第98話 折れぬ意志


「ぐっ……」


 胸を貫かれながらもどうにか堪えていたエミリアだが、ついに耐えることができず苦鳴を漏らしながら地面へと崩れ落ちる。

 ローブに滲んだ赤の痕跡は、みるみるうちに地図を描くかのように大きく広がっていく。


 いくらなんでもあれだけの血を流してしまえば――――


「……いかん、エミリア殿!」


 咄嗟にリーゼロッテは動いていた。

 剣を握ったまま地面に倒れたエミリアへと駆け寄る。


 同時に、遠退きつつあったシュヴァルツの歩みが止まる気配。


 しかし、リーゼロッテが動いても、シュヴァルツに特段の動きは見られなかった。

 残った人間ただ一人など、別にどうにでもできると判断しているのだろう。


 敵としても認められていないのか……!


 怒りの感情がリーゼロッテの胸中へと衝動的に湧き上がるが、今は激昂する場ではないと強引にそれを抑え込む。


「くっ、妾が……《眷族》ごときに、後れを、取るなど……」


 リーゼロッテに抱えられたエミリア。

 その瞳は今もなお眼前の敵――――シュヴァルツへと向けられていた。


「しっかりするんだ、エミリア殿!」


「すまぬ、リーゼロッテ様……。あれだけ大口を叩いておきながら……」


「喋ってはダメだ……!」


 治癒魔法を使えないことがこれほどまでに悔やまれた経験はなかった。

 リーゼロッテは唇を噛む。


「――――終わったか?」


 発せられたのは新たな声。

 《真祖》を打ち破った男の傍らに、治まった煙の向こう側から静かに歩み出てきた銀髪の男――――負傷の形跡が一切見られないシャッテンが立つ。


 あの攻撃を生き残っていた。最悪だ……!


 驚愕を受けつつも、警戒を強めるリーゼロッテは視線を動かす。


 向けた先にあったのは、焼け焦げて丸まるように息絶えた死体が二つのみ。

 他の者はエミリアの放った猛毒と火炎魔法の二重攻撃を凌ぎきることができなかったのだ。


 しかし、敵が減っただけ――――最悪がほんの少しだけマシになった程度である。

 安堵の感情など生まれようはずもない。


「致命傷ですな。長くは持ちますまい」


 瀕死となった《真祖》から向けられる視線を受けながら、シュヴァルツは仲間への返答ついでに微笑を湛えて口を開いた。

 エミリアからは小さく歯軋りの音。正確な分析に言い返すことができない。


「……しかし、それだけの血を失っても“渇き”に襲われないばかりか、即死していないのには羨望を禁じ得ません。これが我々眷族ミディアンと《真祖エルダー》の差ですか」


 シュヴァルツの紫色の瞳が妖しく輝いた。


 まだ戦ってもいないのに重圧で背筋の温度が下がる中、リーゼロッテは懸命に思考を巡らせる。


 この男を相手に自分は戦うことができるのか?


 そんな思いから、リーゼロッテの背中を浮き上がった汗が流れていく。


「良い収穫となりました。《眷族》化してから吸った血の量次第では、真祖を上回ることも可能と……。これはなかなかに興味深い事実ですね」


 誰に向けたわけでもないシュヴァルツの言葉が、音のなくなった空間に染み込むように響き渡る。


「もっとも、私が“あの方に”叛意を抱くことなど有り得ませんが」


「おのれ……」


 好き勝手喋られることが許せないのか、震える声でエミリアがつぶやく。


「ふむ、まだ喋れますか。ですがまぁ、このまま放っておいても、もはや存在の消滅は免れますまい。そこで朽ち果てていきながら、“あの至宝”が我らの手に落ちるのを眺めておられればよろしい」


 シュヴァルツは軽く首を傾けて戻す。すでに倒した相手からは興味を失った様子であった。

 その態度がエミリアとリーゼロッテの感情を逆撫でするが、今や目の前の怪人を止められる存在はこの場にはいない。


 わたしは挑むことができるのか、この男に。


 リーゼロッテの表情に苦いものが宿る。

 圧倒的な力を見せたエミリアを退けた存在と戦う――――今の時点では想像に過ぎないが、それでも常人の精神で耐えられるものではなかった。

 深く考えれば考えるほどに身体が震え出しそうになる。


「待て……。貴様らに……“アレ”を渡すわけには……」


 真下から発せられたエミリアのか細い声。

 死を前にしてなおも諦めようとしない意志の響きに、折れる寸前までいきかけていたリーゼロッテの意識がわずかばかりの均衡を取り戻す。


「ご安心ください、エミリア様。“アレ”を使うことで、我らはこの大陸にを取り戻すのですから」


 しかし、シュヴァルツはもうエミリアを見てはいなかった。

 むしろ、最低限の義理として返事をしているに過ぎないようでさえある。


 静かに目を瞑り、息を吐き出すリーゼロッテ。

 そして、エミリアをそっと横たえると、相棒である《オルト・クレル》を握り立ち上がる。


「待て、行かせはしない……!」


 リーゼロッテの言葉にシュヴァルツの歩みが止まる。


「な、ならぬぞ、リーゼロッテ様……。あの男は、危険だ……」


 エミリアはなんとか制止しようとするが、すでに覚悟を決めたリーゼロッテがそちらを振り向くことはなかった。


「ほぅ、あの戦いを見てもまだやろうと思いますか。その勇気には敬意を表したいくらいです。ならば――――」


「シュヴァルツ、先に行くといい。エミリア様を無力化した以上、今は目的が優先される」


 しかし、シュヴァルツの言葉は途中で遮られる。

 そして、彼に代わるように、前へと進み出てきたシャッテンがリーゼロッテの前に立ち塞がった。


「やれやれ、自分も戦いたいと素直に云えばいいものを。……ですが、“アレ”は未知の存在です。すでに手勢を二人も失った以上、戦力分散の愚は犯さない」


 小さく笑ってシュヴァルツは一歩引く。

 あくまでも見届けてから動くつもりらしい。


「……では、貴方の相手は私が務めさせてもらおうか」


 シュヴァルツのからかうような言葉を無視したシャッテンは、リーゼロッテに向けて進み出ながら言葉を放つ。


「舐めてくれるな……!」


 正面から放たれた闘気の威圧を受けて剣を掲げた男を前に、リーゼロッテは《オルト・クレル》を油断なく構える。


 相手は《真祖》と謳われるエミリアを倒すような化物の仲間――――それも副官の地位にいるのだ。

 その実力とてシュヴァルツに大きく引けをとることはあるまい。


 だが、相手が自身よりも強大な力を持っているからと、みすみす死を受け入れるような無様な真似ができようか。


 たとえ勝てずとも、ジュウベエ殿に顔向けができないようなことだけは絶対にできない!


「覚悟を決めたか。いい表情だ」


 シュヴァルツが感心したように唇を微笑みの形に歪めてつぶやく。


 嘲弄でもなく、それは本心から出た感情だった。

 決意を固めた人間の命の輝きはなんと美しいことか。

 は、久方ぶりに感情の不思議な揺らめきを感じていた。


 対するリーゼロッテはそんな感情の発露には気付かない。


「ならば、この世の見納めに網膜に焼き付けろ」


 ともすれば悲壮ともとれる覚悟を決めて宣言。リーゼロッテは前進から疾駆を開始する。

 対するシャッテンも、剣をゆっくりと旋回させてそれに続く。


 そうして、生き残りをかけた戦いが始まった。







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