第4章~血を求めしものたち~
第61話 幾度目かのはじまり
漆黒の中に星の青い瞬きが広がる夜空には、冴え冴えとした刃を思わせる銀色の三日月がかかる。
雲ひとつない透き通るような夜だった。
オウレリア大公国の北西部に位置するバルベニア王国の西側には、海への道を塞ぐように“黒き森”と呼ばれる巨大な領域が存在している。
そこは強力な魔物が数多く生息するとされ、腕利きの冒険者でさえも滅多なことではこの森には近付こうとしなかった。
そして、その最深部には、
外敵からの侵入を防ぐために建てれたはずの城郭も、長い間の風雨に曝されてもはや機能を果たせなくなっているが、今となっては押し入ろうとする存在すらいなくなって久しい。
そんな廃城となった建物の中、夜の闇に包まれた廊下を音もなく歩くひとつの影。
窓から差し込んでくる淡い月明かりで夜闇に浮かび上がる輪郭から、影の正体が小柄――――少女のようであるとわかる。
不思議なことに、その歩みには闇を恐れる気配は微塵も感じられない。
闇の中で炯炯と鮮血のような紅の輝きを放つ瞳は、暗闇の向こうさえも容易く見通し、荒れ果てて瓦礫の散らばる廊下をただただ静かに歩いていく。
記憶を頼りに足を進める影は、元々テラスとなっていた場所に出る。
その途端、まるで主を出迎えるかのように、月の灯りが姿を変えて影を照らし出した。
空に浮かぶのは、紅い満月であった。
「……久しぶりじゃな」
ふと形の良い唇から放たれた声は、鈴が鳴るようなうら若い少女のもの。
夜空に輝く深紅の月に向けられたそれは、はるか昔からの友人に向けるような言葉である。
深紅に染まった月明かりの下で、露わになった影。
月光に右手を掲げて見せるその姿は深紅のドレスに身を包んでいた。
腰まで続く長さの純白に近い髪は月明かりを浴びて妖しく輝きを放ち、透き通るように滑らかな白磁の肌は、夜の闇にも月明かりにさえも染まらぬ純然たる美しさを宿している。
身体の輪郭を形成する曲線は少女のものでありながら、その身からはなぜか妖艶な妙齢の淑女ともとれる不思議な雰囲気を放っていた。
もう少し低くなれば吐く息とて白くなるであろう寒空の下、少女は平然とこの空気を楽しんでいた。
「変わらぬのはおぬしだけかの……」
言葉と共に少女が目を向ける月下の庭園は、彼女の記憶とは大きく異なり、まるで森のようになっていた。
整然とした間隔の下に植えられていたであろう樹木たちは、長い年月を経て枯れ果ててしまったものと巨木となったものに分かれており、残った木々が彼らのぶんまで生きようとするかのように緑の葉を夜空に広げている。
かすかに湿った風が吹き込んで緑の群れを揺らし、さざめきとなって夜のしじまに広がっていく。
庭園に置かれていたはずの神像を模した彫刻も、壊れてしまったのか持ち去られてしまったのか、あるいは生い茂る木々に飲み込まれてしまったのか、その姿は見えなくなっていた。
流れ出る水の美しかった噴水も同様だ。
薄々感じてはいたことだが、“あの当時”の面影はほとんど残されていなかった。
そんな遥かな過去へと思いを馳せる少女の顏へ、不意に不理解の色が浮かぶ。
「しかし、なぜ今になって目覚めたのじゃ……。“あの日”、我らは……」
少女の声に含まれる感情には、幾多の星霜を重ねてきた深みとでもいうべき響きがあった。
「また、世界は荒れるのじゃろうな……」
幾分かの寂寥感をまとった言葉を発したその瞬間。
まるで少女の声に応じるかのように、遥か遠くに聳える泰山から咆吼が上がった。
空気を通して伝わる大音声は、遠く離れているというのに、そこにこめられた歓喜と魔力の波動がここまで伝わってくるようであった。
「まさかヤツも目覚めかけておるのか……。やはりとは思ったが、我だけではなかったか」
付近の森の中では、押し寄せる禍々しいばかりの魔力の余波を浴びた魔物たちから狂乱の鳴き声が上がっていた。
幾多の外敵を退け、喰らい、蹂躙し、それぞれが強力な存在として振る舞ってきたはずの彼らが、明らかに“その存在”に怯えていた。
未だにその頸木からは解き放たれていないようだが、それも時間の問題であるかのように思われた。
咆吼ひとつでこれだ。
もしその身が解き放たれればどのようなことになるか。
「本能の赴くまま幾多の地を焦土とし、英雄たちに殺されかけてもまだ暴れ足りぬというのか、血に飢えた邪竜ザッハークよ」
薄く笑いながら、歌うようにつぶやく少女。
しかし、精巧に造られた人形のようにさえ見える美貌――――その額にはわずかな汗が滲み出ていた。
「……さて、なにをするにもまずは情報が必要じゃな」
小さく息を吐き出した少女の繊手が掲げられ、続いて眼が妖しく輝く。
空間そのものを撫でるように、細い指先が躍った次の瞬間。
城郭の周囲を覆う木々が、まるで時の加速が早められたかのように枯れ始めていた。
「もうここには戻らぬじゃろうが、このまま木々に覆われるのでは忍びない。せめて、我が記憶と共に美しく枯れ落ちるがいい」
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