第119話 天剣一刀
「……場所を変えようか」
編笠を手に持つ実政は所在なさげに口を開いた。
たしかに、このまま異国人三人で立ち話を続けるのも目立つことこの上ない。
実政に促されるように俺たちは場所を移す。
「この大陸には――――街以外に人の生活を感じる場所がないな」
「ええ。時折ですが、それを寂しくも感じます」
八洲であれば街の近くにはなんらかの寺社もしくは空き家があったりするものだが、人を襲う魔物の絶対数が多いこの大陸ではそれもまた難しい。
しかし、幸いなことに程なくして何年か前に打ち捨てられたと思しき集落跡を見つけることができた。
比較的マシな建物の軒下へと空間収納から取り出した縁台を置き、そこへ三人で揃って腰を下ろす。
「粗茶ですが」
屋敷で淹れてきた八洲茶の入った水筒を取り出し、大きめの杯に入れて実政に手渡す。
杯を受け取った実政はその中身を見るでもなく、そのまま無造作に口へと持っていった。
思わずぎょっとしそうになるが、この人が毒くらいで死ぬわけがないことを思い出して心を落ちつける。
「む、これは八洲茶か。久し振りの味だが……やはり、慣れ親しんだものはうまく感じられる……」
故郷の味を懐かしむように、ゆっくりと瞑目した実政は少量を口に含むと時間を置いて嚥下する。
そして、肺腑から上がってくる息に残る余韻をふたたび楽しむように、大きく息を吐き出した。
泰然と茶を喫する実政の姿を見ていると、やはりこのような規格外の剣豪にも、郷愁の想いというものは宿るのだなと思わずにはいられない。
そんな実政を、俺はすこしだけ羨ましく思う。
今となっては、あの地に俺の思い出と呼べるものはほとんど残されていない。
「おっと、征十郎。お前のぶんも」
「あぁ、これはすみません」
気を紛らわすように、俺は茶の杯を征十郎に渡す。
「実際のところ、八洲は急速に変わり始めている」
内心で渦巻き始めた俺の感傷を余所に、ひと息ついた実政はどこか遠くを見るような表情で語り始めた。
八洲の地を離れた身ながらも現地の情報がこうして入ってきているのは、定期的にそれを運んでくれる者がいるからなのだろう。
元々、柳生家は古都の近くにあり、ハンナの属していた
甲駕は夜刀神家に仕えている伊駕とは異なり、様々な方面に忍を派遣する傭兵業のようなことを行っていたため、その伝が実政にもあるのだろう。
「夜刀神宗家から別れた三将家を筆頭とした親類たちが各地に領土を与えられたことで、本来身内も同然に夜刀神家を支えてきたはずの譜代将家の力すら弱まり始めている。となると、不満が向かぬよう外様などを真っ先に取り潰していくしかない。それも、戦すらなしに――――」
膝の上に置かれていた実政の左拳がそっと握り込まれた。
剣に生き、剣に死のうとしていた男としてはそのような現実を受け入れることは我が身に起きたことでなくとも許しがたいのだろう。
まるで、戦うことなくして散っていった武士たちの無念が実政を通して伝わってくるようだった。
「
今となっては遠い故郷の話だが、そこで生まれ育った者として自然と溜息が漏れる。
「そうだ。大御所殿はな、恐れておるのよ。幾度となく自身の命を脅かした八洲の侍という存在を」
不快感を隠そうともしない実政の言葉に、俺は以前征十郎と語ったことを思い返す。
やはり、老いたといえど、未だ絶大なる影響力を持つ“大御所”永秀の存在が大きいのだろう。
武勇に優れ果断な性格で知られる二代目大将軍信秀の意向を無視する形で、永秀は臆病なまでに慎重な国造りを続けさせているのだ。
これは言ってしまえば、永秀には運の巡りによって自身が八洲の天下を手中に収めたに過ぎないという自覚があるからともいえる。
「かつて精強と謳われた
“たられば”を語るのはあまり好まないが、このような話を聞けば肩のひとつも竦めたくなるというものだ。
「相変わらずの思考だな。《死に狂いは》健在かな?」
「どうでしょう。しかし、実政殿もそう思われているのでは?」
「――――さてな」
小さく笑い、実政も俺と同様に小さく肩を竦めた。
「いずれにせよ、まやかしの安定を望む夜刀神家――――いや、大御所殿が生きておられる限り、我らはかつてのように剣を振るうことすらできなくなる。それがわかっていたから、俺はさっさと八洲を出てきたのよ」
「今の話を聞く限りでも、それで正解だったと思いますがね」
横では征十郎がうんうんとしきりに頷いていた。
「そうか。まぁ、信じてもらえるかはわからぬが、おぬしの身は柳生家としても案じておったのだ。自分たちの障害となる可能性を、幕府は決して放置してはおかぬ。それこそ神経質なまでにな」
一瞬、
柳生宗家は古都に近く、征十郎の実家である由丘家との交流が深かった。
だからこそ、俺と宗貞・実政親子とも知己の間柄と呼べるほどの面識があるのだ。
「まぁ、
一度でも自分を殺そうとした存在を、あの執念深い永秀が許すわけもない。
「そうだ。だが、表立って接触することもできなかった。幕府大老たる柳生家が先代幕府の遺児と接触するのは非常に不味い」
たとえ柳生家にその気がなくとも、猜疑心によって事実さえも歪めてしまう男が存在するからだ。
「でしょうな。だから、本腰を入れて排除される前に、俺をこの大陸へと送り込んだので?」
俺の言葉を受けた実政の動きがほんの一瞬だけ止まる。
「ここまで語ればさすがに気がつきもする、か」
返事の代わりに俺は小さく笑みを浮かべる。
「そうだ。おぬしの剣をあの地で朽ち果てさせるのは惜しいと思った。それが最大の理由よ」
なるほど、理解できない理由ではない。
だが、それだけではないはずだ。
「では、こうしてお姿を見せられたのは?」
続けて問いかけると、実政は唇の端を小さく歪めた。
「この大陸には、なにやら“面白いものども”がいるようだな」
向けられる視線は俺の目の奥を覗き込むようなものだった。
この様子では実政も知っているのだろう。俺が魔王を討伐したことを。
「はて、何か存じておられるのですか」
敢えて言葉にする必要もない。
俺が会話を続けようとすると、実政もまたそれに乗る形で口を開いた。
「今の俺は帝国を拠点に冒険者をやっているが、ある時を境に妙な気配が増えた」
言葉と共に、実政は空間収納から何か棒のようなものを取り出す。
それは太さ五〇ミリテン、長さにして三二〇〇ミリテンほどの黒のようにも紫のようにも見える骨のような物体だった。
魔物の骨だろうか? と一瞬思うもそれを俺の意識が即座に否定。
骨のような物体から流れ出す魔力の反応は、ただそこに存在するだけにもかかわらず背中に怖気が走りそうになる。
これは魔物や魔族といった次元のものではない。
「これは……?」
「ヤツは
さすがに周囲に影響を及ぼしかねないと理解しているのか、実政はすぐにその骨を空間収納へと仕舞う。
その瞬間、空気が弛緩したようにも感じられた。
安堵感から俺と征十郎の口から揃って息が漏れる。
「そして、そのベヒモスの討伐を以って、俺は帝国の特級冒険者に昇格した。二つ名は《天剣一刀》」
同時に空間収納から新たに姿を現したのはひと振りの刀だった。
「《天剣一刀》……?」
「左様。空に
そのように語る実政だが、俺にはそれを冗談の類と笑うことは到底できなかった。
実政の取り出した刀が、何であるかを理解したからだ。
黒い柄巻の下には赤く染められた鮫肌。
鍔には菊花の紋様が彫られ、内部に佛教の象徴たる存在――――向かうところ必ずみずから前進し外敵を破る――――金輪宝、銀輪宝、銅輪宝、鉄輪宝が据えられている。
全長一〇三六ミリテン、刀身七六四ミリテン。二筋樋が通る中、刃元には天へと昇る倶利伽羅龍の透かし彫りが施されている。青味を帯びた地は冴え冴えと光り、氷のような刃紋と相まって凍えるような美を宿す。
「……て、《
実政が握る刀は、八洲でも現存する物とて多くはない最大業物。その中でも半ば伝説と化して行方が知られていなかった名物だった。
また驚くべきは、先ほどのベヒモスの骨よりも、数段の圧力が刃から放出されていたことに尽きる。
その鋭いばかりの切っ先が自身に向けられていないにもかかわらず、俺は周囲の温度が低下するような寒気を覚えていた。
いや、それどころか、呼吸が途絶しかねない感覚すら引き起こしてかけている。
「雪叢殿、俺は待つ。おぬしがさらなる高みに登ってくるその時を」
それは挑発でもなんでもない。
ただ真正面から、俺は剣に生きる強者からの宣言を受けた。
「あの獣は、“理の外にいる者”と名乗っていたが、そのような存在など“我ら”にとっては関係ない。剣を執る侍はただ強者と巡り会い、そして戦いを挑むのみ。そうであろう?」
実政の言葉に、俺の内部で鎮まっていた炎がふたたび燃え上がる。
そうだ。俺たちはただ剣を振るい、そして戦いの中で死ぬために生きている。
戦うより先に死や勝敗を恐れる必要などないのだった。
「まさに。まだまだ修行が足りておらぬようでした」
「構わぬ。いずれ得た剣境は、俺の前で見せてくれるであろう?」
話――――当初の目的は済んだのか、実政は《天龍叢正》を鞘へと仕舞う。
その瞬間、重圧感にも似た空気は霧散した。
「しかし、実政殿。せっかくあの辛気臭い八洲を離れたんです。もう少し穏やかというかのんびりな生活でも送ればいいでしょうに」
こちらの話がまとまったのを察したか、それまで口を閉ざして聞き手に回っていた征十郎が空気を変えようとするかのように軽口を叩く。
「ふむ……。俺よりも速き者が存在しなければ、相対的に
「「いや、それはないです」」
俺と征十郎の言葉が重なった。
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