口腔から悲鳴に類するものが発せられることはなかった。


 その姿に、俺は全身を濡らす鮮血の存在などには構わず、刹那の隙を狙おうと《三ヶ月宗親みかづきむねちか》の柄を握る。

 だが、周囲に漂う気配はむしろ冷静さを感じさせるほどの不気味なもの。

 反射的に動き始めていた身体を、本能が極大の警鐘を鳴らして制止する。


 ―――これは……誘いだ!


 俺は即座に追撃を断念。急制動をかけつつも大地を蹴り、《斬波定宗きれはさだむね》の力を使った急速離脱を選ぶ。


 直後、高密度の魔力反応と共に周囲の地面が隆起。次いで漆黒の炎が俺を飲み込もうとするかのように噴出した。

 やはり瞬時に右前脚を持っていかれた“戦果”を利用して奇襲技を張っていたのだ。


「こういう時の勘は、本当に頼りになるな……」


 ほんの刹那でも遅れていようものなら、片足くらいは飲み込まれていたかもしれない。


 範囲をさらに広げ俺を捕捉しようとするが、そこへ上空で隙を狙っていた嵐風あらかぜから放たれた鋼鉄の槍が急襲。

 高位魔物である鎧馬がいば――――その中でも変異種とも言える嵐風の魔法は、さすがの邪竜も展開した障壁だけで完全に防ぐことはできないようで、二対の羽を広げて後方へと大きく後退する。


 宙を移動しながら左手に握る《斬波定宗》を一旦鞘に収め、空を滑るように駆け寄ってきた嵐風の手綱を掴むと、俺は半ば引っ張られながらその背へと跨る。

 

「どうだ、相棒。あれなら上出来だろ……?」


 ともすれば荒くなる呼吸を落ち着かせ、短く息を吐き出し呼吸を整える俺に向けて、嵐風はこちらを見ずに鼻を強く鳴らして答える。


 「いいから目の前の敵に集中しろ」ということか。

 まことに愛想のない相棒の反応だが、こういうところが頼りになる。


「……わかっているさ、それができるような相手じゃないってことくらいな」


 首筋を撫でる俺に嵐風から返事の代わりに魔力が放出。崩壊した具足の背中部分を修復していく。

 まったく、気遣いで涙が出そうだ。


 さて、間一髪で脱出できたが、視線の先では天に向かって逆巻く巨大な炎の壁が現れていた。黒の炎が実に禍々しい。

 黒流衆が生物災害の群れを相手に使った《穂群野火ほむらのび》に近い魔法だが、秘められた威力と効果範囲がまるで違う。


 咄嗟に隙ではないと直感的に判断したが正解だった。

 あのまま追撃を仕掛けていれば、今の一撃でこちらがやられていた可能性もある。向こうの一撃はすべてがケタ違いだ。容易に天秤の傾きを逆転させてくれる。


『……驚いたぞ。まさか人間が放ったたった一撃でここまでの傷を負わされるとはな』


 燃え盛る炎の向こうからザッハークが、とても身体の一部を失ったとは思えないような感嘆の響きを投げかけてくる。


 ともすれば傲慢な物言いに聞こえるそれを、俺は純然たる事実として受け止めた。

 この竜には、間違いなくそれだけの力がある。たかが人間相手とハナから侮っている手合いの慢心とは大きく違う。


 切断面から零れ落ちていた血の勢いは弱まり、すでに傷は塞がりつつあった。

 よく見れば骨の周りで桃色の部分が新たに蠢いている。失った前脚の修復が行われているらしい。どこまでも規格外の化物だ。


 しかし、伝説に謳われた邪竜の強大な魔力をもってしても、瞬間的な再生を行うのは容易ではないことも判明していた。

 これで修復まで一瞬であればまともに戦う気が失せていたところだ。


「そう言ってもらえるとは……なんとも光栄だな……」


 不意に軽く咳込むと喉を熱い液体がせり上がってくる感覚。同時に口腔に血の臭いが溢れる。

 面頬めんぼうを退けて吐き出すと地面に鮮血が散った。

 先ほど掠めた息吹ブレス。あの一瞬に近い衝撃だけで内臓がやられたようだ。


 発動したままの《操気術》によって、体内を巡る“オーラ”が損傷を修復しているのがわかるが、思った以上に受けた内傷は深い。


『実力を見誤っていたことへの謝罪をせねばならんな』


「そんな水臭いことを言うもんじゃないぞ。誰にでも間違いはある」


 軽口を返すが、それほど悠長に構えていられる状況ではなかった。


 手負いの獣は恐ろしい。それもコイツは極め付けだ。未だに底がまるで見えていない。


『そうか。では……お言葉に甘えて再開といこう』


 言葉と共に邪竜が二対の翼を広げて大空に舞い上がる。

 左前脚を失っていながらザッハークの身体の均衡はまるで崩れていない。武器を手放した程度の傷ということか。


 残る右前脚が軽く振られると空気が動くわずかな感覚。

 直感に衝き動かされるように右手に握る三ヶ月宗親を薙ぐと虚空に金属音が響き渡る。


「糸か」


 邪竜の巨体からは想像もできない髪の毛ほどの細さの黒糸が、炎の壁の向こうから音もなく忍び寄っていたのだ。

 もし糸の接近に気付かなければ今ごろ俺の首は落とされていたに違いない。

 このような繊細な技巧を要する暗殺魔法さえ、この竜には容易いことなのか。


『ふむ、今までのものとは経路の違う奇襲技にも瞬時に対応してのけるか。面白いほどに隙がない』


 これで仕留められるとは思っていなかったのだろう。

 驚いた様子もなくザッハークは魔法を解除。そして邪竜の巨躯にさらなる魔力が渦巻き始める。


『では次の技はどうかな? ――――“驟雨黒炎しゅううこくえん”。これはそう容易く躱せぬぞ』


 開かれた口腔に浮かび上がっていたのは、今まで見てきたものとはまるで異なる攻撃魔法の組成印だった。

 邪竜の右前脚がふたたび掲げられると、それを皮切りとして地面が爆発。


 いつになっても顕現した炎が消えないと思っていたが、あれは攻撃ではなく本命への布石だったわけだ。

 炎を纏いながら上空へと舞い上げられた大量の土塊は付与されていた魔力により圧縮。そこに新たな性質を宿した魔力が糸のように絡みついた時点で、俺は次にどのような攻撃が放たれるかに気付き特大の悪寒に襲われる。


「よくもまぁ天変地異を容易くうつつのものにしてくれるものだ……」


 驚愕は覚えない。むしろ呆れに近い。こんなとんでもない生物をこの世に生み出した運命、あるいは“なにかの意志”に対しての。


『では、凌ぎきってみせよ』


 そんな俺に向かって振り下ろされる邪竜の脚。それによって引き戻されるように、はこちらへ向かって高速で降り注いでくる。

 奇しくも、それは先ほど俺が生物災害スタンピードの群れを葬り去った技、“月燐・星落とし”と同じ系統のものだった。


 違いがあるとすれば、完全に魔力によって形成されたものではなく、そこらにある物質を使って周囲を破壊し尽くす魔法であることだろう。

 なるほど、なんと魔力と環境に優しいやり方か。


「だが、これを“謝罪”って表現するか、普通!」


 邪竜と人間との文化の違いに俺の口から叫びが漏れるが、悠長に振る舞っていては殺してくださいと言っているようなものだ。


 これを前に小技を繰り出していては手数で負ける。

 すでに予備動作として左下へと下げていた《三ヶ月宗親》に“オーラ”を高速で流し込み、右上へ向けてと全力で振り上げる。


 呼応するように真下の嵐風が四肢で踏ん張るように軽く重心を落とす。

 徒歩かちであれば本来俺がやるべきところだが、今は致し方ない。俺は俺の役目を果たすだけだ。


「――――“月光・星流れ”」


 発動の言葉を口にすると同時に、優雅な弧を描く銀の刀身から流れ出た魔力が空中に魔法組成印を描き、そこから多数の光弾が群れとなって迸る。

 大技の反動を受け全身が軋むが、その中で俺の口唇は歪んでいた。


 さぁ、勝負はここからだ。


 勝ち筋の見えない戦いに湧き上がる高揚感。


 もちろん、いかに名物と謳われし《三ヶ月宗親》の力を以ってしても、このように面を制圧せんとする規模の攻撃を凌ぎ切れる保証はない。

 俺が放った技にしてもあくまで対軍用のそれであり、自分めがけて飛来する物質を打ち落とす曲芸業ではないのだ。

 

 だが――――やるしかない。


 嵐風が見せた空中機動力をもってしてもあれは回避しきれないし、まず破壊の範囲から抜け出すこと自体が不可能。それを看破したからこそ、邪竜は攻撃方法を変えてきたのだ。

 ならば、こちらとしては可能な限りの火山弾を打ち落とし、その上で展開した嵐風の障壁で防ぐしかない。

 まぁ、失敗しても周囲の地面ごと俺と嵐風が蒸発するだけだ。


 そして、その賭けにも近い一撃を託せる存在かたなは《三ヶ月宗親》しかなかった。

 刀の柄を握る腕に自然と力がこめられるが、それは恐怖によるものではない。


 

 それもこのように死を間近に感じさせてくれる存在と出会えたことに対する感情の奔流だった。


 視線の先で互いの放った技が激突。

 こちらへと殺到する黒の殺意に、天へと向かって伸びる純白の煌めきが喰らい付いた。


 魔力と魔力の衝突。それぞれが破壊の暴風へと変換され虚空を荒れ狂う。

 その中で撃ち漏らした炎を纏う土塊が地上へ着弾。俺たちへの直撃するものではないため無視したが、それでもすさまじい衝撃波が押し寄せる。

 空が唸り、風は嵐のごとく吹き荒れ、粉塵が舞い上がる。空を漂う雲は翻弄されるように余所へと流されていく。

 

 一瞬の光景の後に残されたのは静寂。

 滞空するザッハークの黄金の瞳にはさらなる戦いを望む闘志と殺意。


『……見事だ。ただひたすらに見事。人の身でこれほどまでに練り上げ、我が攻撃を幾重にもわたって凌いでみせるか』


 発せられるは幾度目かとなる感嘆の響き。そこに動揺は一切ない。

 まことに癪ではあるが、これも邪竜にとっては驚愕に値することではなかったのだ。


『では、このまま根競べといこう』


 邪竜の口腔――――ではなく、その周囲に複数の魔法組成印が浮かび上がる。


 その数、信じたくはないがゆうに十を超えていた。








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