第142話 接近する破壊者


 地上では雨が降り注ぐ中、雲の上には無限にも思われる蒼穹そうきゅうが広がっていた。

 陽光が雲上を照らし、穏やかな波濤を白く染め上げる。

 これほどの高度ともなれば、そこには地上の比にはならないほどの冷たい風が一年を通して吹き続けている。

 ともすれば生物の啼き声かと錯覚する音だけが何もない空間を通り抜けていく。


 青い空の下、遥か彼方まで広がっている雲海。

 その上を滑るように悠然と飛翔する黒い影があった。


 黒曜石のような鱗が陽の光を受けて輝きを放ち、背中から生えた四枚の巨大な翼が真下の雲に触れて波濤はとうを散らす。

 長い尾は飛行状態にあるからか一直線に伸びており、翼が散らした雲の残滓ざんしを後方へとたなびかせている。

 わにのような頭部には王冠のような角が並び、その下の双眸へとはまる黄金の瞳は蒼穹の遥か向こう側を見ようとするかのようにわずかに細められていた。


 長き眠りより目覚めし古の邪竜 ――――《ザッハーク》の姿だった。


 四十メルテンを超えるほどの巨体にもかかわらず、小さな羽ばたきのみで滑空しているのはその身に宿る膨大な魔力によって重力を制御しながら飛んでいるからか。

 まさしく、この世の理だけで見てはあり得ない光景だった。


 そんな邪竜と恐れられしザッハークが雲の上へと出たのは、まったくの気紛れからだった。

 唐突に、どこまでも続く蒼穹を見たくなったのだ。


 ――――このまま、空の彼方まで飛んでいけないものだろうか。


 不意に邪竜の独白が思念の波に乗って放たれるが、誰もいない空ではそれを拾ってくれる者もまた存在しない。

 竜は小さく鼻を鳴らす。

 

 ――――孤独だ。魔族すら時の流れの中であそこまで弱体化していた。


 先般の戦いと呼ぶのも躊躇われる魔族との遭遇を思い出す。


 全力の一撃どころか、本気を出すことすらできない。

 あまりの弱さに、これならば封印から目覚めなければよかったとさえ思うほどのものだった。

 長きに渡る眠りの中でも朽ちることなく現世へと復活を遂げたものの、肝心の世界が変わっていては何の意味もない。


 目覚めてから、一度だけ感じた自分の血の気配と刃のような覇気。

 しかし、《黒の森シュヴァルツヴァルト》を出て以来、ふたたびそれを感じることはなかった。

 そのせいで方向を見誤り、魔族の群れと予想外に出くわすような事態ハプニングも起きた。


 こうなれば一縷いちるの望みに賭け、ふたたび長き眠りにつくべきだろうか……と考えてしまうほどの思考が、かつて世界を滅ぼしかけた邪竜の脳裏に浮かび上がっていた。


 ――――この世界にはもう――――。


 邪竜の鋭い目が寂寥感せきりょうかんに細められる。


 将来起こりうる事象にまで及んで思考することのできる能力は、知的生物の特権とも言える。

 それらの能力が発達していない生物では、自身の危機に直面して初めて本能的な生存を考え始める。

 それに対して知的生物は、予め危機をパターン化し、それを想定の上で行動をする――――いわば危機管理能力を持っていることになる。


 では、もしも。

 

 その生物は、どれだけ退屈に生きていかねばならないのだろうか。


 ――――なんだ?


 そこで邪竜は不意に不思議な波長を感じ取った。


 ――――感じる。大きな魔力が飛び交う気配を……。


 魔族の群れを倒してから、真っすぐ南へと飛翔を続けてきたザッハーク。

 ここにきて、竜は自身の進行方向からやや外れた場所に、この世界に復活してからはほとんど感じることのなかった濃密な魔力の波長を感じていた。


 ――――これは戦場いくさばか。面白い……。


 邪竜 ザッハークは表情の変化が読み取りにくい竜の口元を歪める。


 喉の奥が唸り、その巨躯がわずかに揺れる。竜の笑いだった。

 ザッハークの上げた笑いは、その身の巨大さがゆえに揺れとなったのだ。


 ――――参ろうか。せめて、良き戦いがあることを祈って。


 身体を右へと傾けて空を切り裂き、邪竜は黄金の瞳を輝かせながら進路を南西へとる。


 その向かう先は、まさに今ユキムラたちが戦いを繰り広げている方角だった。



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