第120話 九条雪叢という男
学園で起きた事件から、早くも数日が経過していた。
表沙汰にはできないことは多々あれど、それでもあれこれと対策をしなければならないとの理由で、全学生には急遽一週間の臨時休暇が与えられることとなった。
事件にかかわっていない学生は突然の休みを大いに喜んだ。
しかし、当事者であるリーゼロッテからすれば苦い笑いを浮かべるしかない。
事件を知る者を遠ざけておき、その間に何らかの対策を練るのが主な目的だろう。
そして、その裏にさっさと関係者の記憶を曖昧にさせてしまおうという目論見があったのもおそらく間違ってはいないはずだ。
「うーん、すこし疲れたな……」
そんな時間を持て余す日々の中、リーゼロッテは屋敷の自室で書いていた
「なにかお茶でもないだろうか。あ、でもハンナ殿もイレーヌ殿も今は留守にしていたな」
たまには自分で淹れるかとエントランスホールへと出ていくと、ちょうどユキムラが外へ出ていくところであった。
手前にはそれを見送る征十郎の後ろ姿。
普段であればついていくなりするであろうにとリーゼロッテは小首を傾げる。
「セイ殿、なにかあったのか?」
意図せずして外へと出ていくユキムラを見送ることになったリーゼロッテは、階下に降りて立ったままでいた征十郎に訊ねる。
「……あぁ、リズちゃん。さっき旧い馴染みに会ってね」
彼らが言う旧い馴染みとなれば、おそらくそれは八洲の人間だろう。
しかし、どうにも征十郎の表情には、旧知の人間と出会えた喜びとは異なる感情が宿っているように見えた。
それよりも妙に歯切れが悪い。
「それにしては浮かない表情だが……」
「まぁね。結論だけ言えば――――立ち合いの末に兄者が負けた」
一瞬の沈黙がホールに生まれた。
「ま、負けた!? あの、ジュウベエ殿が!?」
驚愕の言葉――――叫びにも近いものがリーゼロッテの口から漏れ出る。
それを受けた征十郎の表情に困惑に近いものが混じった。
それはリーゼロッテを責めるものではない。
ただ、出会ってからずっと負けなしのユキムラの姿を見てきたリーゼロッテに対しどのように説明するべきか悩んだからだ。
「出会った相手がとんでもない人間だったのもあるが――――」
そうして、やや逡巡した末に征十郎が告げていった内容は、リーゼロッテにとってあまりにも衝撃的なものだった。
「そんなことがあっただなんて……」
「……うーん、リズちゃんにしてみれば実感は湧かないかもしれないが、あの人は別に天賦の才を持っているわけじゃないんだよ」
「天の才を持たない? あれだけの強さがあって?」
リーゼロッテは信じられないとばかりに言葉を返す。
彼女とて公女という身分から、常軌を逸するまでの研鑽を積めたわけではないが、それでも血の滲むような剣の修行は行ってきた。
公国にもリーゼロッテが本気で挑んでも勝ちを得られない騎士 《銀剣》のディートフリートや《剛剣》のランベルトなどが存在している。
しかし、ユキムラは彼らを退けるだけの腕を持ち、また先日もバルベニアを乗っ取ったと思しき《
そのユキムラが敗れる相手などリーゼロッテには想像もつかなかった。
「だからこそ、だよ」
小さく息を吐き出した征十郎は、近くに置いてあった椅子へと腰を下ろす。
貴族相手に無作法と言わざるを得ないが、この飄々とした剣士にとってはいつもの調子なのでリーゼロッテもなにも言わない。
「たぶん兄者から聞いているだろうから話すけど、あの人は八洲の先代幕府最後の将軍と呼ばれた人間の息子だ」
公国の訓練場で語られたことを思い出したリーゼロッテは小さく頷く。
「その親父さんにしても凄まじいまでの剣の腕を持っていてね、“剣豪将軍”なんて呼ばれたりもした傑物だった。もっとも、それとてヒトの身。病だけには勝てなかったが……」
話が横道に逸れたと征十郎は言葉を止める。
「そして、その嫡男である
「まるで想像がつかない……」
征十郎の話を聞いたリーゼロッテは、想像をはるかに超える事実の前に、絞り出すような声しか出せなかった。
ユキムラよりも強い人間が、他にも八洲には少なからずいるというのか。
「だから、才を持たぬとされたあの人は死ぬ気で剣の腕を磨いた。それこそ常人には想像もできない過酷な修行の末に」
付き合いの長い征十郎は知っている。
風呂を共にしたこともあるだけに、着物の下には無数の
《操気術》を早期に体得し、治癒力も常人とは比較にならぬほど向上しているにもかかわらず、絶えず剣を振るい続けた結果として傷が消えないまま身体に残っているのだ。
もちろん、死にかけたこととて一度や二度ではない。
それらもすべては才に恵まれた肉親たちに追いつくためだった。
「《阿修羅斬り》だとか《死に狂い》なんて呼ばれた剣鬼 九条雪叢の強さも、実際は死に物狂いで剣を振るい続けてきた結果でしかないのさ」
征十郎は自分にはユキムラに対する妄信はないと言外に断言した。
「しかし、セイ殿とてジュウベエ殿と共に戦えるほどの……」
「俺にしたって本物からすれば凡人の範疇だろうよ。だがまぁ……結局のところ凡人だ天才だなんてのは、事情も知らない他人が勝手に言って回っていることだ。勝てば称賛されるし、負ける――――死ねば手のひらを返したように貶される」
見えない研鑽を無責任に論じることへの不快感をわずかに滲ませつつ、征十郎は言葉を続けていく。
「そういった意味では、今もこうして生き残っている兄者は間違いなく強い。だが、それが才に裏付けられたものじゃなく、あの人が血反吐を吐くほどの凄まじい研鑽の末に今こうして在ることを知っているから、俺も共に生きていきたいと思えるんだ。たとえ目の前で敗北を味わったとしてもね」
話を聞きながらリーゼロッテは理解した。
根っこの部分で似たもの同士だから、自由人として振る舞っている征十郎もユキムラに何も言わずついていくのだと。
「わたしは、なにも知らなかった……」
「そりゃそうだ。兄者は努力してる姿なんて絶対に見せないからな。男ってのはそんなしょうもないところで恰好つけたがる生き物なのさ」
自分もそうなのだろうが、征十郎は肩を竦めて他人事風に言ってみせる。
これもまた恰好をつけたがる生き物の
「まぁ、剣を振るう以外じゃてんでダメなところもあるけどな。そのくせ――――いや、逆にそうだからなんだろうか、あれがまたよくモテる」
すこし緊張感を解そうとしてか、小さく笑う征十郎の言葉を受けて、リーゼロッテの胸に疼痛が宿る。
自分が知っているだけでもハンナにイレーヌにエミリア。そして、いつしか自分もそこへ足を踏み入れようとしている。
複雑な感情が心中に入り混じったリーゼロッテは、小さな苦笑を浮かべるしかなかった。
俯くリーゼロッテの姿を見て、冗談の挟み方を間違えた征十郎はしまったという表情を浮かべるも、すぐにそれをわずかに崩して口を開く。
「もしそれでもとリズちゃんが思えるんだったら……兄者を支えてあげてくれないか。隣で戦えることがすべてとは思わない。付き合いの長い俺にはできないことだってある」
「わたしには、ジュウベエ殿に対してなにかできるわけじゃないが……」
不安を口にしたリーゼロッテに対して、征十郎は笑みを深めて視線を向ける。
それは、彼を知る者からすれば意外にさえ思えるほど穏やかで柔らかなものだった。
しかし、俯いたままのリーゼロッテはそれに気が付かない。
「……まぁ、心配しなくても、あの人は必ずこの敗北を乗り越えるさ。今までも数えきれないほど勝ってきたが、その裏で敗北も味わっている。それを乗り越える度に、兄者は強くなってきた。今度もきっと壁を越えてくる」
征十郎は一度言葉を切る。
「だから……リズちゃんは、それを知っていてくれればいいんじゃないかな」
続けてそう断言する征十郎の瞳に、不安の色は微塵も存在していなかった。
視線を向けたリーゼロッテも、それを見て不安がいくぶんか消えていくのを感じていた。
「……ジュウベエ殿のところへ行ってくる」
「あぁ、裏庭だよ」
弾かれるように動き出したリーゼロッテを、征十郎は止めることなく見送った。
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