第132話 舞い降りたるは
西から流れてきた雲が、蒼穹を隠すかのように辺り一面を覆っていた。
何者にも邪魔されることなく流れる灰色の群れは、幾重にも重なり合って天高くから降り注ぐ陽光を遮断し、地上をほのかに暗くすると同時に地表からも幾ばくかの熱を奪っていく。
曇天の下には赤茶けた岩肌の丘が小山のように点在している。
その間にある大地も、同じような色合いとなり辺りに広がっていた。
バルベニア王国とノウレジア王国が国境を接する人類圏でも最北端に等しいアビサレア地域は、その異常なまでの環境のせいで生物が生きていく環境とはなっていない。
ここはこの大陸における生命の空白地帯であった。
辺りをくまなく探しても、やはり気配はまるで感じられない。
そんな荒涼とした大地に蠢く異物――――幾多の影があった。
先日バルベニア王国南西部で発生した
住処から逃げ出した魔物の群れがノウレジア公国へ向けて進む中、それらとは別にはるか北方から人類圏へと進軍する集団があった。
十数人の魔族を中心に、それらを守護するかのように高位の魔物たちが周囲に群れをなしている。
ただ歩みを進めているだけにもかかわらず、発せられる気配は尋常ではなく、もしも付近に生物がいればただちに遠くへと逃げ出していたことであろう。
「もうじきノウレジア公国と呼ばれる人間どもの国へ到達します」
「そうか、長かったな」
魔族の集団でも中心にいた人影のうち、やや後方に控えていた影が語りかけると中心を歩む巨躯が短く応じる。
彼がこの侵攻部隊の指揮官であり、その傍らにいるのが副官だった。
「さすがに兵たちにも疲れが見られます。まずは付近の村を襲撃し、多少なりとも食料を確保するべきかと」
「細かな差配は貴様に任せる。ちなみに、あとどれくらいと予想している?」
低い声で語りかけるが、そこには兵たちへの配慮が垣間見えた。
それを受けた副官は小さく笑みを浮かべそうになるが、寸前で気付いてそれを押しとどめる。
指揮官はそのような反応に対して苦言を呈することはないが、性格的なものなのかそこに気付かれることをひどく嫌うのだ。
「進軍状況にもよりますが、数日以内にはヤツらの都へと侵攻できることでしょう」
「うむ。これで人間どもが押し上げようとしている戦線も遠からず崩壊する。この不毛の大地を抜けるのはいささか骨も折れたが、この奇襲さえ成功させられれば、魔王軍が攻め入る好機ともなろう」
彼らは魔王軍南部方面団第一侵攻隊と呼ばれる少数精鋭の部隊だった。
一年ほど前に発生した命令系統の乱れによって、ここ最近組織だった攻勢を仕掛けられずにいる魔王軍が、形勢を逆転させるべく送り込んだ切り札ともいえる部隊である。
過去に踏破しようと試みる者すらほとんどいなかった人類連合軍の隙間を縫って侵入し、人間たちの繋ぎ役のような存在となっているノウレジア公国へと奇襲をかけようとしていた。
「ついに、反攻作戦が始まるのですね、ゴルメキオス様」
「我らの悲願となる大陸への南進はこの一戦にかかっている。メルキーザ、補佐を頼むぞ」
メルキーザと呼ばれた細身の副官が熱を帯びた視線を向けて語りかけると、部隊の指揮官である巨漢――――ゴルメキオスが鈍色の鎧と背中に背負った大剣を揺らして答える。
一連の立ち振る舞いといい、その身から漂う風格といいまさに武人を形にしたような魔族であった。
「承知しました。しかし、先に勇者を始末しなくてもよろしかったのでしょうか?」
「……不要だ。当代はあまりにも弱い。私が出るまでもないだろう」
物事を考え過ぎるきらいのある
人類勢力の中には当代 《聖剣の勇者》の存在も確認されていたが、未だ脅威となるレベルではないと報告が上がってきている。
――――まさかサイクロプス相手でも苦戦をするようではな。
ゴルメキオスは内心で小さく嘆息する。
武人と呼ばれた自分が相手をするまでもないと、そちらは東部方面軍に任せている。
一度だけ差し向けた中規模の軍勢が壊滅したという報告も受けたが、それはおそらく勇者と軍が共同で動いていたのだろう。
そうでなければその後の報告との差異があまりにも大きすぎる。
一度だけのそれを除き、なかなか勇者たちの動きを掴みきれていないのもあるが、それでも現状明確な脅威にはなっていないと、魔族たちは人類連合軍との戦いを優先させていた。
「いずれにせよ、今は我らの役目を果たすだけだ。今回の任務は陽動に等しい。あくまでも速度を優先した一撃離脱でいく。短時間で最大の損害を与え、速やかに撤退する。魔物どもには血に酔いしれぬよう厳命しておけ」
「はっ。ただちに――――」
そんな時、不意に頭上が暗くなった。
何事かと見上げると、そこには漆黒の影が滞空していた。
存在していたのは四つの翼を広げた四十メルテンにも及ぼうかとする巨大な姿。長い尾が後方で左右に揺れている。
空を背にして影になっていることを考慮しても、まるで自らが漆黒の輝きを放つかのように佇む巨竜であった。
魔族たちを見下ろす黄金の瞳には絶対覇者を思わせる風格を有している。
周囲の魔族たちが困惑を見せる中、魔物たちが小さく威嚇の唸りを上げ始める。
「竜……? なぜこのような場所に……?」
不理解の色の混ざった声がメルキーザから発せられる。
それもある。だが、それよりも、なぜ誰もこれほどの巨体が接近することに気付かなかった?
副官の横に立つゴルメキオスの額へと本人も気付かぬうちに小さな汗が滲み出る。
しかし、彼の感じた違和感は、この時代に生きる魔族の常識によって脳の奥へと追いやられていく。
『なにやら大きな気配がすると思って見に来てみれば、このような場所に魔族の群れがおったか』
ザッハークから発せられる念話の波動を受けたことで、ゴルメキオスたちは思考を中断。目の前の竜へと視線を向ける。
「竜がこの付近にいると聞いていたか? 今現在、古代竜の動きは確認されていなかったはずだが……」
「おそらくですが、比較的若い竜ではありませんか? 体躯こそ大きなものの、それに反して身体の鱗に長い年月を経た摩耗が見られません」
そう、彼らが基準としているのは“この時代”に生きる竜であり、遥か過去の世から蘇った邪竜ザッハークの存在を知らないためにこのような認識となっているのだ。
それを理解したザッハークは、わずかではあるが時代に取り残されたような寂寥感を覚える。
『なるほど……。時の流れはこのような現象を引き起こすか。つくづくつまらない世界に戻ってきてしまったものだ……』
「なにを言っている……? 竜の一族であれば、魔族との盟約に基づき人間どもの国を攻める我らに助勢してもらおうか!」
ザッハークの独白の意味がわからなかったゴルメキオスは、今の竜との間に交わされた盟約を持ち出す。
『魔族との盟約だと……? くははは、そうかそうか。この地に残された者の強さではそうせざるを得んか……。竜も落ちぶれたものよな。このような者どもと組まねばならんとは』
哄笑の波動が伝わった瞬間、魔族たちから濃密な殺気が放たれる。
「貴様、魔王様からの使命を帯びし我らを愚弄するつもりか……?」
『ほう、存外に威勢はいい。だが、中身はどうかな』
黒竜がわずかに――――身じろぎほどの動きを見せると、それへと呼応するようにゴルメキオスたち魔族軍が臨戦態勢に入る。
……面白い。
東へと向かう途中の気紛れに姿を現しただけではあるが、ザッハークはここで幾ばくかの“暇つぶし”をしてもいいと思い始めていた。
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