第117話 宿命の鼓動


 明くる日、密書を携えたハンナはオウレリア公国へと向けて旅立ち、イレーヌは八洲と接触するために商業ギルドを介して動き始めた。


 さて、こうなると、今の時点で俺個人にできることはなにもない。


 しかし、だからといってなにもしないでいるのはどうにも据わりが悪かった。


 遠くない将来に起こるであろう《真祖》たち《バルベニア》との戦い。

 その気配を感じ取った身体が、自然と昂りを覚えていた。


 こうなってしまうと、我が身体ながら、もはやどうしようもなかった。

 別の行動で欲求を鎮めようにも、酒を飲んでも女を抱いてもこればかりは昔からどうにもならないのだ。


 燻り始めた感情が炎となって燃え広がる前に、俺は王都カレジラントの郊外にある川沿いへと出向き、征十郎と剣を交え鍛錬を行うことにした。

 尚、征十郎はふらりと屋敷に姿を見せたところをとっ捕まえたので心底嫌そうな表情をしている。


「あーあ。今日もカサンドラのところでのんびりしようと思ってたのに。ちょっとばかし顔を出したらこれですよ……」


「ぼやくな。お前じゃないと俺も本気で撃ち込めん。“下の剣技”に精を出す時間があるなら少しくらいは付き合え」


 北部の森と違って魔物の気配もいないこの場所は、街道に面しているわけでもないため人も滅多に近付くことがない。

 余人に邪魔をされることなく剣を振るうことのできる環境があるのはありがたかった。


 剣を振るうのも、昂った気を落ち着けることが大前提だ。

 しかし、それ以前に、カレジラント周辺に生息する魔物相手では、先般の例外のようなことでもないかぎり、満足に剣を振るうこともできないというのが本当の理由であった。


 たっぷり半刻ほどかけて十全に身体を動かし、そこからは木刀を用いて互いの技を受け、体内の“オーラ”の巡りを高めていく。


 こうなると乗り気ではなかった征十郎の表情にも真剣さが宿り始める。


 両者が用いる剣は木で作られてはいるものの、それを振るう者が武士として幾多の戦いを潜り抜けてきている。

 たとえ一撃でも受け方を誤れば、相手の骨を容赦なく粉砕するばかりか、命を落とす危険とて存在しているのだ。


 これはあくまでも鍛錬である。

 だが、気を研ぎ澄ますため可能な限り実戦に近い形式をとっていた。


 派遣された《眷族ミディアン》を相手に手間取っているようでは、背後に存在する《真祖》を倒すことなどできようはずもない。

 そんな思いが剣に乗り、互いに一切の手加減をせず剣を打ち込んでいく。

 鋭い打撃を巧みにいなし、あるいは躱しながら、己のわざを相手の届かせようと踏み込み、また剣閃を放つ。


「……先日の戦いで、また一段と腕を上げたようだな」


「ええ、《操気術》を駆使しての身体の動かし方が少しずつ掴めてきた気がします」


 返事と共に征十郎が動いた。

 鋭い踏み込みからの一撃が俺の腕を砕かんと唸りを上げて迫るが、俺は身体全体の粘りでそれを弾く。


 征十郎がわずかに体勢を崩したところで、俺は左足を引いて半身を作る。

 弧を描くように木剣を旋回させながら、瞬時に柄を握る手を入れ替えた。

 征十郎の腕の内側へと潜り込んだこちらの剣が、驚愕を浮かべる剣士の身体を導くように意図した位置まで誘導。

 それと同時に、露わとなった喉元に右の貫手が突きつけられる。


「いい踏み込みだった」


 語りかけると、征十郎は目線だけをこちらに向けていた。

 瞳には驚きの感情が激しく揺らめいている。自分ではこうもあっさり終わるとは思ってもいなかったのだろう。


 こちらから静かに手を引いていくと、目の前の剣士の身体からもやがて力が抜ける。


「だが、剛柔の切り替えがいま一歩だな。速さはいい感じになってきている」


「……やはり、簡単には勝たせてくれませんか」


 身体ごと大きく引いて木剣を肩に担ぐ俺を見て、征十郎は小さく息を吐き出しながら肩を竦める。


「一応、兄貴分で呼ばれているんだぞ? そりゃ簡単に負けちまったら俺の立つ瀬がないじゃないか」


「違いない」


 そうして、俺たちは軽口を叩き合いながら、どちらからともなく笑うのだった。






~~~ ~~~ ~~~







 帰り際、前方より歩いてくるひとつの気配に二人の足が止まる。


「――――兄者」


 征十郎が短く警戒を促す中、向けた視線の先には深編笠を被った八洲浪人風の男。

 当然ではあるが、このような人間をこの大陸で見ることは滅多にない。


 一瞬、夜刀神の連中がとうとう刺客を放ったかとも考えたが、それではどうにも腑に落ちなかった。

 もしも俺の暗殺が狙いなのであれば、わざわざ目立つ風体で真正面から接近してくる必要はない。


 警戒を高めながら思考を巡らせていると、不意に編笠の男の歩みが止まる。


「上條幕府十四代将軍雪将ユキマサ公の御遺児、九条雪叢殿とお見受けする」


 笠の下から発せられたのは淀みのない声であった。


 それ自体はけして大きなものではないにもかかわらず、彼我十メルテンの距離でたしかなものとなって俺の耳朶を打つ。

 戦いの気配を受け、身体に緊張が宿る。


「……名前を訊く時は、先に名乗ったらどうなんだ?」


「抜け」


 こちらの問いには答えず、男は短く告げた。


「理由くらいは語って欲しいものだが」


 編笠の男が静かに左腰の太刀を引き抜く中、俺は腰の鞘に手を当てながら重ねて問いを返す。

 男の握る太刀は、造りこそしっかりしているものの、特に見るべきものもない凡庸な品であった。


「先代幕府の血脈を受け継ぎし者――――さらには高名な“阿修羅斬り”を斬るのに理由が必要か」


 その言葉を受け、俺は言葉を止めて腰に佩いていた《三ヶ月宗親みかづきむねちか》を鞘から抜く。


 同時に、俺はそこで気を引き締める。


 大陸に来たことで腑抜けていたつもりはないが、八洲にいた頃であれば武芸者から死合いを挑まれるのは侭あることでもあった。

 まさに、剣に生き、他者を打ち倒してきた者の宿命と言えよう。


「ならば是非もない」


 《尾前長舩光匡びぜんおさふねみつただ》の鯉口を切って警戒を強めていた征十郎を制するように、俺は短く告げて前へと足を踏み出す。

 言外に「下がれ」と言われた征十郎は、何も言わず後方へ下がっていく。


「剣に生きる者にあるまじき反応だった。いささかこの地に毒されていたようだ」


 引き抜いた《三ヶ月宗親》の刀身をゆっくりと掲げていく。


 しかし、その直後、俺の呼吸は突如として途絶した。


 ゆっくりと距離を詰めてくる中で、男の上体に軸の揺れは微塵も存在しない。

 地面を歩くのではなく、まるで水面を滑ってくるような重心移動だった。

 武術を極めた者でしかなし得ない動きを目の当たりにした俺の背中に汗が玉となって浮かび上がる。


 一見すれば男は隙だらけに思える。

 だが、相見えた者のいかなる動きにも即座に対応してのけるであろう“身体の脱力”が見て取れた。


 ――――先んずれば負ける。


 八双の構えを取っていた俺は、それを身体へと引き込むようにして構えを変える。


「守りに入っては勝てぬぞ」


 挑発めいた男の言葉に、俺は答えられない。


 はじめての感覚だった。

 ただそこにいるだけで死を予感させる存在が、自分へと一歩ずつ近付いてくる。


 なによりも恐ろしいのは、男の放つ気配には圧迫感プレッシャーこそあれ、

 

 どのように斬りかかって技を繋げるかなどは二の次。

 もはや、一刀目で勝負を決めるしかなかった。


 その途端、周囲からすべての音が消え、自分と相手だけの狭き世界へと変わっていく。

 見守っている征十郎の気配すら意識の外へ追いやり、ただ相手だけに視線を固定。


 疾駆からの抜き打ち、一刀目を受けてからの組手術など、脳内で自身の持つ技を繰り出す瞬間を幾通りも思い描く。

 しかし、それらはすべて男の前で消え去り、最初の一刀のうちに自分が斬られている未来のみが残っていた。


 俺は意識を根底から切り替え、勝つという気は一切捨てる。


 やがて、編笠の男が俺の間合いへと侵入。


 ついに、“その時”が訪れる。


 どちらからともなく刃がはしり、両者の放つ煌めきがわずかに触れて金属の擦過音が生じる。


 両者の剣が神速の速さで伸び、相手の肉体に到達する――――その寸前で刃は静止していた。


 いや、身体に触れる寸前で止まっていたのは相手の剣のみ。

 あのわずかな接触の間に、手首の力を崩された俺の剣の速度は相手の首筋を狙っていながら到達が完全に遅れていた。

 それこそ、相手が剣を止めたのだと気付かされるほどに。


 一瞬で自分の命が終わっていたことに、気付いた身体が本能から凄まじいばかりの汗を吐き出す。


「……《操気術》を使わなかったのはなぜだ」


「それでは発動の隙に斬られていた。それに、今のでも刃が止まらなければ……」


「それがわかるということは、おぬしも“あの頃”よりもずっと成長している」


 こちらのことを知っているような口ぶりに、はっとした俺は顔を上げる。

 そこで男は編笠を上げて素顔を晒した。


「あなたは……」


 目の前に現れた顔を見て、俺は驚愕を隠せなかった。

 そこにいたのは、天下原で俺の本陣強襲を阻止してくれたクソジジイこと柳生宗貞ヤギュウサダムネ――――の嫡男、柳生実政ヤギュウサネマサだった。


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