第118話 古巣を出た者たち


「久しぶりだな、雪叢殿」


 先ほどまでの剣呑さは完全に消え去り、穏やかな声を発して実政は編笠を外す。


「柳生……実政……」


 未だ警戒を解かぬまま隣へと近付いてきた征十郎。その口から漏れ出た声はかすかながらに震えていた。

 視線を送ると、案の定というべきか顔にも驚愕の感情が貼りついている。


 ……まぁ、かくいう俺もきっと同じような顔をしているに違いない。


 だが、実政は生まれながらの人外どもナチュラルボーン・フリークスが跋扈するあの八洲でさえ、伝説にも等しく語られる剣豪だ。

 そんな人間と何年振りかに再会を遂げればこうもなる。


「なぜ……実政殿がこの大陸に……?」


 半ば呆けたような俺の問いが漏れる。

 対する実政は、刀を鞘に収めながら薄く笑みを浮かべるだけで答えようとはしない。


 目の前に立つ実政は、かつての記憶では途方もない巨躯に見えたものだが、こうして向き合うと俺とさほど変わらぬ身長をしていた。


 だが、そんな外見の差異など、この男の前ではまさしく些事に過ぎない。


 青褐あおかち色の着物の上からでもわかるほど、身を包む筋肉は鎧のように分厚く、しかし剣を振るう動きを阻害しないように圧縮されている。

 やや癖のある黒髪を無造作に伸ばしているが、垂れた前髪から覗く黒い瞳が見せるは刃を感じさせる鋭さ。

 そして、真上に描かれた濃い眉と彫りの深い顔立ちが、さらなる仕上げを施していた。


 泰然と佇む姿から漂う気配は湖面のごとき静謐さを湛えながらも、ひとたび触れれば肌を深々と切り裂く鋼糸こうしのような目には見えない剣呑さが潜んでいる。

 肉食獣のようだと一言で語るのは容易だが、実政の持つ風格はその中でも確実に王者のそれだ。


 相手はすでに剣を鞘へと収めているにもかかわらず、至近距離にいるだけで俺は腰の刀へとふたたび手が伸びそうになる。


 愕然とした。


 俺は恐れているのか、このひとを……。

 掌に滲む汗を隠すように、俺はひっそりと拳を握りこむ。


「……俺が、天下原の戦に参加しなかったことは知っているな?」


 こちらに向けて口を開く実政だが、発せられた言葉はやけに迂遠な物言いをしていた。


 言外に落ち着けと言われていると気付き、俺は天を仰ぎ見て小さく息を吐き出す。

 それでムリヤリ気持ちを切り替えると、身体から力を抜いて実政に視線を戻していく。


「……ええ、それだけで大御所の首を獲れる確率が上がったと思いましたからね」


 結果としては、あとちょっとのところでクソジジイに突撃を阻止されたが。


「たしかに、


 表情に出ていたか、こちらを見る実政は笑みを深める。

 自分の実の父を討ち取られたかもしれないのに大した反応である。


「あまりいい記憶ではありません。“戦の花”を手折られました」


 柄にもなく大仰に腕を振るって見せる。

 これは、この大陸に来て身に着いた新たな癖だった。


 逆に言えば、言葉の裏側にあるものを見破られないための偽装ともいえる。


「ははっ、単騎駆けを阻止されればそうもなろうよ」


 おそらく、実政はこちらの内心に気がついているはずだ。

 あの戦場で俺が“失ったもの”は別にあることを。


 だが、気付きながらも実政はそこに触れるような真似はせず、あえて言葉の表面だけに言及して笑うだけだった。


「それより、なぜ出られなかったのです? あなたがいればあの戦いは……」


 べつに暗い話がしたいだけでもない。

 話題を元に戻すべく、俺は実政に長らく気になっていたことを訊ねる。


「……その前に出奔した」


「「なっ!?」」


 俺と征十郎の声が重なる。

 だが、それくらい俺たちにはひどく衝撃的な内容だったのだ。


「べつにいくさを厭うたわけではないのだがな。……まぁ、仮にあれに参加したとしても、その後生き辛くなるのは目に見えておった。だから、雪叢殿よりも先に八洲を離れておったのよ」


 悪戯を成功させたように笑う実政。


 しかし、当時の混乱を知る身からすれば、そう簡単に「はいそうですか」と流せるものではなかった。


 あの時、実政はついに戦場へと姿を見せなかった。

 伝説の剣豪が不在。

 その情報が与えた衝撃は両軍を駆け巡った。


 夜刀神軍後方に位置する中立勢力の抑えに回っていて天下原に間に合わなかっただとか、はたまた病で戦うどころではなかったなどと様々な噂が駆け巡ったりもしたが、事実を聞けばなんということはない。

 すでに実政は剣に生きる者として八洲に見切りをつけていたのだ。


 だが――――。


 同時に俺は思う。

 もしあの時、天下原で宗貞クソジジイのみならず実政とも相見えていたとしたら、


「狭い八洲の中で生きるよりも、この広い大陸で生きた方がずっと自由だ。あの場所を出た身だからこそ、おぬしたちもそれがわかるのではないか?」


 実政からの問いを受け、俺と征十郎ははっとなる。


 将軍家の次男に生まれ、兄の予備として生きつつ、没落していく家を見て育ってきた。

 その中で、滅びゆく運命だと理解しながらもそれに抗おうとする兄を放っておくことができず、多少は悪ぶってみたりはしたものの、結局は上條の家のために戦い、敗れそして今がある。


 そこに後悔はない――――というのは、さすがに嘘になってしまうが、それでも今の方がずっと生きやすい。


「雪叢殿の場合は、生まれ持った“身の重さ”もあろうがな。いずれにせよ、広い世界で好きに生き、好きに死ぬ方が剣に生きる者の性には合っておろうよ。そういった意味では、面白い場所に来たものだ」


 刀の柄頭に手を置いて実政は子どものように笑うのだった。




 


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