第8話 三代目八取伴蔵
なんとなく、そうなる予感はしていた。
勘が告げたというよりは、明らかにそうだとわかる
だから、俺はその日、日が暮れてからすぐに街の中心にある酒場へと繰り出した。
「待ち合わせだ」と告げ、酒場の中でももっとも奥まった場所にあるテーブル席のひとつを貸し切っておく。
それから注文しておいた酒杯をゆっくりと傾けていたところ、この大陸に来てからは一度も耳にしていなかった樫で造られた下駄が木の床を叩く音が聞こえてきた。
――――来たか。
俺の目の前にひとりの女が音もなく腰を下ろした。
その際、ふわりとした香の匂いが俺の鼻腔をかすかにくすぐっていく。
「
凛とした声。
そして開口一番に発せられた言葉に俺は驚かなかった。
むしろ、案の定というところだ。
「ありがとうと素直に返しておくよ。しかし、俺ひとりのためにずいぶんと大袈裟なことをするものだな」
挨拶もそこそこにして、俺は探りの言葉を入れてみる。
なによりも驚くべきは、大将軍家の抱える“最強の
「大袈裟……でございますか?」
俺の言葉を受けた女は、こちらの意図を掴みかねたようにわずかに首をかしげる。
「そうだ。これを大袈裟でなければ何と言う? 八洲最強と名高い忍が俺を監視していたなどというのは。いや、ここは光栄とでも言うべきか?」
三代目
「過分なお言葉を。拙者は一介の忍に過ぎませぬ」
こちらの評価をやんわりと否定するかのように、女――――伴蔵は微かな笑みを浮かべて答える。
「どうだかな。……すまない、追加で酒を頼む」
給仕を呼んで伴蔵の分の酒を頼んだ。
「……拙者は任の途中にございますが」
俺の奔放な振舞いに、伴蔵はわずかに眉を
そういった反応だけを示すのはなんだか寂しいものだ。
「俺ひとりにだけ酒を飲ませるつもりか? ……まぁ、飲めないのであれば無理にとは言わん。美人が目の前にいるだけでも
小さく笑ってそのように嘯いてはみるが、実際に伴蔵は妖しげな美貌を惜しげもなく晒していた。
「忍には男も女もございませぬ」
そう淡々とは言うものの、現に伴蔵は女の格好をしている。
「おまえ、そんなこれみよがしの格好をしておいてその言い草はないだろう」と言いたくなったが……。
まぁ、忍の任として割り切っている可能性のほうが高いか。
「似合ってると思うけどなぁ……」
ポツリとだけつぶやいてみる。
伴蔵はこの大陸では珍しい
目尻こそほのかに垂れ下がってはいるが、力強く見える瞳にくっきりとした鼻立ち、それと肩にかかるかどうかの濡れそぼったような艶のある黒髪が彼女の美しさを際立たせていた。
仕上げとばかりに紅を引いた唇がひどく蠱惑的に映えており、これがひとたび蠢けば幾多の男も抗うことができずに理性を溶かされていくであろう。
すでに先ほどから周りにいる酔客たちの目を、これでもかと引きつけている。
きっと、誰も彼女の正体が八洲の間諜にして暗殺者も兼ねる“忍”であるとは考えもしないはずだ。
「まぁ、付き合えと言ったのは雰囲気づくりだよ、雰囲気」
「では――――」
そう短く言って、伴蔵は給仕の持って来た酒杯に口をつける。
俺に言われたため、最低限付き合うといった感じだ。
「そう警戒をするな。酒を飲んでいるだけだろう」
小さく肩を竦めてみせる。
とはいえ、言葉の上ではそう言った俺が相手をまるで警戒していないかと言えばそうではない。
くノ一と呼ばれる女忍者が、女人ならではの特殊な間諜として活躍することは知っているが、その技量と忍としての技量を兼ね備えている伴蔵はどれほどの実力を有しているか――――。
俺からすればまるで未知の存在であった。
当然のことながら、そのような相手を前に警戒をしないという自殺行為は選ばない。
しかし、あまり警戒し過ぎると、今度は
「貴方様を相手に、用心し過ぎるということはありません」
なるべくやわらかく話しかけているつもりの俺の言葉を受けても、目の前の忍は特別警戒を緩和する気配さえなかった。
むしろ、こちらの一挙手一投足を警戒しているような気配さえある。
いったいどれだけ危険人物扱いされているんだ、俺は。
「ひどい言われようだな」
溜め息を吐いて肩を竦めた俺は、仕方なく酒杯を傾ける。
ここで猫だましでもしてからかおうものなら、間違いなく目の前のテーブルがひっくり返る。
衝動的にこの女の鉄面皮を崩してみたくなったが、さすがにそれは自重する。
「すくなくとも、大老の方々は雪叢様を相当に危険視されております。天下原での“軍団割り”が相当な恐怖となっているのではないですか?」
俺の内心を見透かしたような伴蔵の言葉に、脳裏にあの戦場の記憶が甦る。
総大将を兄の雪頼が務め、その補佐に関白。まさしく八洲の天下人を決める戦いの中、俺は伏兵として騎馬衆を率いていた。
あの時は勝てるつもりでいた。
だが――――
「それも柳生のクソジジイに途中で阻止された。それ以前に、俺より強いと謳われる者など八洲にいくらでもいるだろうが」
敗北の記憶のせいか、少しだけ不貞腐れたような言葉になってしまったかもしれない。
「左様であるかもしれません。ですが、それに“権”――――高貴なる血筋をその身に持たれておられます。そのふたつを兼ね備えた方は御身の他にはおられませぬゆえ」
……結局はそこか。
目の前に置いてあった酒を一息に呷る。
ただ強いだけなら権力の前には風の前の塵に等しく、ただ古き権を持つだけなら新しい権の前にはもはや意味をなさない。
しかし、それが両方そろうとなればどうなるか。
「天下原での戦果。それに
「俺の居場所は八洲にはなくなった。そして、あちらこちらをさまよった末に、今はこんな西の辺境で酒を呷っているわけだが」
伴蔵の言葉を引き継ぐ。
幾多の戦での勝利と敗北を経て今の俺がある――――とでも言えば、多少は格好がついて聞こえるが、実際にはここぞの戦で敗れ死に損なっただけだ。
そういった感情を含ませて自嘲気味に笑いながら、もう一杯お代わりを注文する。
なぜか伴蔵の眉が寄った気がした。
「……それと、これは信秀様からの言伝でございます。「まことにご苦労。あとは好きに致すがよい」とのことです」
突然飛び出てきた大将軍の名前に、今度は俺の眉が動く番だった。
久しく会っていない従兄弟の顔が脳裏に浮かぶ。
「……自由、か。せっかくのお言葉だが、気の利いた答えは返せない。当面はこの街で暮らすだけのつもりだぞ」
信秀の言伝を聞いた俺の口から漏れ出たのはそれだけだった。
存外喜びが内心に生まれなかったのは、おそらく信秀の言葉が予想の範疇にあったからだ。
アイツはあれでいて身内にはここぞというところで甘い。
もっとも、それがいいところでもあるのだが。
「……雪叢様は、八洲に戻りたいとは思わないのですか?」
ふと、伴蔵の言葉がそれまでの事務的な口調からこちらの真意を訊ねるような響きとなって投げかけられた。
「……今の俺にそんな気はないな。今さら戻っても、せっかく訪れた太平の世に無駄な血が流れるだけだ」
八洲における上條家の時代はもう終わったのだ。
俺がいれば、それを受け入れられない人間の旗印に利用される。
せっかく魔王討伐という“しがらみ”から解放されたのに、そんな窮屈な人生を歩むことだけはまこと御免蒙りたかった。
だから、俺は八洲に戻る気など一切なかった。
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