第151話 降臨の邪竜


 ――――終わった。

 

 《三日月宗親みかづきむねちか》を振り抜いたままの姿勢で、俺は戦いの終結を迎えていた。


 幾重にも交わしたはずの剣が、今では一瞬のことのように感じられる。

 地面に転がる今は物言わなくなった鎧を見ていると、ほのかに湧き上がる惜別の感情。


 だが、それに浸っている暇はない。

 まだ戦い自体は続いている。といっても、後は残敵を掃討するだけだが……。


 そうどこか他人事のように考えながら俺は刀を下ろす。

 納刀はせず踵を返そうとするが、どうにも胸中に渦巻く違和感を拭うことができない。

 それどころか、感覚は大きくなるばかりだった。


 ゆっくりと近付いてきた嵐風あらかぜもまた、落ち着かない様子だ。

 なにかを威嚇するように鼻を大きく鳴らしている。


「ジュウベエ殿!」


 凛とした声が耳朶を打つ。

 顔だけを動かして視線を向けると、表情に笑みを浮かべたリズが馬で駆け寄ってくるところだった。

 彼女自身も戦闘に参加していたようだが、鎧に砂ぼこりがすこし付着していることを除けば負傷も見受けられない。


 馬から降りたリズは、こちらへと小走りに近づいてくる。


「終わったな。遠目でしか見れてはいないし、わたしが言っていいのかわからないが……見事な戦いだった」


「ああ。いい相手だった」


 静かに息を吐き出すように、俺はリズに言葉を返す。

 気が他所に向いているからか、自分でも不思議なほどぞんざいな言葉になってしまった。


「……? どうかしたのか?」


 そんな俺の反応に違和感を覚えたらしいリズ。

 こういうところはなかなかに鋭い感覚を持っている。


「いや、どうにも気が静まらない。たぶん、戦いを終えたばかりだから――――」


 そこまで言いかけたところで言葉が止まる。


 ――—―いや、これは違う!


 戦いを重ねてきたことによって研ぎ澄まされた感覚が俺の身体を突き動かし、即座に臨戦態勢に戻る。


 弾かれたように視線が向いた先は――――空だった。


 先ほど《三日月宗親》の力を振るったことで雲が散らされて現れた蒼穹。はるか遠くまで広がるそこにひとつの黒点があることに気付く。

 そして、それがだんだんと近付きつつあることにも。


「そうか、!」

 

 断片的だった諸々が脳内で一気に繋がり、俺は思わず強く歯を食いしばる。

 こちらへ向けて一直線に急速に近付いてくる物体。それが次第に形を明確にし始める。


 だが、おぼろげに見える今の時点でも、俺にはそれがなにかわかっていた。

 予感めいた感覚が確信へと変わり、全身の毛穴がにわかに粟立ち始める。


「ユキムラ殿! 見えるな!? が来たぞっ!」


 緊張を滲ませた鋭い声でエミリアが急接近してきながら叫んだ。

 彼女もまた迫りくる存在を感じ取ったのだろう。


 恐れるものなどなにもないがゆえに、隠そうともしない圧倒的な気配を。


「わかっている! ……リズ。俺から離れろ」


 《真祖エルダー》の姫君に応じつつ、同時にまだ状況を理解していないリズに向けても警告を発する。


「え? それはどういう――――」


 姫騎士が問い返す途中で、上空に影が差した。


 ……待ちきれずに加速したか。


 頬を流れ落ちる汗の存在を感じながら見上げた先にあったのは、まさしく伝説の威容。

 四十メルテンにも及ぼうかとする巨大な竜が、四つの翼を誇示するかのように広げて滞空していた。


「りゅ、竜……」


 リズの喉から呻きのような声が漏れる。

 その際、わずかに触れ合う金属の音が聞こえた。圧倒的な存在を前に身体が否応なしに震え、鎧同士が擦れ合っているのだ。


 だが、を目の前にしては、大半の生物はまともな精神状態ではいられないだろう。


 自らが漆黒の輝きを放つかのように佇む巨竜。

 先ほど戦った装甲大炎蜥蜴アーマード・サラマンダーとは比較することすらおこがましい。

 頭部には王冠のような角が並び、地上を這う者たちを見下ろす漆黒の中に一点だけ輝く黄金の瞳。それが生物としての次元が違う存在であることを見る者により強く印象付けていた。


「邪竜ザッハーク……。やはり甦っておったか……」


 隣に立ったエミリアも表情をわずかに歪め、かつてないほどに張りつめた声を絞り出した。


 邪竜をもっともよく知る――――同じ時代に生きていた人間の反応がこれなのだ。

 逆に言えば、それこそがこの存在ザッハークが化け物揃いの古においてどれだけ恐れられていたかを如実に物語っていた。


 邪竜がこの場の状況を観察しているさなか、鞭のような長い尾が後方でゆっくりと揺れている。


 漂うは静寂。

 すくなくとも、誰一人として生きた心地はしていないように思える。

 いつ竜の息吹ブレスが自分に向けて放たれるかと緊張と恐怖が高まるばかりだ。


『どこかで見たような小娘がいるな』


 低く響き渡るようななにかが脳内へ伝わってくる。


 エミリアを見下ろす邪竜の思念が、空間を伝わる波となって俺たちへと向けて放たれた。

 視線を正面から受けた白髪の少女の額に大量の汗が浮かび上がる。 


『……そうか、《真祖エルダー》の姫か。貴様も蘇っていたか』


 ある種の究極生命体が一瞬だけ見せたのは、広大な砂漠をさまよう中で水源を見つけたような実に生々しい感情の発露だった。

 あるいは郷愁と言い換えられるものかもしれない。


 しかし、その気配もすぐに消えてしまう。


「厄介なヤツが蘇ってくれたものじゃ……」


『なにを言うか。我が求めるは血沸き肉躍る戦いのみ。街ひとつを喰らい尽くすような無粋な真似はせぬ。。あれのほうが、我よりもよほどおぞましき者よ』


 エミリアの言葉に、わずかではあるが不快げな感情の波が黒竜から届く。


 しかし、エミリアは言い返さない。

 恐怖やそういった感情を抱いたからではなく、この場でそれ以上、自身にまつわる内容について語りたくないように見えた。


『まぁ、この場におらぬ者のことなどはどうでもよい』


 黒竜もまた、それが本来の目的ではないとばかりに話題を変える。

 あるいは、エミリアの苦々しい表情を見てそうしたようにも感じられた。


 圧倒的な気配を前にしながらも、俺は邪竜が見せた“人間臭さ”にすくなからぬ驚きを覚える。


『戦いの気配を感じたがゆえ、こうしてやって来てみたが――――貴様がそうか』


 そしてついに、黒竜の目が俺に向けれらた。


 たった今覚えた親近感など一瞬で霧散。

 ただ対峙している――――視線を受けてるだけにもかかわらず、心臓の鼓動が速まっていく感覚に襲われる。


 八洲でも、“白面金毛九尾の狐”や“傀嶽丸おおたけまる”、“朱天童子しゅてんどうじ”など伝説に語られるような存在は視線にすら魔力が宿るなどと言われているが、俺はそれを迷信の類だと馬鹿にはしない。


 今、こうして相対してこそよくわかる。

 ただそこにいるだけで心をへし折られてしまいそうになるモノは間違いなくこの世に存在するのだと。


 なによりも濃密な“死”そのものが間近にある。

 よくこの距離にいるリズが意識を保てているものだと感心してしまう。


 そんな中、重圧に耐えかねて逃げ出したのは、人間ではなく魔物たちであった。


 今であればなぜ生物災害スタンピードが起きたかもよくわかる。

 そう、間違いなくこの邪竜から逃れるためだ。


 しかし、その恐怖の存在が、結果だけを見れば自分たちを追いかけてきたのだ。


 悪夢の降臨を前に、ヤツらは恐慌パニックを起こすしかなかった。


 騎馬武者たちとの戦いの中であっても関係なく、壊走も同然に我先にと逃げ出そうとしている。


「……追わせるな、信重! 下がれっ!」


 咄嗟にもかかわらず、俺は自分でも驚くほどの声で叫んでいた。

 深追いすることによって騎馬武者たちの喪失を恐れたからではない。


 予感めいた“なにか”が強い警告を放っていたからだ。


「総員、退け! 追うでない! これは主命であるぞ!」


 声が届いたらしき信重は、俺の叫びに含まれた緊張感を感じ取ったのだろう。

 騎馬隊に向けて怒鳴り、それを受けた彼らは素直に追うのをやめて後退を開始する。

 武者たちの中には心なしか納得がいっていない様子も見受けられたが、その表情もすぐに消えていった。


 そう、魔物などよりも先に対処しなければいけない存在が今俺たちの目の前にいるのだから。


『ふん、実に見苦しきものどもだ。この場には相応しくない』


 黒竜から不快げな感情の波が放たれた。

 同時に周囲から集まってくる膨大な量の“魔那マナ”。


 瞬時にこれだけの魔那を魔法へ変換してのけるとは、予想はしていたことだが、あまりにも桁違いの魔力演算能力だ。

 汗が背中に浮かび上がる。


『我が力、死ぬ前にしかと目に焼き付けておくがいい』


 黒竜の口から、この場にいるすべての者へ刮目せよと宣告するように強烈な咆吼ほうこうが上がる。 


 まるで、「この程度のものに屈するのであれば、我が前に立つ資格はない」と宣うかのように。


 さながら音で攻撃されているような威力を秘めていた。

 エミリアが障壁を展開していなければ、俺はともかくリズがやられていた可能性は高い。


 そして、開かれたままの口腔に魔力組成印が展開。魔力を圧縮して作られた黒色の球体が生まれる。

 周囲の空間が歪むほどの濃密な魔力。

 このような攻撃魔法は数えるほどしか見たことがない。最低でも戦術級の威力は間違いなかった。


『――――“黒のほむら”』


 射出された黒球は、放物線を描くように飛翔し、逃げ出した魔物の群れの中心へと着弾。


 そして、地上に閃光が生まれた。


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