第121話 強そうに生きていくよりも


 屋敷を出たリーゼロッテは、裏庭へと出てしばらく歩いていく。


 夕暮れ時の裏庭は、沈みゆく夕陽が芝を鮮やかに染め上げていた。

 静かに吹きつける涼しい風が、その赤く染まった群れを波のように揺らめかせる。


 ほどなくして、リーゼロッテはユキムラの後ろ姿を見つけた。


 両腕で構えるは遠い異国のかたな 。

 それは、まさしく今よいの空に浮かぶ三日月のように、透き通らんばかりの輝きと優美な弧を併せ持つ。


 そして、剣を構えるユキムラは地面へと打ち込まれた鉄杭が如く、微動だにしていない。

 普段は見ることのない剣鬼の姿を見て、リーゼロッテは自然と歩みを止めた。


 彼我の距離はおよそ十五メルテンほど。

 にもかかわらず、不動の姿勢を続けるユキムラの身体からは凄まじいまでの剣気が放出されていた。


 リーゼロッテは自分の肌が泡立っていくのを感じた。


 剣を抜いて真正面から対峙しているわけではない。

 にもかかわらず、リーゼロッテの身へと伝わってくる抜き身の圧力。


 あまりにも荒々しいユキムラの剣気を前に、リーゼロッテの背中に汗の珠が浮かび上がる。


 まるで、喉元に切っ先を突きつけられているようだ……。


 ついには額から頬へも汗が流れ落ちていく。

 ひとたび気を抜けば肺腑が痙攣を起こしそうになる中、ふと身体に突き刺さるように放出されていたユキムラの気が、いつしか歳月を経るかのように次第に治まっていくのが感じられた。


「これは――――」


 リーゼロッテが違和感を感じての言葉を漏らす中、先ほどまで周囲にあるすべての存在に敵対するかのように放射されていた剣気が霧散した。


 依然としての剣は抜かれたまま。

 リーゼロッテには見えぬ何者かと対峙するユキムラの姿勢は変わらない。

 しかしながら、その剣の気はついには一点のみへと向けられ、まさに握る剣の厚みにまで圧縮され放たれていた。


 また、ユキムラの背中から伝わる気配も、先ほどの荒々しいものからは一転。

 瞑想に入る精霊神殿の高僧を凌ぐほどの穏やかさ――――静寂無我の境地に入っていた。


 自身も剣を振るうリーゼロッテには即座に理解できた。

 その刃の静謐さ、それと矛盾せずに存在する研ぎ澄まされた鋭さが。


 あの切っ先の前に立てばどうなってしまうのだろうか。ともすれば、ジュウベエ殿の剣境を幾分かでも理解することができるのでは……。


 自身には遠く及ばぬ剣の境地を前にして、リーゼロッテの心にそれを知りたいと思う心が生まれる。


 だが、すぐにそんな想いを心の内より追い出す。


 焦ろうとするな。わたしがすべきことは“それ”ではない。


「ジュウベエ殿……」


 邪魔をすることになるのではと一抹の怯えを感じつつも、このままでいることに耐えられなくなったリーゼロッテはついにユキムラに向けて声をかける。


「……リズか」


 刀を抜いたままのユキムラは、自身に投げかけられた声を受け、構えていた《三ヶ月宗親みかづきむねちか》の切っ先を地面へと下ろした。


 同時に、ユキムラの身体から剣気が完全に消失する。

 緩やかな弧を描くように、三日月そのものと錯覚しそうになる優美な刀はくるりと反転。

 無音のまま朱塗りの鞘へと収められていく。


 鍔鳴りの音を最後に、気配を解いたユキムラはリーゼロッテに向き直る。


「どうしてここに?」


「……セイ殿から聞いた」


 どのように答えるべきか悩んだ末に、リーゼロッテは生来の正直さで口を開く。

 それが長所ではあるのだろうが、どうにも彼女は咄嗟に嘘をつけない性格としていた。


「……そうか」


 対するユキムラは表情を変えなかった。


「わたしは――――」


「あまり恰好がつかないから、語るつもりはなかったんだが」


 言葉の続かないリーゼロッテを補うように、ユキムラの鋭さを宿したかおに幾分かの苦い笑みが浮かぶ。


「恰好がつかないないんてことはない!」


 知らずの内に、リーゼロッテは声を荒げていた。

 ユキムラの顔にも驚愕の感情が浮かび上がるが、一番びっくりしたのは彼女自身だ。


「そんなことで、わたしはジュウベエ殿を軽んずるなんてしない!」


 反射的に口にしてしまったことを、リーゼロッテは猛烈に後悔していた。

 武人の勝敗を“そんなこと”と言ってしまった己の軽挙さに。


 しかし、それでも口を衝く言葉は止まらなかったのだ。


「その様子だと、征十郎は今回の件以外にも喋ったんだな。あいつめ……」


 身体が熱を帯びていたが、ユキムラの言葉を理解して今度は背中が寒くなる。

 これでは、征十郎が語ったことをそのまま伝えてしまったようなものだ。


「セイ殿は悪くない。わたしは、ただ――――今回のことを話してくれなかったのがちょっとだけ寂しかったんだ……」


 自分の想いを口に出す――――ただそれだけのことなのに、リーゼロッテの語気は弱いものとなっていた。

 それは、オウレリア公国の公女として自分の感情を可能な限り表に出さないようにしてきた反動だった。


 だが、昔のままの自分でいては想いを伝えるなどできはしない。


 きっと後になって自分はこの選択に苦しむことになる。

 そう理解しながらも、リーゼロッテは迷うことをやめた。


「ジュウベエ殿には、出会った時からずっと助けられてばかりだった。不死の帝と戦った時もそうだし、大公の儀の時も、それに今回の《眷属ミディアン》の襲撃だって……」


 そう語るリーゼロッテの瞳には、自分が手を伸ばしても届かない場所にいるユキムラへの剣士としての悔しさと、それと併存する異性への憧憬が浮かんでいた。


「だけど、それはジュウベエ殿が絶対に負けないと妄信しての感情じゃない」


 公国を出て以降、ユキムラは自分のことを公女リーゼロッテではなく、ひとりの人間――――“リズ”として見てくれている。


 それだけでも幸福であるはずなのに、愚かな自分はさらなるモノを求めてしまう。


 いつかはリーゼロッテも公国へと戻らなければならない。

 そうなれば、大公位に就くか否かをふたたび問われることにもなる。

 どれだけ長く見てもそこまでしか共にいられないと知りながら、リーゼロッテはユキムラの背中を追いかけようとしてしまう。


「叶うことなら、わたしはジュウベエ殿の隣で戦える、背中を預けられる戦友になりたかった」


 リーゼロッテの独白を受けるユキムラは答えない。


「でも、それはできなかった。隣で戦う力では、わたしはセイ殿に遠く及ばない。だけど、今だけでもいいから、わたしがいることを知っていてほしいんだ……」


 不意に視界が滲むのを感じたリーゼロッテは、そのままユキムラの胸元に向けて飛び込んでいた。

 浮かび上がる涙を見られたくなかったのもあるが、ここで一歩踏み出さなければ永久に何も変わらないと思ったのが一番の理由だった。


「今の俺には、これくらいしかできないが……」


 言葉と同時に、リーゼロッテの背中にユキムラの腕が回される。

 久しぶりの感覚だった。


「……わかっている。でも、無理だけはしないでくれ。わたしを救ってくれたのはジュウベエ――――いや、ユキムラ殿だ。昔のことなんてどうだっていい。たとえ今だけでも、あなたがいてくれるだけでわたしは……」


 胸元からユキムラを見上げるリーゼロッテは小さく微笑む。

 自分が公国へ戻るよりも先に、“ジュウベエ・ヤギュウ”から“ユキムラ・クジョウ”へと戻らねばならない時がやってくるのかもしれない。

 リーゼロッテからしても、ユキムラはを宿しているように見える。


「ありがとう、リズ。だが、大丈夫だ。俺は強がるだけで生きていくつもりはない。本当に強くなるために、俺はこの壁を乗り越える。それを、見ていてくれ」


 たとえこれが今だけものであっても、こうして互いに触れ合った時が消えることはない。


 ならば、今すこしだけ。

 少しでもこの時が続くように。


 そして、自分自身が今は遠く見える背中に、この時に手を触れられている背中へとわずかにでも追いつけるように。


「うん……。だが、見ているだけでいるのはイヤだ。わたしも強くなる」


「リズ……」


「他の誰にも決めさせない。これは自分で決めたことなんだ……」


 ユキムラの肌のぬくもりを感じながら、リーゼロッテは決意の言葉を口にする。


 自分自身も前へ進まなければ、彼の隣に立つことなど夢のまた夢。

 それが彼女の出した答えだった。


「しばらくはお預けだな。次はもうすこしワガママを言わせてもらう」


 顔を上げて笑みを浮かべるリーゼロッテ。

 名残惜しさを感じながらも、ユキムラの胸元を押して自分からそっと離れていく。

 

 今この時から、リーゼロッテは進み始める。


 ただ、自分自身の歩みで前へと向かって――――。








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