第155話 赫奕たる異端~前編~
『本当に貴様は面白い男だ! 出会ってからのこの短い時で我を理解したと言ってのけるか!』
平野を吹き抜ける風の中、邪竜から脳裏へ響き渡る感情の波はかつてないほどに高まっていた。
しかし、それは激昂といった類のものではない。
歓喜だ。
それも今に至るまで出会えずにいた、己の
「これは異なことを申す。出会ってからの時間だけが互いを知るものではなかろうに」
『……まるで女人に向ける言葉だ。このような場で言うのもなんだが、その言葉、我ではなく別に向けてやるべき相手がいるのではないか?』
互いの間に渦巻く闘気はそのままに、戦いの場にはそぐわない空気が一瞬だけ流れる。
この竜、そういえば別れ際のリズとの会話を聞いていたんだったか……。
「……お前も十分に面白い竜だよ」
待っていてくれるくらいだしな、とはさすがに気恥ずかしくて内心で続けるだけに留める。
『くははは! ますます面白い。久しくなかったことだが戦う相手に興味を持った。――――貴様、名をなんという』
困惑の表情を浮かべるしかない俺を、黒竜の目が正面から射抜く。
向けられる視線の質がそれまでのものから大きく変わっていた。
なるほど、これでようやく認められたらしい。
戦いの前の会話において、かつて不死の帝たるイルナシド・アルメナランを倒したことには言及していたが、やはりそれだけでは不十分だったようだ。
この竜は、実際に刃を交えることで、真に自身の敵足り得るかを見極めようとしたわけだ。
「ユキムラ――――
双方の距離を確かめるような会話だが、これも今に終わりを告げる。
精一杯に不敵な表情を浮かべ、俺は眼前に悠然と佇むザッハークへ向けて視線を返す。
『どこまでも面白い。だが、誇って構わぬぞ。なにしろ、貴様は我が胸に名を刻むと思わせた数少ない存在なのだからな』
「精々自慢させてもらおう。……生きて帰ることができればな」
肌に刺さるような重圧が放たれる中、表情は崩さずに俺は淡々と答えていく。
向けられる圧力によって鼓動が速まる。
だが、そこに恐怖に類する感情は存在していなかった。
『ふむ? たった今、あれほどの大見得を切った割に、よもや死を恐れると言うのか?』
邪竜の表情に不理解の色が混ざる。
おそらく、この究極生物には理解できないのだ。
侍にとって生死は、なんら特別なものではなく表裏一体の存在に過ぎないことを。
「いや、戦いに臨む者にとって死は常に隣にあるものだ。それは自ら近付けるものでも遠ざけようとして足搔くものでもない。ただそこにあるがままに
いつでもいいとばかりに、右手に握った《
『それが貴様の死生観か』
なおも興味深げに竜の持つ黄金の瞳が細められていく。
さらなる言葉を待つかのように。
「然り。ゆえに、負けるつもりはない」
『ほぅ、我を倒すと』
爬虫類の貌がさも愉快だとばかりに笑みに歪む。
首を構えたまま、ザッハークが地響きを立て横に移動を開始。
「のみならず、殺す」
竜の動きを視線で追いながら、俺は湧き上がる衝動のままそう答えた。
『ならば――――やってみせよ!』
言葉と同時に膨れ上がる歓喜混じりの殺気。
そして、ほぼ呼び動作なしでザッハークの身体が急旋回。
高速で撓った長い尾が鞭となって強襲してくる。
否。それにどれだけの破壊力が秘められているかを考えれば、武器などで形容できるような生易しいものではない。
竜自身の重量が乗った一撃など、火山の噴火で舞い上がった巨石が降ってくるに等しい。
それに速度が合わさればもはや最強の近接攻撃となる。
瞬間、強く嘶く
そして、纏う鎧に変化が生じていた。
前脚と後ろ脚の付け根と馬蹄部に形成された噴射口から噴き出す圧縮空気が、俺の身体を嵐風ごと大空に舞い上げる。
向かう先は邪竜の姿。
嵐風の精緻極まりない姿勢制御と加速により、ザッハークのがら空きの背中へと接近。
《操気術》を起動させ、飛翔するままに《三ヶ月宗親》の刀身を竜の身体へと叩きつける。
――――激突音。
『ここで躊躇なく斬り込んでくるか』
邪竜から感嘆の響きが漏れる。
奇襲は不発だった。
天下の名刀と謳われた《
しかし、巨体からは想像もできないしなやかさで下方から伸びてきた右前脚の爪が、俺の放った必殺の刃を受け止めていた。
「遠慮なんかしたら失礼だろ?」
拮抗状態の中、震える声で虚勢を放つ俺の視線の先で、人差し指部分の爪と太刀が火花を散らして拮抗――――いや、厳密には違う。
なにしろ向こうは五刀流だ。
『違いない。では返礼といこう』
低く響く邪竜の言葉と共に、残る四本の爪が刃となって襲いかかってくる。
立て続けに生まれる凄まじい衝撃。すべて《三ヶ月宗親》を振るって防ぐが、いかんせん仕掛ける“機”を逃した。
こちらが押されていることを察した嵐風が新たな噴射口を作り出し、そこから生み出した力で後方へ飛翔。縦横無尽に襲い掛かる刃の群れから脱出する。
双方の距離が開いたところで、ふたたび竜の口腔に組成印が展開。
黒き熱線が追撃として放たれるも、その動きを読んだ嵐風には届かない。
多重展開した魔力障壁と緻密極まる立体機動で、容赦なく迫り来る死の光条を回避していく。
その中で、不意に嵐風の鼻先に魔力が収束。
鎧馬の力によって生み出された鋼の矢が超高速で射出され、ザッハークが展開した魔力障壁に着弾。邪竜の結界の表面で魔力がぶつかり合う激しい光が散る。
並の魔法なら
魔法に変換される前の魔力が暴走。空間を歪め強烈な爆発を引き起こす。
しかし、ザッハークに負傷の形跡は見受けられなかった。あの一瞬で魔法の展開を中断し、後方へと退いていたのだ。
とはいえ、わかったこともある。
いかに高度な障壁を展開する邪竜とはいえども、自分自身の魔力による“攻撃”を喰らえば、さすがに無事ではいられないようだ。
その姿を見届けながら、俺と嵐風は久方ぶりにさえ感じられる大地へと降り立つ。
意図せずして両者が間合いを空けて対峙。
張り詰めていた意識がほんのわずかに緩み、肺腑から押し出された空気によって方が上下する。
ほんのわずかな間の攻防にもかかわらず、ちょっとした合戦を駆け抜けてきたような感覚だ。
そんな中、誰よりも先に嵐風が強く――――「俺を忘れるな」とばかりに鼻を鳴らす。
『フム、体格差を活かした機動戦か。我と対峙した人間が生き残るためによく受けた戦い方だが、貴様らの動きはまるで違うな』
それまでの“非礼”を詫びるように、ザッハークは俺と嵐風の双方に目を向ける。
「そちらこそ、デカい蜥蜴のくせに蛇のように動く」
『これでも邪竜と恐れられた身なのだがな。それを前にしてなんとも無礼な物言いだ』
「あいにくとあまり育ちが良くなくてね」
『なるほど。だが、許そう。我は強者には寛大だ』
発せられたのは怒りの咆吼ではなく低い笑みの振動。
安い挑発に邪竜は乗らない。いや、乗る必要がない。
『それで、次はどうするつもりだ? 得意の剣技でも、仲間の力を借りても、我が身に傷はつけられなんだが……。大人しく漆黒の炎に呑まれるが良い』
今度はザッハークが挑発を仕掛けてきた。
……いや、厳密には挑発ではない。
近距離戦闘から魔法による遠距離攻撃、それどころか戦術級の魔法攻撃まで易々とやってのける自身の力を客観的に述べているだけだ。
しかし、この化物と出会うまで己を比類なき存在と思い生きてきた者が耳にすれば、純然たる事実によって身の程を思い知らされ、そして
だが、俺は違う。
すでに幾度となく敗北を経験し、ここ一番で“大切なもの”を守り抜けるだけの強さがないことさえ見せつけられている。
それでも――――ここまで
「地上が闇夜に満ちようと月は常にそこにある。たとえそれが
まだ俺の手には月の名を関する刀がある。
そして、こちらを見る
「嵐風、あれをやるぞ」
交わされる視線の中で短く告げると、嵐風は小さく鼻を鳴らして前を向いた。
これだけで理解したということらしい。
『ならば、貴様も
銀色に輝く牙の間から黒竜の口腔内に発生したのは竜の得意とする
特大の悪寒が背筋に走るが、それを抑え込んで俺と嵐風は前進を続ける。
ただの火球なら俺もこうはならない。赤色ではなくすべてを飲み込むような漆黒の火球に秘められた破壊力――――魔物の群れが消滅した光景を目撃しているからだ。
それでも、退くことなく刀身に“
呼応するように嵐風が前進。瞬く間に最高速へと到達。そのまま宙へと舞い上がり、多重展開した鋼鉄の矢を邪竜――――ではなく、その足元へと降らせ土砂の煙幕を形成させる。
「死ぬなよ相棒!」
嵐風の首元を軽く叩いて、俺は宙に身を躍らせた。
大地の力に引っ張られ始めた俺の前で、強く嘶いた嵐風が圧縮空気を放射してさらに高くへと舞い上がる。
そして、その空気を喰らって俺は地面へ向けて加速。
『笑止! この期に及んで目晦ましか!』
奇策を一蹴するような咆吼が上がり、舞い上がった粉塵が消滅。
先ほどの熱線など比較にならない漆黒を湛えた破壊の奔流が、本来とは真逆の位置に分かれた俺と嵐風の間を高速で通り抜け、その先に広がる蒼穹を塗りつぶさんとばかりに虚空へと抜けていく。
「ぐっ……!」
体内にまで押し寄せる衝撃。食いしばった歯の間から苦鳴が漏れ出るが、なんとか直撃だけは避けられた。
しかし、余波が背中をわずかに掠めただけで、鎧馬の中でも嵐風級の個体のみが生成を可能とする対魔装甲を容赦なく崩壊させている。
だが、邪竜は嵐風の気配を追いかけていて、まだ俺の存在に気付いていない。
内臓を軋ませる衝撃と痛みに耐えつつ、着地と同時に俺は地面を蹴る。
さらにその際、左手で抜いていた《
「どうしたっ! 足元がお留守だぞ!」
思った以上に内臓への損害を受けていたのか、喉元から迸った叫びの中に赤いものが混じっていた。
視線の先では上空に視線を向けたザッハークの姿。ヤツの目には届かないとわかりつつも俺はかつてないほど不敵に笑って見せる。
そして、加速のままに俺は邪竜の股の下へと潜り込み、白銀に輝く刀身を振るっていた。
もしも咄嗟に奇襲を察知し、真下へと叩きつけるように繰り出された左前脚がなければ、おそらく内股を走る動脈ごと大腿部を断ち切っていたに違いない。
だが、その代わりに――――
地響きを立てて俺の過ぎ去った場所に落下する物体。
次いで身体に降りかかる生暖かい感触。
それは切断された竜の左前脚と切断面から噴出する鮮血だった。
――――“
死角を狙って地を這うように進みながら、身体全体を軸に回転させ斬撃を放つ奇襲技だ。
歴史の転換点に現れる
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