第58話 大公閣下のブランチ


「時に、貴殿はワインを嗜まれるか?」


 テーブルの対面に腰を下ろしたエーベルハルトが、俺に向かって訊ねてくる。


「……ええ、人並みには。質の好みもそれなりにはございますが、酒の種類だけで飲む飲まないを決めることはございません」


 こちらが招かれている側とはいえ、あまり遠慮していても話が進みそうにないので、俺は素直に好みを口にすることにした。


「ははは、ずいぶんはっきりとものを言う男だ。……まぁ、それなら満足してもらえることだろう」


 俺の物言いを受けたエーベルハルトはにわかに苦笑を浮かべ、その後でこの空気を楽しむようなものへと表情を変えた。


 手で促すと、給仕役のメイドが俺の横に立つ。


 磨き上げられた硝子杯グラスの中へと、静かに注がれていく葡萄酒ワイン

 深みのある赤紫の色合いといい、漂ってくる芳醇な香りといい、明らかに常飲するようなものではないと即座にわかるものだった。


「“祝杯”のために用意したとっておきの一本だよ、ユキムラ殿」


 酒飲みの悲しいサガによりワインへと興味の視線を向けていたからか、エーベルハルトから声がかけられる。

 高級品を開けるからにはそれなりのワケがあると思っていたが、まさかを理由にするとは。


 やはり、この男は最初から――――


「……さて、貴殿からすれば言いたいことも多々あるだろうが、まずは乾杯といこうではないか」


 こちらの思考を見透かすかのように、エーベルハルトは硝子杯越しの視線を向けてくる。


「では、この国の未来と“新たな出会い”に――――」


 前口上の内容に思わず顔をしかめそうになるが、ギリギリで耐える。


「「乾杯」」


 この大陸の慣習に従って硝子杯グラスを軽く合わせると、不純物の少ない硝子だけが奏でることのあたう澄んだ音が鳴り響いた。

 まるでこちらの心中など関係ないと言わんばかりに。


 俺はエーベルハルトが先に口をつけるのを静かに待つ。

 壮年に足を踏み入れた年齢の男にしては形のよい唇に硝子杯の縁が触れる。


 それを見届けてから葡萄酒を口に含むと、まず広がるのは控え目な果実の香りだった。

 まだ眠っているのか口の中で軽く転がしていくと、重厚な渋みの中から少しずつ柔らかで濃厚な香りと爽やかな酸味が顔を覗かせてくる。


「これは……かなり複雑な味わいだが……いや、ダメだ。美味いとしか言えないな……」


 思わず口を衝いて言葉が漏れる。

 だが、まるで意味をなさない。それほどの衝撃だった。


「その反応が見られただけで、私もこれを開けた甲斐があるというものだ」


 満足気な笑みを浮かべて静かに頷くと、ふたたび硝子杯を傾けるエーベルハルト。


 続いて出てきた料理は、奇しくも前日にリーゼロッテと食べた牛肉のステーキだった。

 こちらはより繊細な味付けにしているのか、焼き目こそついているものの仕上がりがかなり異なっている。


「私はこれを肉に合わせるのが好きでね。焼き方も料理長には相当うるさく言っている。よくやってくれているものだよ」


 ナイフで大きめに切った肉を口へと運んでいくエーベルハルト。

 なかなかに豪快な食べ方だ。相当な健啖家なのだろう。


 俺もそれに倣って切った肉を口に運ぶ。


 ……思った通り、調理方法からなにからが異なっていた。


 先日出されたものは、野性味を感じさせる焼き目と濃い味付けのものだったが、対するこちらは強火で一気に焼き目をつけた後で一旦火を止め、余熱で時間をかけて火を通しているようだ。


 切断面内部を見れば、ほのかな赤味を残しつつもしっかりと絶妙な温度で調理されており、軽く噛むだけでやわらかな肉の繊維がほどけながら肉汁と踊り、この肉の持つ味わいを舌へと伝えてくる。

 また、味付けも繊細な葡萄酒に合うよう比較的薄目にされていて、それが後から口にやって来る至上の液体とこれでもかというほどによく調和するのだ。


 しばらくの間、食事を続ける互いの間に無言の空気が流れる。

 食器が皿に当たる小さな音と、グラスがテーブルに戻される音だけ。


 どうせなのでと、葡萄酒を遠慮なく――――もちろん味わいながら飲んでいく。


「……さて、そろそろ私に訊きたいことがあるのではないかね?」


 ひと通り食事が済んだところで、エーベルハルトはナプキンで口元を拭った。


 それを合図としたかのように、控えていたメイドたちと執事が空気を察して一礼のもと退室していく。

 視線を動かすと、黒の騎士は依然として立ったままだった。どうやら彼は聞くことのできる立場にあるらしい。


 ……さて、これは訊いてこいということか。


「……では、単刀直入に。今回の件、すべて閣下の思惑の内だったのでしょう?」


 若干の面倒さを感じつつも、俺は遠慮なく切り出すことにした。


 おべっかや社交辞令を求めてエーベルハルトが俺を呼び出したはずもない。

 ならば、ここは率直にいくのが一番だろう。


「……ふむ。では、そう思う理由を聞かせてもらおうか」


 硝子杯をテーブルへ置き、静かに問いかけてくるエーベルハルトの表情には、特段驚きの感情は見受けられなかった。

 むしろ、続きを促しているようですらあった。


「思えば、不審な点はいくつもあった」


 口調を素のものへと変え、俺は言葉を選びながらゆっくりと口を開いていく。


「儀式の目的――――次期大公を選定するという、これがまずおかしい」


 俺の指摘に、エーベルハルトの口元が小さく歪む。

 笑ったのだ。


「どう考えても時期尚早と言わざるを得ない。現大公あなたが体調を崩すなど健康面での不安があるというなら話は別だが、見ての通りあなたにその気配は微塵もない。であれば、“別の理由”があったと考えるのが自然だ」


 これだけ飲み食いできるのだ。

 今になって「不治の病に侵されていました」と言われたとしても、とてもじゃないが信じられるわけがない。


 それに見てみろ、この自分の思考に気付いた人間が現れて楽しそうにしている表情を。


 権力というある種“猛毒の沼”に身を置く者の狂気。

 その一端を垣間見た俺は、若干の不快感を抱きながら言葉を続けていく。


「そうなると、そもそも次期大公を指名する行為自体が“揺さぶり”をかけるためだったと推測できる。しかも、


 続く言葉で多少なりとも意表を突けたか、エーベルハルトの眉がわずかに動いた。


「いかに人類が魔族との戦いの最中とはいえ、各国の為政者は間違いなく戦後を見据えているはずだ」


 勝敗が明らかになっていない中では楽観的だと思わなくもないが、だからといって何もしなければ後で詰む。

 まつりごととはそういうものだ。


「国主の代替わりが行われるなら、周辺国は間違いなく探りや工作を仕掛けてくる。しかし、後継者であるもののライナルトにはまつりごとの経験が圧倒的に足りていない」


「……なかなかに辛辣だな。まぁ、貴重な意見として聞いておこう」


 俺のライナルトを評した言葉に、父親であるエーベルハルトは苦笑を浮かべる。


「他国が暗躍する中、それに気づかないライナルトの野心を危惧していたあなたは、あえてリーゼロッテを次期大公の対抗馬に持ち出すことで、呑気なライナルトに揺さぶりをかけた」


 結局、既定路線のままライナルトを後継者として指名することが最大のネックだったわけだ。


 そして、梯子を外されたライナルトがどのような動きを見せるか、またそれに連動して動く勢力、これらを見定めるための“揺さぶり”が本当の目的だったのだろう。


 そう考えると、リーゼロッテは“当て馬”も同然だったわけだ。

 エーベルハルトの思考をなぞっている俺の内側に不快感が募ってくる。


「これは俺の勝手な推測に過ぎないが……あなたは一連の火種を、ライナルトとリーゼロッテ、それぞれの器を見極めるためにあえて利用したんだろう?」


 エーベルハルトの表情が一瞬固まった。


「……たいした推理だ。さすがは乱世を生き残っただけのことはある」


 小さく手を叩いて賛辞の言葉を口にするエーベルハルト。

 本当に褒められているんだかどうだかわからないが、今は無視して話を先に進める。


「だから、あなたは急遽リーゼロッテを次期大公候補へと加えることにした。突然のことに、おそらくライナルトは疑心暗鬼に陥ったはずだ。自分を外そうとしているのではないかとね。これもリーゼロッテの才覚に焦りを覚えていなければ起こり得なかったことだろう」


「ふむ、道理ではあるな」


 楽しそうだな、この親父。

 ついでにもう一言俺は加えておく。


「……まぁ、もしその時点で暗殺者でも差し向けられたら、叛意を抱くには十分な動機になりそうだな」


 実際、あの場でライナルトが放った言葉が真実であるなら、少なくとも一度は暗殺者を差し向けられていることになる。

 いくら違うと頭で否定しようとしても、答えを得ることができない疑念は心の奥底では澱のような闇にしかならないのだ。


 ……まぁ、端的に言ってしまば、精神的に脆い部分を突かれたわけだ。


「……貴殿は、まるで物言いをするのだな」


 エーベルハルトの言う通り、俺は実際に八洲でそれを見てきていた。


 ひとたび意識してしまうと、脳裏にはあの忘れがたい時代の記憶がまるで洪水のように押し寄せてくる。



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