第92話 深淵からの風


 熱量を持たない仄かな灯りが薄暗い洞窟のような通路を照らす。


 それは、数々の魔物や罠などを用いて人の侵入を拒みながらも、《魔石》や武器・防具を生み出し誘蛾灯のごとくに冒険者たちを招き入れようとする矛盾した姿の一端でもあった。


 そんな学園の地下に存在する《封印迷宮》へと踏み入ったリーゼロッテたちは、他の学生集団チームに後れを取らぬよう深部を目指して進んでいた。


 ――――蒸し暑い。

 それとも自分自身の感情が昂っているからだろうか。


 湿り気を帯びたわずかに黴臭い空気と外よりも高い温度によって、純白に近い玉の肌へと浮き上がった汗が、一筋の滝となってリーゼロッテの頬を静かに流れていく。


 無論、鎧の下などは言うまでもない。

 それでもあのままでいるよりはずっとマシだったに違いない。

 最終的に、リーゼロッテは持ち込んだ鎧そのままでは身動きが不十分になると判断し、直前になって鎧の不要な部分を取り払って軽装化を図っていた。


 ――――脱いでおいて正解だったな。


 公国時代は重装ともいえる防具を纏っていた彼女だったが、ユキムラとの訓練の中では「大規模ないくさ以外では、具足よろいは時として身のこなしを奪うだけとなり、かえって勝利を阻害する」と教わったことで考えを改めていた。

 さすがに、ユキムラのように鎧の類を一切身に着けないということはできないが、それでもリーゼロッテの戦い方は以前に比べてはるかに速度を重視する戦い方へとシフトしつつあった。


 しかし、ジュウベエ殿が具足を纏うのは、いったいどのような戦いなのだろうか?


「さっさと進むぞ! 他の集団に負けたらどうするつもりだ!」


 先頭を進む――――いや、譲ろうとしないひとりの男子学生の叫びにも近い怒声がリーゼロッテの意識を現実に引き戻した。


 ダミアン・ヴィレ・ランベール。

 ろくに会話もしたことのないリーゼロッテは、ノウレジア王国に近い国の侯爵家の跡取りだと記憶しているくらいだ。

 しかし、どうも彼は立場からくる意識なのか、はたまた世間の仕組みを知らない田舎者なのか、仕切りたがりな性格をしているようだ。


 ダミアンは剣技に最も優れるリーゼロッテが最前衛として進むことを「たまたま剣で主席となっている女風情になど譲れぬ」と頑なに拒み、どれだけ心配性なのか生身部分を覆い隠すレベルの全身鎧フルプレートを着こんで汗だくになっている。

 見事なまでの二枚舌ダブルスタンダードなのだが、おそろしいことに本人にその自覚はまるでない。


「自分で負けを呼び込もうとしてるヤツがなにを言ってるんだよ……」


 取り回しを重視した短槍を握る生徒が、呆れ混じりに小さく漏らしたのをリーゼロッテの聴覚が捉える。

 陣形というには少々大げさだが、前衛と後衛の立ち位置を無視して先行しようとするダミアンの動きに辟易しているようだった。


「ああいうのは、敵以上に始末に負えないわね」


 近くで放たれたエミリアの声もひどく冷たい響きだった。

 実に信じがたいことだが、ダミアンの動きは声で敵を招き寄せ、自身が最初に餌食になることが目的のようにしか見えないのだ。


 先が思いやられる――――リーゼロッテは頭痛を覚え始めていた。


 地下一層は、同時に異なる入口からスタートさせることで集団の差異――――不公平さをなくすための階層だった。

 あくまでも途中までは分岐路が迷宮の中心となっており、教員が説明する範囲では地下四層にいち早く辿り着いた集団こそがこの試験における実質的な先駆者となるらしい。


 なにがなんでも成功させたい。

 そんな意識がダミアンを急がせているのだろう。


 ――――意気込みは上々だ。しかし、その大声が魔物を呼び寄せることがわからないようではな……。


 集団の空気に構わず先へ進もうとするダミアンを、リーゼロッテは後方から冷めた目で見遣る。

 なにも一番手が良いことづくめとは限らない。

 というよりも、それを最後まで維持することがどれほど困難であるか――――そこに気がついていないからだ。


 最終目的地が他の集団と同じであるならば、その途中に待ち受ける罠や魔物の襲撃もほぼ同様のものとなる。

 つまり、分岐路が合流した後は、障害となる諸々を一番手を進む集団が対処しなければならず、後からの集団はそれよりも負担を軽減させることができるのだ。


 もちろん、そのような小細工をせずとも、すべてを跳ね除けられるだけの実力があれば構わない。

 だが、どう控えめに見ても、彼にその実力があるようには思えなかった。


 貴族子弟を中心とした集団ともなれば、なにがあろうが自己責任というわけにはいかない。

 引率の教員がそれぞれにつくのだが、彼らは本当に危険だと感じるまで手はおろか口さえ出すことはないと事前に通達されていた。


 ただ淡々と役目をこなし、学生たちの振舞いを見て成績をつける。

 これはなかなかに実践的なやり方だなと思った。


「だいたい、こんなメンバーを選んだ学園が信じられ――――」


 好き放題言い始めたダミアンの言葉を、他の面々は聞かなかったことにした。

 この場でもっとも地位の高いリーゼロッテがなにも口にしない以上、他の子弟が勝手に動くのは貴族の慣例としては間違っているからだ。


 教員殿の中で、彼はどのような位置づけになっているのだろうな。


 ふとリーゼロッテは空気を読んだかそのようなことが気になった。

 もしも集団における協調性などまで見ているとすれば、ここで集団の一員たる自分が彼を諌めるべきかどうかを考える。


 ……いや、まだその時機ではないな。


 しばらくの間考えたが、結局リーゼロッテは口を出すことはやめにした。

 今「貴殿の行動は危険を呼び寄せるだけだから静かにするように」と忠告しても、ダミアンが耳を傾けることはないだろう。


 おそらく「臆病風にでも吹かれたか? これだから女風情が騎士の真似事をするのは――――」くらいの暴言は平然と言ってのけるに違いない。


 ならば、

 リーゼロッテはそう判断した。


「――――きたな」


 そうこうしているうちに通路の向こう側から複数の気配。

 足を止める一向の前に、なにかを引きずるような音を立てて発生源が闇の奥から姿を現す。


不死者アンデッドか……」


 短槍を握る男子生徒の口から嫌悪感の漂う言葉が漏れる。


 は人間の死体にしか見えなかった。


「醜悪な……」


 息絶えた生物が、野晒しとなった状態で大気中に漂うマナの影響を受けて発生する魔物――――死人ゾンビだ。

 ちなみに、発生時期がもっと遅れ、肉や内臓などが腐り大地に吸収されてからだとスケルトンになる。

 なぜ生物が滅多に立ち入らない迷宮内にゾンビのような魔物が生み出されるのかは謎に包まれているが、これも迷宮が人に与える“試練”のひとつなのかもしれない。


 事実、実体を持つアンデッドは、その怖気を誘う見た目と強靭な生命力が冒険者にとっての強敵となる。


「て、敵――――」


 しかし、そんな異形の魔物を目の当たりにして、先ほどまで威勢の良い言葉を発していたダミアンは完全に凍りついてしまった。 


 ……これはまずいな。


 そんな中、リーゼロッテは別の意味で危機感を覚えていた。

 ダミアンのことなどどうでもよくなるほどに、彼女はアンデッドという存在にいい思い出がなかったのである。

 公国で遭遇した強大な不死者イルナシド死霊術師ネクロマンサーとの戦いの記憶が、胸を刺す疼痛となってにわかに蘇ってくる。


 だが、今はそんな感傷に浸っている時ではない。

 それでは、ユキムラに誇ることのできる結果を残せなくなってしまう。


 ならば、ここにきて出し惜しみをすることはない。

 というよりも、


 表情を引き締めたリーゼロッテは、腰の剣を引き抜くやいなや近くにいたエミリアへ軽く目配せをすると迷わず前進を選んだ。

 そして、瞬時に破邪剣 《オルト・クレル》が持つ重厚な刀身へと、不死者アンデッドを輪廻へと還すための桔梗色ベルフラワーの炎を宿らせる。


 そうして、戦いの始まりを宣言するべく、リーゼロッテは三日月のように鋭い弧を描く口唇を歪めて口を開く。


術式起動セット・レディ――――始炎イグニッション


 ついに、リーゼロッテはその身に秘めたる牙を解放した。


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