第97話 夜の眷族



「平伏せ、下郎」

 

 それは聞く者の背筋を凍らせるような言葉だった。

 同時に、エミリアの掌から青白い何かが散ったと思った瞬間には、掲げられた両手から実体化した光の槍が射出されていた。


 無詠唱ノン・ワーズからの高速起動……! これが《真祖エルダー》とやらの力なのか……!?


 エミリアの垣間見せた鬼気と《真祖》の力を前に、リーゼロッテの肌が粟立つ。


「おっと」


 迸る雷の槍はまさしく光の速さでシュヴァルツへと飛来するが、男は構えを取らぬまま上半身を逸らすだけで二条のそれを回避。

 避けられた雷撃が背後の床と壁を穿ち、着弾の轟音を奏でて破砕する。


 一見して無造作な動きにも思えるが、重心の移動は最小限に留まっており、事実シュヴァルツは相手エミリアから片時も目を離してはいなかった。


 魔法が回避されるのは初めから織り込み済みだったのか、床から巻き上がった粉塵を目晦ましにエミリアは一気に間合いを詰める。

 単身で魔術と体術を使いこなす見事なまで連携であった。


 どうにか目で追わんとするリーゼロッテの視線の先で、エミリアの伸びる右手が形を変えて鋭い爪となり、陶磁器のように硬質化していく。


 しかし、高速で放たれるエミリアの一撃を、シュヴァルツは掲げた腕で難なく受け止めた。


「短期決戦を挑みにこられると思っていましたよ。上位種族たる《真祖エルダー》の爪を受ければ、さすがに我が身も無事ではすみませんからね」


「貴様、やはり《眷族ミディアン》化しておったか……!」


 忌々しげに漏らすエミリアからの紅玉色の視線と言葉を受けるも、対するシュヴァルツは依然として微笑を浮かべている。

 両者の力は拮抗――――いや、こころなしかエミリアが押し切れていないようにリーゼロッテには感じられた。


「ええ、このとおり」


 空中に固定した左腕でエミリアの爪の一撃を受け止めたまま、シュヴァルツの右腕が急速旋回。

 掌底が可憐な姿をした少女の脇腹へと叩き込まれるが、エミリアはそれを軌道上に左腕を割り込ませて受け止める。


 筋肉の軋む音に続き、それだけで受け止めきれなかった骨の砕ける鈍い音が地下空間に響き渡る。

 エミリアの表情が一瞬の苦痛に歪むが、そのまま掌底の勢いを身体全体で受け止めながら後方へ飛ぶ。


 シュヴァルツの一撃に吹き飛ばされながら、空中で体勢を立て直したエミリアは地面に音もなく着地。

 完全に折れ曲がっていた左腕は、軽く腕を振るうと


 リーゼロッテからすれば冗談のような光景だったが、シュヴァルツを筆頭に男たちに驚いた様子はない。

 この時点で、必然的に彼らにも似たような回復力が備わっている可能性が高いと判明し、リーゼロッテに背筋に寒気が走る。


「不肖の身ではありますが、どうも私には適性があったようでして。他の仲間などは人狼ワーウルフほどの力しか得られない者もおりましたが……」


 距離が遠退いたエミリアへ見せつけるかのように、笑みを深めて露わになった口唇から覗くのは鋭く伸びる二本の犬歯。


吸血鬼ヴァンパイア……!」


 驚愕の言葉を発したのは、対峙するエミリアではなく今や傍観者となったリーゼロッテだった。


 吸血鬼は他の高位魔族とは違い、人の社会に紛れ込むことを厭わない狡猾な存在として知られている。

 しかし、その絶対数の少なさからここノウレジアより北方の小国くらいでしか出現が確認されていないはずだ。

 それがこのような人類圏の真っただ中に現れるなど、リーゼロッテの常識では到底考えられないことだった。


吸血鬼ヴァンパイアですか……。この姿を見ればそう思うのも無理はありませんが、そのような存在と同列視されたくはありません」


 そこでシュヴァルツの瞳がリーゼロッテへと向けられる。

 真っ向から向けられる視線に、リーゼロッテの身体は射すくめられたかのように自由が利かなくなっていく。


「そうですね……。我々のことは“使徒”とでも呼んでいただければと、リーゼロッテ様」


 笑みを崩さぬまま、シュヴァルツは言葉を続ける。

 秀麗な美貌の双眸に嵌る邪悪な紫水晶アメジストの瞳。

 その奥には、まさしく夜の深淵シュヴァルツを湛えていた。


「くっ……!」


 真っ向から向けられた視線がリーゼロッテに突き刺さる。

 背筋を駆け抜ける悪寒と共に湧き上がるのは、言いようのない恐怖と意識が吸い込まれてしまいそうな感覚。


 まずい、魔眼の影響を……。


「走狗! 妾と戦いながら余所見をするとはいい気なものじゃなァッ……!」


 エミリアの静かな怒声がリーゼロッテの意識を現実に引き戻した。

 敢えて声を上げることでシュヴァルツの魔眼を逸らさせたのだ。


「そのようにはしたない真似を……」


 そして、その代償となるのは奇襲を仕掛ける機会チャンスだった。


 地面を蹴りながら腰を落として高速で接近する純白の少女。

 それを迎撃するべく、シュヴァルツからの拳が鋭い風切り音を伴って放たれる。

 上段から降り注ぐ打撃をエミリアは超反射というべき急停止で避けると、その場で地面に向かって身体を傾けると両手をついて側面に回転。


「お返しじゃ」


 そのままエミリアは両足を開きながら身体を捻り、足首から膝、股関節を経て腰と背骨――――まさしく全身の動きを連動させた回転蹴りがシュバルツを強襲する。


「くっ――――」


 咄嗟に両腕を掲げて攻撃を受け止める夜の眷属。

 しかし、迎撃を仕掛けたことで体勢が元に戻っていなかったこともあり、エミリアから放たれた強烈な一撃を受け止められず後方へと転がっていく。


 常識はずれの体術を見せつけを成功させた《真祖》は、即座に腕のたわみを利用してもう半回転。

 この隙をまたとない好機と見たのか、着地と同時にエミリアは次の動きにシフトした。


 仲間の方へと転がっていったシュヴァルツたちに両手を向けると同時に、膨大な魔力を両腕の先に収束。

 範囲攻撃の気配を感知したシュヴァルツたちは咄嗟に魔力結界を構築しようと身構えるが、そこから放たれたのは高速の攻勢魔法ではなく拡散するように広がっていく黄緑色の煙だった。


 ――――毒竜の息吹ブレスオブカーズの再現か……!?


 一点を貫かんとする攻撃魔法ではなく、より広範囲を巻き込むことを狙って放たれたそれは、エミリアの操る魔力の誘導もあってか無秩序に広がるのではなく、渦のように明確な殺意に誘導されるようにシュヴァルツたちを包み込んだ。

 

 直後、激しい咳や嘔吐の呻きが聞こえ、地面に重いものの倒れる音が奇妙な色をした煙の中から響いてくる。


 しかし、それでもエミリアは止まらない。


 ふたたび膨大な魔力を掲げたままの両手に魔力を集めると、鉄すら溶解させる勢いの火炎の渦を叩き込んだ。

 毒の煙同様に魔力の指向性を調整し、結界を張っていなければ輻射熱でリーゼロッテや倒れた学生たちにまで被害が発生していたであろう。


 黄緑色の煙が、今度は凄まじい炎によって黒煙へと変わっていく。


 圧倒的な体術と魔法の連携を前に、リーゼロッテは驚愕に支配されて動けずにいた。

 それは恐怖からのものではない。

 自分には、目の前にある戦場に立つ資格がないと思い知らされたためだ。


 ふと、リーゼロッテは違和感を覚える。

 まさしく感覚的なものであったが、エミリアの生み出した逆巻く業火。その周辺に漂う煙の流れが、不意に小さく乱れたように見えた。


「――――ッ!!」


 次の瞬間、そこから漆黒の矢が飛び出してくる。

 まるでタイミングを計るかのように、黒煙の中から飛び出てきたシュヴァルツは高速で間合いを詰める。


 驚愕に見開かれるエミリアの瞳。

 深紅の輝きを放つ双眸には、自身へ向かって右腕を繰り出すシュヴァルツの姿が映し出されていた。


「エミリア殿!」


 戦いの行方を見守っていたリーゼロッテの喉から叫びにも似た声が漏れた。


 しかし、反応は間に合わない。


「――――おの、れ……」


「やれやれ……。このような搦め手を使うしかないなど……。、エミリア様」


 絞り出されるようなエミリアの言葉。

 それを遮るシュヴァルツの溜め息交じりの嘆きが、そのすぐそばで硬直したままの少女に向けて放たれるた


「そんな……」


 リーゼロッテの口から次いで出た言葉は、呆然としたつぶやきのみ。


 そして、彼女が向ける視線の先では、荒れ狂う炎の奔流を掻い潜ったシュヴァルツから放たれた貫手が――――エミリアの左胸を貫通していた。


「まさか《血継創界》の発動さえもできない有り様とは……」


 右腕を引き抜くシュヴァルツ。

 その際漏れ出た言葉にはすくなからぬ失望の響きが含まれていた。


「ごぼっ……!」


 一方、今の一撃で内臓に絶大なダメージを負ったエミリアは激しく喀血。


 それでも、胸に穴を穿たれてもなお、少女は倒れまいと必死で耐える。


「貴様……いった、い、どれ、だけの……血を――――」


 口唇から一筋の血を流しながら、エミリアは震える身体で自分へと冷めた瞳を向けてくるシュヴァルツに向かって問いかける。


「さて……。百から先は覚えておりませんな」

 

 意識が遠退きかけているエミリアを余所に踵を返したシュヴァルツは短く、そして静かに言葉を返すのだった。




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