第105話 空を断ち、闇を割く
シュヴァルツの宣告とこちらへ向けて放射される鬼気に全身が粟立ち、それと同等の喜悦の感情が俺の胸中に湧き上がってくる。
無論、油断はしない。
《旧き者》――――この大陸では
それに、どのような奥の手が隠されているかは未だわからない。
だが、それでも目の前に佇む魔人に後れを取るつもりは毛頭なかった。
「私も急いでおりましてね。早めに決着をつけたいのですよ」
いささか気だるげに漏らすシュヴァルツ。
その声に、わずかながら苛立ちが滲んでいるのを俺は見逃さなかった。
「じゃあ、勝手にしろ」
右手に引っ提げた太刀を揺らしながら、俺はシュヴァルツとの間合いを詰めていく。
「それでは遠慮なく。
言葉を合図として、シュヴァルツの身体から滲み出るように現れたのは、空間を侵食するように広がった“闇”だった。
見る者の視覚を狂わせるような虚無の黒。
そもそも形を持っているのかすらわからない漆黒の闇は、突如として収束し、うねる大蛇となってこちらへと牙を剥く。
高速で飛翔した闇は、跳躍して躱した俺の着物――――その左袖を掠め後方へと抜けて空間に消える。
違和感を覚えて視線を送れば、袖口が十数ミリテンほど弧を描くような形を残して消失していた。
斬られたのでもなく千切り取られたのでもなく、まさしく綺麗そっくりなくなっていた。
「おや、惜しかったですね。今ので片腕くらいは持っていけると思ったのですが」
残念そうに発せられたシュヴァルツの声が届く。
意趣返しの挑発にしてはなかなかのものだ。
「これは……喰らったのか」
「ええ、それが私の“外法”です。跡形も残さず、我が闇の前に跡形もなく消え去りなさい」
両手を広げて穏やかな微笑みを浮かべるシュヴァルツ。
その穏やかな表情は、まるでこれから死に行く者に祈りの句を告げる聖者のようですらあった。
そこで俺が一歩踏み出したのは、勝利を揺るぎなきものとする笑みが気に入らなかったからだろうか。
大地を蹴って間合いを詰めながら太刀に“気”を流し込み、横薙ぎを叩き付ける。
空気を切り裂いて疾る刃を、シュヴァルツは人外の反応速度で跳躍して躱す。
だが――――
鞘に太刀を納める鍔鳴りの音を合図に、その頬が割けて鮮血が空中に飛び散った。
「怯えて竦んで力を発揮できないまま死んでいけってところか? いい趣味だよ、
シュヴァルツは間違いなく避けたと確信していたはずだ。
しかし、斬撃の証として流れ出る血が、その秀麗な貌に貼り付けた仮面を取り去らんとしている。
そして、血を止め肉を塞いでも元には戻らない“傷”が今、シュヴァルツに刻みつけられた。
「……私をその名で呼ばないでいただきたいですね、
静かに漏れ出始めたシュヴァルツの怒りの感情は、表情には現れず形ある殺意として噴出。
ふたたび暗黒の風が放射状に広がって押し寄せる。
無音のままに迫るそれは、まさに死そのものとして
その奔流を――――鞘走りの音を残して引き抜かれた太刀が垂直に両断。
「……この闇を斬った?」
振り下ろされた刃の向こう側で、シュヴァルツの表情に貼り付いた笑みがついに消えていた。
迸った斬撃の余波で左肩口が切れて薄く出血していたが、それは一瞬で跡形もなく塞がっていく。
受けた傷以上の衝撃となって、シュヴァルツから余裕が剥がれ落ちる。
だから、俺は最後の一押しを放つ。
「これは純粋な疑問なんだが……。どうして相手が聖剣だ神剣だに匹敵する得物を持っていないと思えるんだ?」
《
しかし、同時に異能を使わず振るった際にも“太刀筋が何十ミリテンか右側にずれてしまう”というとんでもないどころか致命的な悪癖も有している。
太刀と太刀の斬り合いでは、ほんのわずかなズレが自身の死を招く。
それゆえに数々の所有者がそれで太刀筋を誤って斬られ、最終的には妖刀扱いされて死蔵されていたのだ。
……俺の手元に流れてくるのは曰くつきの刀ばかりだ。
しかし、それが
「ちょっとばかり優れた道具を持っているだけで減らず口をっ!」
自身の切り札を不発に終わらされたことで、ついに口を衝いて出る冷静さを欠いたシュヴァルツの怒声。
幾重にも張り巡らされた闇の鎌が、地中深くで波濤のように押し寄せる。
それらの動きを見切りながら、俺は最小限の動きで太刀を旋回。
縦横無尽に舞う刃を受け、周囲へと飛散した暗黒の残滓は、そこで新たな魔力干渉を受けて青白い末那の粒子へと分解されていく。
《斬波定宗》の持つ力だけではなく、左腕に埋まる《
さすがにこれだけの濃密な存在を魔力の塵に分解するとなれば、空を切り裂く太刀だけでも
「この攻撃を
「便利だろう? とっておきのヤツでな。みんなには内緒だぞ?」
ふたたび刀身を鞘へ収めて俺は嘯く。
「ならば、内側から食い破ればいいだけのこと!」
闇を全身に纏ったままで接近戦に移行してくるシュヴァルツ。
こちらに向けられる
そこへ溢れんばかりの殺意が燃料として投下され、入り混じった感情の炎となって燃え盛る。
放射される鬼気を受け、俺の背筋に走るのは電流にも似た感覚。
自分の身体から離れれば離れるほど、存在を喰らう闇は空を渡り密度を失い、緻密な制御を要求される。
ならば、いっそ近接戦闘から押し切ればいいとシュヴァルツは判断を下したのだ。
間近からの範囲攻撃に対し、それを防ぎ切るだけの“気”をこちらが捻出できないと読んだ上で、自分自身が体術に自信がなければ絶対に取らないであろう戦術。
己の強さを理解しているがゆえに、下す選択にも迷いが存在していなかった。
そういう意味では、シャッテンよりもこの男の方が厄介だ。
口唇を歪めて太刀の柄を強く握り込む中、シュヴァルツの闇が不意に身体から離れ巨大化。
球体となって、こちらの踏みしめる大地ごと飲み込もうと迫る。
たしかに足場ごと飲み込んでしまえば、闇を分解しようとしたところで残ったそれに俺は飲み込まれて消滅するしかない。
これを叩き付けられれば、俺だけでなく背後にいるリズや征十郎を飲み込んでしまう。
しかし――――シュヴァルツはひとつ大きな勘違いをしていた。
「悪くないが…………これでは遅すぎる」
巨大な質量で押しつぶそうとするなら、すべて叩き斬ればいいだけだ。
《斬波定宗》に全身の“
押し寄せる闇の球体を前に、一文字腰に開かれた身体から刃が一直線に
足と身体と右腕が同時に動く“抜き即、斬”の一拍子。
「居合――――《色即断空》」
俺のすぐ間近で、球状になった闇の塊は真っ二つに切り裂かれ、標的を見失ったまま今までの闇と同様に例外なく分解。
青白い末那の残滓が瀑布から舞う
それだけで斬撃は止まらず、闇の向こう側で虚空へと躍り出ていたシュヴァルツの身体を斜めに切り裂き右腕を切断するが、胴体への入りが浅かったのか勢いは止まらない。
残った左腕を鋭い爪へと変化させ、肘の先で斬り飛ばされた右腕を振り抜いた体勢のままこちらへ肉迫。
鬼気迫る表情には憎悪だけでなく執念のようなものが生まれていた。
旋回した刃が伸びてくる渾身の一撃を迎撃。強烈な金属音を奏でる。
太刀に受け止められながらも、硬質化させた爪を押し切ろうとするシュヴァルツ。
間近で互いの視線が交差。
瞳の中で感情が煮え滾る
たとえこちらの刃が届いたとしても、シュヴァルツの身体を守るべく展開する“闇の静穏”を切り裂けるだけの斬撃があってはじめて、その向こう側にある肉体へと触れることができる。
かたや、相手はこちらの身体に闇を触れさせるだけで、その部位は消失する。
エミリアが心臓に穴が開けられただけで済んだのは、この男にそれほどの脅威として認識されていなかったからにすぎない。
そこで身体が小さく震えた。
ちょっとのことで死ねる瀬戸際にいるからこそ、愉しくてたまらない。
自分の方が強いと思っているヤツに殺されかねないふざけた状況だからこそ、刃を振るう太刀筋が冴え渡る。
「楽しいな。血が踊る」
問いかける俺の視界の隅で、斬り飛ばされたシュヴァルツの右腕が高速で修復されていく。
至近距離で闇が膨張する気配を合図に、互いがどちらからともなく引いて間合いが開く。
もうすぐ戦いが終わる――――。
表情には出さないが、おそらく両者ともにそれを認識していた。
「……この状況で笑うとは戦狂いですか、タチの悪い」
あくまで皮肉げに笑おうとするシュヴァルツ。
「いいや」
俺は返す言葉を途中で切る。
「――――死に狂いだ」
その瞬間、《操気術》を発動。
全身を“気”が高速で駆け巡る感覚に肉体が小さな軋みを上げる。
「ならば
叫んだシュヴァルツが地面を蹴った。
同時に、その身体を覆うように展開された闇が、復活した右拳に載って側面から強襲。
“気”のこめられた《斬波定宗》が受け流して青白い光が散乱する中、漆黒に染まる左の鉤爪が唸りを上げて斜め上段から叩き付けられる。
柄頭を握る左手を離し、逆手に引き抜いた脇差 《獅子定宗》でこれを受け止めた。
左足を跳ね上げ膝蹴りを放つとシュヴァルツは鋭く後退してこれを回避。
しかし、その時には俺は身体ごと前進していた。
戻ってくる足を軸に迷わず跳躍を選ぶ。
《操気術》により気を纏った蹴り足が旋回し、咄嗟に腕を引いて防御したシュヴァルツの左前腕から二の腕から肩口までを直撃。
それぞれの
左腕全体がひしゃげると同時に、秀麗な顔が苦痛によって歪み、喉からは呻きが漏れ出る。
今の一撃でシュヴァルツの骨は完全に粉砕されていた。
追撃を仕掛けようと踏み込むが、後退するシュヴァルツから射出された闇が展開。
一瞬視界を塞がれたため斬り払って無効化するに留まる。
「なぜ……これでも当たらない……!?」
押し寄せる激痛が疑念となり、こちらを睨むシュヴァルツの口を衝いて出る。
苦痛に歪む表情が依然として残っていることから、喪失した肉体を修復するよりも砕け散った骨を元に繋ぐ方が遥かに難しいようだ。
「たしかに、その闇は脅威だ。もしもお前がそれを自在に制御できるようになっていたら危なかったろうな」
俺は淡々と述べていく。
シュヴァルツの闇は一見すれば、相手を飲み込み、相手の攻撃をも拒絶する反則級の外法に見えるが、厳密に言えばこれは現世と自らを隔離させている壁――――“隙間”に過ぎないのだ。
触れる対象を例外なく喰らう強力な固有魔法だからこそ、自身の肉体による攻撃を放つ時にはそれを解除しなければならない。
にもかかわらず今まで敗れることがなかったのは、体術を得意とするように見せかけ、初見殺しともいうべき使い方により、相手がそれへ気付く前に喰い殺してきたからだ。
「だが、お前は自分のモノにしきれなかった。だから、すべてを飲み込む闇がそこにあっても――――お前の踏み込みに肝は冷えない」
頬を大きく歪ませながら俺は宣言。
「ほざくか、人間がッ!!」
両腕から闇を迸らせながらシュヴァルツは突進。
俺はそれを視界に収めながら進む。
立ち塞がる敵がいるのなら、ただ斬って道を拓くのみ。
身体の求めるままに踏み込んだ時には、すでに目の前にはシュヴァルツの姿。
一瞬で間合いを盗んだ俺を見て驚愕に見開かれる双眸。
「ば、化物か――――」
虚空を滑るように繰り出される斬撃。
自分のものであるはずの腕はなにか――――まるで太刀に導かれるようにして半ば意識の外で動いていた。
神速で疾る刃が、虚無の空間ごとシュヴァルツの両足を大腿部で切断。
知覚外の一撃を受け、シュヴァルツは鮮血を撒き散らして地面へと倒れこむ。
しかし、出血はすぐに止まり、続いて切断面が泡立つ。
やがてそこから骨と神経束や肉が出現し急速で両足が再生されていくのはもはや冗談のような光景だった。
「ただの人間に、この私が……!」
突きつけられる刃を前にシュヴァルツが吼える。
その言葉を受けて、俺の中にあった炎は急速に冷やされて勢いを失っていく。
「ただの人間も真っ当にできねぇから、こうして負けて死ぬんだろうが」
「生かして帰すわけには……。ここで諸共に――――」
残されたシュヴァルツの両腕に流れ込んでいく魔力。
しかし、制御系統の大半が両足の再生に割かれているせいで、その動きは比べるべくもないほどに精彩を欠いていた。
「安心しろ。さっきの
その言葉がシュヴァルツの耳に届いたかどうかはわからない。
俺が言い終えた時には、翻った《斬波定宗》の刃はシュヴァルツの首を刎ね飛ばし、虚空へと舞わせていた。
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