第95話 急がば飛んでけ


 悪所の中、動く者が誰一人いなくなった建物を飛び出た俺たちは、元来た道を全力に近い速さで走り抜ける。


 ――――クソ、狙いはだと……!?


 草履で石畳を蹴りつけながら、俺は口の中で小さく舌打ち。

 耳鳴りのするような感覚が焦燥感と不快感を脳へと伝えてくる中、なんとか気持ちを落ち着けようとするがそれもままならない。


 調によってヤツらの正体がバルベニア王国の工作員であったことが判明したりもしたが、今はそんなことなどどうでもよくなっている。


 自分でもわかるほどに、俺は冷静さを失っていた。


「すみません、兄者。俺が解決を急いだばかりに……」


 俺の焦りと苛立ちが伝わってしまったのか、傍らを疾駆する征十郎がすまなそうに口を開く。


 ……どうにも感情が漏れ過ぎている。


 自分らしくないと言い聞かせるように、俺は無理矢理感情を押し込めようとする。


「いや、お前のせいじゃない。むしろ、ヤツらのアジトに踏み込んで情報を得ていなければもっとひどいことになっていたはずだ」


 だが、これでもけっして最善の選択肢を拾えたわけではない。


 ひと言でいってしまえば、俺たちの読みが甘かったのだ。


 ヤツらが例の“薬”を色街にバラ撒いていたのは、非合法な手段での活動資金集めやノウレジア執政府への食い込みが目的だとばかりに思っていた。


 しかし、実際に蓋を開けてみれば、それはあくまでもにしか過ぎなかったのだ。


「まさか、こちらがついでだったとはな……」


 見事にやりこめられた不快感が喉を衝いて言葉となる。


「侮っていたつもりはありませんでしたが、そこが狙いだとも思ってはいませんでした。撒き餌に踊らされるなんて……」


 征十郎の言う通り、ヤツらの狙いは、はじめからそこだけだったのだ。


 色街を利用する人間には様々な身分の者がいる。

 なけなしの金をはたく人間もいれば、一晩ですさまじい金を落としていく貴族まで千差万別だ。

 上級貴族の財力であればわざわざ出かけずとも妾を囲い込むなどできるだろう。

 だが、もしそのような身分であっても家庭などの複雑な事情を抱えていたりすると、実際に色街の高級娼館へと足を運ばざるを得ない貴族も存在しているらしい。


 そして、そこには国許を離れて自由になったことで、若い性欲を持て余す他国貴族の子弟も含まれていた。


「こんなことならもっとリーゼロッテから話を聞いておくべきだった……」


 “連中の狙うモノの中には各国の貴族子弟が通う学園とて含まれているのでは?”

 たとえすこしでもこの考えに至れたのなら、ずっと早く気がつけることだった。


「兄者……」


「……すまん。詮無いことを言った」


 冷静になるべく、俺は一度思考へ戻って情報を整理する。


 思えば人間の心理をよく理解している策だった。

 学園に通う貴族子弟で密かに娼館へと通い、かつ色欲に溺れてしまうような意志の弱い者。それを探すのはけっして難しいことではない。

 中でも実家の地位があって、金回りが良くはない人間が狙い目となる。


 ただでさえ娼館通いに金を使っているところに例の薬へと娼婦経由で依存させ、融通する代価として学園に侵入できるようにする――――。

 実に有効なやり口だ。


 明らかに異邦人のナリをした俺だって、護衛と説明するだけで学園内にはリズと共に立ち入ることができたのだ。

 それを他の貴族子弟にできない理由などあろうはずもない。


 今頃、シャッテンたち本命の連中が学園の地下迷宮へと侵入を始めている頃だろう。

 いたずらに学生に被害を出すとは考えにくいが、もしそうなればリズの身が危ない。


 そう思っていると懐に熱。

 取り出したのは次期大公選定の儀に際してリズに持たせていた首飾りネックレス型の魔道具 《碧海樹の勾玉》――――その対となるの《紺碧樹の勾玉》が青から赤に変わって警告を発するべく輝きを放っていた。


「案の定か……!」


 リーゼロッテの身に危機が迫っていることを告げる報せに焦燥感が募る。


 ちょうどそこで色街を抜けて市街地へ出るが、その先には人々の行き交う雑踏が見える。

 あの中を突っ切っていくことはさすがに不可能だった。


「近道をするぞ、ついて来れるな!」


 ――――頼む、間に合ってくれ。


 そんな思いで俺は叫ぶ。


「当然!」


 先に進む俺へと選択を委ねるように、背後へと回った征十郎からは力強い同意が返ってくる。


 迷わず俺は裏路地へと飛び込むように入り、すぐ横手にある壁に足をかける。

 耐えられるだけの強度があることを確認した上で、目の前の煉瓦を蹴って斜め上へと跳躍。

 反対側の壁も同じように蹴って、それを数回繰り返すことで上昇していく。

 登攀とうはんするよりもこちらの方がずっと速いのだ。


「……こっちだ!」


 屋根へと飛び移った俺たちは、そのまま家々の屋上部分を駆けていく。


 途中、大通りへとの真上へとさしかかるが、全身に“オーラ”を循環させ、そのまま一気に長距離を飛び越える。


 遥か上空に視線を向ければ、そこには透き通るような蒼穹が広がっている。


 そして、今の俺にはその澄み渡る色が、どうしようもなく鬱陶しいものに感じられた。




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