第134話 嵐の来たる前に
「物資の手配は急ぎ進めてくれ。明日には西へ向かいたい。必要なものは――――」
昼前の商人街の雑踏を縫うように歩きながら、俺は背後にいるハンナへと指示を出していく。
「承知しました。大丈夫だとは思いますが、急がせます」
俺の指示を受け、ハンナは手に持っていた八洲紙へと内容を控えていく。
特定の誰かと会うわけでもないため、今日は彼女が元来好む活動的でラフな格好だ。
やはり、このほうがハンナには似合っていると思う。
出掛けの際にそう告げると嬉しそうに笑みを浮かべたのが印象に残っている。
作業を終わえたハンナが小さく顔を動かすと、付近から近付いてきたひとりの男がそれをさりげない動作で受け取り、そのまま人混みの中へと消えていった。
あれも身の回りに配している忍のひとりなのだろう。
「羊皮紙に比べるとずいぶんかさばらずに使えるのじゃな」
俺の左側に立ち、こちらの腕に腕を絡めているエミリアが周りにだけ聞こえる声で感心したような声を漏らす。
真祖の令嬢ではなく深窓の令嬢を装う彼女だが、色素の薄い金色の髪を風になびかせる姿はやはりただそこにあるだけで美しい。
「しかも安価ときている。こういったものがもっと広く普及するといいのだが」
同意するように俺の右側に立つリズが口を開いた。
さすがに、エミリアに対抗して右腕に絡んでくるような真似はしない。
いや、正確に言ってしまうと、何度か試そうとしたものの彼女の許容範囲を超えているのか顔を真っ赤にして諦めた経緯はあった。
リズも今日ばかりは護衛の俺に任せ鎧も剣も身に着けることはせず、エミリアと合わせて平民――――裕福な商人の娘に見える格好をしていた。
彼女の気品すら感じる美貌を隠すのは容易ではないが、本人が気分を和らげていることもあってその目論見は知らずのうちに成功していた。
エミリアと相まってお忍びの貴族令嬢くらいには思われるかもしれないが、それでも下級貴族くらいの認識に留まることだろう。
「そうだな。しかし、羊皮紙に代わって広めようとするなら結構な時間がかかりそうだな」
「ああ、そこは仕方がない。それぞれの歴史があるからな」
リズが言うように、大陸では未だに羊皮紙が主流となっているが、海に閉ざされた温暖な八洲の気候は羊の生息には適しておらず、また獣肉食の習慣もさほどではない。
そんな事情もあって、羊皮紙は八洲の地には入ってきたもののほとんど広まらず、早々に別の形で文書を保存する手段が考えられた。
それが、特定の植物の外皮を取り、いくつかの工程を経て繊維をほぐし、それを他の材料と混ぜて作られる“
この発明により、八洲では羊皮紙に頼らずとも簡単に書物を残すことができるようになった。
羊皮紙よりもかさばらず軽量で安価。そして長持ちもするとなれば使わない理由はない。
「まぁ、今回の件が無事に片付いたら、商売のネタに考えてみてもいいさ」
生きて帰ることができればとは口にしない。
そんなことはこの場にいる誰もが理解していることだ。
「これを大陸に持ち込んで商売しようと考える骨のある人間がいないのがなぁ。とんだ島国根性だぜ」
ハンナの横を歩いていた征十郎が口を開く。
この弟分もまた、今回の生物災害への対処に協力を申し出てくれた一人だ。
――――冒険者ギルドの動きを待っていることなどできない。
そう判断した俺たちは、最悪の場合は自分たちだけでも戦わざるを得ないと、王都から西にある街ハイスクルで押し寄せる生物災害を迎え撃つと決めていた。
そんな準備に追われる中、俺はしばらく留守にすると征十郎に告げるべく色街の娼館を訪ねた。
今回の件は、俺の勝手な事情によるものなので協力してくれと言うつもりはなかった。
ところが、そんな俺を怪訝に思ったのか、征十郎は珍しく理由まで訊いてくる。
仮にも自分を慕ってくれる弟分に不義理はできないと正直に答えたところ、
「いいですねぇ、大きな
征十郎からの言葉は、はっきり言ってしまえば予想外のものだった。
あくまでも人間ないしは魔族との戦いならば興味を示すかとばかりに思っていたのだ。
「不利な戦なんて次元じゃないぞ?」
「勝てるとわかってる戦なんて面白くありません。魔物と戦いたいかと問われればそれほどではないですが、俺は天ヶ原の戦いには参戦できませんでしたからね」
「征十郎、おまえ……」
「今こそ、
男臭い笑みを浮かべて愛刀を取って見せた征十郎。
八洲にいた頃から長い付き合いがあったにもかかわらず、俺はこの弟分のことを真に理解してなかったと恥じ入るばかりだった。
「征十郎様の言いたいこともわかるのですが、やはり国外との取引は大御所様がかなり神経を尖らせているようです」
ハンナの声で意識が現在へと戻る。
「……またあの狸爺か。あいつのせいで今に国が傾くぞ」
ハンナの言葉に征十郎は不満を隠そうともしない。
やはり、自身を含めた多くの人間の運命を変えてしまった先代大将軍にて“大御所”の夜刀神永秀のことが嫌いなのだ。
「まぁ、そう言うな。誰もやらないなら、いっそ俺たちでやってしまえばいいだけの話だ。持ちかければ乗ってくる気概のある商人だっているだろうさ」
これ以上続けるのはよくないと思った俺は話題を変える。
そうは言っても、大御所に対して俺自身にも含むものがないわけではない。
実兄たる雪頼の死に関係している相手でもあるし、俺を八洲にいられなくした人間でもある。
だが、同時に弟分のひとり信秀の父親でもあり、そういった諸々から彼の御仁に向ける感情は複雑にならざるを得ない。
「もしそうなったら、わたしから本国に紹介してもいいしな。身内だからではなく、これはきっとオウレリアに役立つものになると思うよ」
俺が抱える事情を知るリズはこちらの内心を察したのか、努めて明るく振舞おうとする。
もちろん、そこには待ち受ける戦いへの不安を隠そうとする側面もあるだろう。
だが、それはリズだけではない。
皆それぞれに己が感情を胸中に秘めている。
だからこそ、この場にいる面々はその会話に敢えて乗った。
「そりゃまた面白そうだ。これでも実家じゃ染物の技術も叩き込まれていますし、やろうと思えばこっちでも材料さえ揃えば作ることだってできる」
表情を崩して賛同する征十郎。
この時ばかりは、さすがに俺も女と剣を振るう以外にこいつが興味を示すものがあったのかと思ってしまう。
「無理に国と事を構える必要もあるまいよ」
「そっちの方が安全でしょうね。いっそイレーヌの商業ギルドを巻き込んでもいいかもしれません。まぁ、八洲から刺客が送られた方がジュウベエ様と征十郎様は喜ぶかもしれませんが……」
「「おいおい、そんなことは――――」」
意図せずふたりの言葉が重なって、それを見たハンナとリズ、それにエミリアが大きく笑いだす。
戦いの前のこのような時間を過ごせるのはきっと幸せなのだろう。
そんなことを考えている俺に気の緩みがあったのか。それはわからない。
しかし――――
「ユキムラ様……?」
そこで背後からかけられた声に、俺は反射的に足を止めざるを得なかった。
記憶にある声だったからだ。
弾かれたように振り向くと、そこには見知ったふたりの女の姿があった。
「ル、ルクレツィア……。それと、ジリアン……?」
置いてきたはずの過去が突然現れた瞬間だった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます