第154話 わたし待つわ


 ハイスクルの街につい先ほどまで降り続いていた雨は雲の群れとともにあっさりと姿を消し、その後にはイヤになるほど晴れ渡った空が広がっていた。

 城壁の兵士たちが視線を向ける先――――地平線に近い場所から、不意に大量の土煙が舞い上がる。


 突如として舞い降りた巨大な竜と、それに立ち向かわんとする異邦人の激突の合図だった。


「ついに、はじまったか……」


 誰もが固唾を飲んで見守る中、不意につぶやきを漏らしたのはオウレリア大公国の公女であるリーゼロッテだった。

 彼女は、先ほどからそちらへ視線を向けたまま微動だにしていない。


 華美ではないが見事な装飾が刻まれたミスリル銀の鎧に身を包んだ姿は、さながら歌劇に謳われる勇壮な姫騎士そのものだ。

 しかし、生物災害スタンピードの群れとの激闘が邪竜ザッハークの襲来によって予期せぬ形で終結した今、彼女の双眸に宿る感情は剣を執る者のそれから想い人を待つ少女のものへと変わっていた。


「……なにもできないというのは、どうにも歯痒いものじゃな」


 空気を震わせる邪竜の咆吼が響き渡り、両者の放つ渾身の一撃が轟音と激突音の重奏を届ける中で、そっとリーゼロッテの耳朶へと届く声。

 気が付けば群青色のドレスの裾を吹く風にはためかせる《真祖》の姫――――エミリアが、姫騎士のすぐ横に立っていた。


「エミリア殿。貴殿はそう言うが――――」


 自分などよりもエミリアのほうがよっぽど戦力になるに違いない――――そう口にしようとしていたリーゼロッテの言葉は途中で途切れる。

 《真祖》《エルダー》の少女が浮かべる表情に、強い無念の感情が存在していることに気が付いたためだ。


 刀身に今まで吸ってきた血の赤を仄かに宿す太刀だけでなく、肩甲骨の近くで浮遊していた二対の漆黒の翼も今はもう姿を消しており、彼女が巷で恐れられている吸血鬼すら超える存在であることを匂わせるものはなにひとつ存在していない。


 それを見たがゆえに、リーゼロッテは放つ言葉を失ってしまった。


「……あの戦いに割って入ることは妾にはできぬよ。いや、可能か不可能かの問題ではないな。殿


 そう言葉を漏らすエミリアに動く様子は見られない。

 彼女ほどの実力――—―いかに《真祖エルダー》という超常の存在であっても、八洲という剣鬼たちの跋扈する国からやって来たひとりの侍と、古の世界を炎で蹂躙してきた邪竜が繰り広げる戦いに割って入っていくことはできず傍観者としかなり得ないのだ。


「……わたしは、ジュウベエ殿と出会ってから――――もちろん、すぐに彼のことを認めることができたわけではないが――――それでも、早いうちからずっと隣で戦えるような存在になりたいと思っていた。だが、それはやはりわがままでしかないのだな……」


 おもむろに、リーゼロッテはエミリアにというよりも自分自身へ言い聞かせるように言葉を発する。


「わたしはな、エミリア殿が羨ましかったんだ。貴殿にはジュウベエ殿と轡を並べるだけの力がある。わたしはあの地下迷宮でシャッテン相手にろくに戦うこともできなかった」


「リーゼロッテ様……」


 そんなリーゼロッテにとって、ユキムラの愛刀であった《蝕身狂四郎むしばみきょうしろう》と同化したことでさらなる力を得たエミリアの存在は羨望――—―嫉妬の対象でしかなかった。

 自分が思いとどまっているうちに、エミリアはどんどんユキムラの内側へ飛び込んでいこうとしている。

 そんな遠慮のない感情表現すら含めて、リーゼロッテは自由に振る舞える《真祖》の姫が羨ましかった。


「でも、


 しかし、今はもうそうではない。


 ユキムラがエミリアに助勢を望まなかった時点で、彼女もまたリーゼロッテと同じく“待つ側の者”となっていた。

 ならば、そこに負の感情を抱くべきものは存在しないのだ。


「わたしはそれで自分自身に絶望するような真似はしない。わたしはわたしで強くなる。それは、身の程を弁えずただジュウベエ殿の隣に立とうとするのではなく、自分が戦うべき戦場を見誤らない意志の強さを持つことだ」


 先日、リーゼロッテはユキムラに「ただ自分が傍にいることを知っていてほしい」と告げていた。

 そしてその際、ユキムラが口にした「本当に強くなる」という言葉。

 リーゼロッテもまたその言葉の本質を理解しようと誓っていた。


「それにしても、ユキムラ殿は予想のはるか先を行かれるものよ」


 空気を変えようとするかのようにエミリアは言葉を発する。


「あの時代ですら多くの超越者に恐れられた邪竜に挑もうとするとは。しかし……ザッハークは強い。幾多の猛者が挑み、二度と帰ってはこなかった」


「ユキムラ様はかならず戻られます」


「ええ。あの方はいつも絶望的な戦いであっても戻ってこられました」


 リーゼロッテたちと並んだイレーヌとハンナが語る。


 そんな中、不意に新たな気配の存在を感じた。

 視線を向けると城壁から降りてきたのか、ジリアンとルクレツィアの姿があった。


「なにをしにきたんだ?」


 特段意識したつもりはないのに、口調は自然と辛辣なものになってしまう。

 そんな自分への苛立ちがリーゼロッテの内部に生まれていた。


 彼女としては想いを寄せるユキムラを追い出すような真似をした《聖剣の勇者》デュランに対する感情には好意の欠片も存在しておらず、それが従者である彼女たちにも言葉の棘となって向いてしまうのだ。

 もっとも、その一件がなければリーゼロッテがユキムラと出会うこともなかったのは間違いなく、胸中に渦巻く感情はますます複雑なものとなっていく。


「よもや、この期に及んで邪魔をしようというのではないだろうな」


 自分でもよくわからない感情が言葉となって口を衝く。


 もちろん、リーゼロッテにも彼女たちが政治的な理由でここにいることは理解している。

 自分もジリアンやルクレツィアと同じく、ひとりの個人として振る舞うことはできない立場にいるからだ。

 今のような状況にあっても、彼女は公女という立場からは逃れられてはいないのだから。


「こんな場でそんなことを言い出すつもりはございません」


「あたしだってそうさ。……まぁ、言っても信用はされないだろうけどね」


 ――――あまりいい感情は抱かれていないようだが、それはおたがい様か。


 ジリアンとルクレツィアからリーゼロッテに向けられる視線も、依然として好意的なものとはいいがたかった。

 しかし、それは辛辣な言葉を投げた相手への敵意に類するものではない。


 これもまた羨望か、はたまた――――


 他人の内面を覗き込んでいるような気持ちになってリーゼロッテは思考を止める。

 これ以上、もやもやとした感情を抱え込みたくはなった。


「あたしたちのことが気に入らないのはわかるよ。それだけのことをしたからね。でも、今はただ見届けたいんだ、ユキムラの戦いを……」


「わたくしもです。勇者に付き従う人間としてではなく、今はこの大陸に生きるひとりの人間として、あの方が勝利されることを願わせてほしいのです」


「……それは、わたしがどうこう言えることではないな」


 好きにすればいい。

 視線を戻しながらリーゼロッテが口にできた言葉はそれが精一杯だった。


 ひとりの男の生還を待つ六人の女たち。それぞれが抱く感情は似通った部分こそあれどけして同じものではない。


 だが、彼の勝利を強く願っているということだけは共通していた。


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