第16話 パニックにメリッサ!


 とある賃貸マンションの、とある部屋の前に風間と恵の二人はいた。築40年を超えて老朽化の激しいこのマンションは、建て替えが計画されている。いまの古い建物は全て壊され、同じ土地にはもっと住戸数の多いマンションが建つ予定だ。


 そのため住人は既に立ち退いて、建物内はガランとしていた。

 ただ、この102号室の田中さんを除いては。


 102号室の呼び鈴を鳴らすと、中から出て来たのは白シャツに白い股引ももひき姿の少し腰の曲がった70過ぎの老人男性だった。

 彼は、険しい目つきでこちらを見てくる。そして、


「霧島エステートの風間と申します」


 と風間が挨拶するよりも早く、


「出て行かねぇからな!」


 と声を荒げて、ドアを閉めようとした。それを風間はドアの間に身体を挟み込んで制する。


「ま、待ってください、田中さん」


 ここの建て替え工事は霧島工務店が請け負っているらしい。ということは、霧島エステートの自分たちがこの老人をここからきちんと立ち退いてもらい、空っぽにした状態で霧島工務店に引き継がなければ、そのあとの行程が全てストップしてしまうことになる。


 すでに、マンションの入り口には建設予定の看板も建てられていた。建設計画を遅らせるわけにはいかない。しかし、この田中さんは、いままでも再三の退去願いにもかかわらず頑としてこのマンションから出て行かないのだ。これは、大変そうな案件だなと、風間と田中さんのやりとりを見ながら恵は思う。


 なんとかドアが閉まることは防いだ風間だったが、田中さんは何かしきりに叫ぶように文句を言っており玄関口で攻防は続いている。


 なぜ、出て行ってはもらえないんだろう。このマンションは昔の耐震基準で作られているため安全性にも問題があるし、何より外観だけでなく内装も配管も老朽化が激しい。それに、このマンションに住んでいた住人たちは建て替え期間中は他に引っ越す必要はあったが、新しいマンションが建てば優先的に入居が認められるのだ。


 しかし、田中さんは新しいマンションへの入居も拒んでいた。いまの古く危険なこのマンションに住み続けたいの一点張り。


 恵たち以前にも霧島エステートの人間や大家さんたちが立ち退きの説得にきていたが、みな田中さんの罵声の前に成果をあげられずにいた。

 報告書にあったとおり、田中さんは今も、何を喋っているのかわからないほど何やら大声で喚いている。


 風間は田中さんの説得を続けながら、恵の方に彼のビジネスカバンを渡してきた。


「ごめん。メリッサっていうやつ、探して開けてもらえないかな」


「あ、は、はいっ」


 恵は風間のカバンを受け取ると、その小瓶を探した。風間のカバンの中には書類やファイル類に混ざり、その底の方にゴロゴロと精油の小瓶がいくつも転がっていた。その中から、メリッサの小瓶を取り出すと蓋を開けて風間に見せる。

 風間が指を鳴らすと、レモンに似た清涼感のある香りが辺り一面に膨らんだ。


 すると、次第に田中さんの声に威勢が薄れてくる。そして最後には、


「まぁ。そんなとこに居られても寒いだけだから、こっちに来い」


 といって、部屋にあげてくれた。

 奥の居間の方にとぼとぼと歩いて行ってしまった田中さんの背中に、二人は玄関で靴を脱いでくっついていく。


「係長。さっきの精油」


「ああ。あれは、メリッサ。レモンバーム、ともいうけどね。パニックや何かショックなことがあったときに心を静める作用があるんだ。田中さんのあの罵倒は、たぶん、混乱からきてるんだと思う」


「え?」


 そんなことを二人で小声で話しているうちに、奥の居間につく。そこにはコタツがあり、田中さんは、きっとそこが定位置なのだろう、コタツの一角に座っていた。

 風間と恵の二人はコタツの前に正座をして、田中さんから話を聞く姿勢を示す。


 田中さんはコタツの上に一枚の紙を忌々しそうに置いた。

 それは『立ち退きのお願い』と書かれた紙。立ち退き期限は1ヶ月先だった。


「オレだって、ほうぼう家を探したさ。でも、どこもみつかんないんだ。どうすりゃいいんだよ」


 それは悲痛な声だった。

 ここに新しく建つマンションは、新築になった分、家賃設定もぐんと高くなる。提示された金額は、到底、田中さんに払える額ではなかったという。


 じゃあ他の賃貸を探すかと、田中さんは腰の痛みをおして何日もあちこち不動産屋を回ったのだそうだ。しかし、年金生活の田中さんが出せる家賃は、いまと同じ額が限度。そんな安い家賃はなかなか見つからない。


「そのうえ、一人暮らしの老人はダメなんだと。いつ、孤独死するか、わかんねぇからな。連帯保証人ったって、親族はみんな死んじまったかどこ行ったかわかんないやつらばっかで。子どももいねぇ。保証会社に頼んでも審査ってやつではねられる。公営住宅は抽選であたらねぇ。結局、どこも行き先なんてみつかりやしねぇ。なぁ、あんたらはこんな歳になったオレを追い出すのか? いまさら路上生活しろっていうのか?」


 八方塞がりなのに、退出期限はどんどん迫ってくる。

 だったら、石にかじりついてでも、ここにいさせてもらうしかないんだと田中さんは悲しい目で語った。


 そうか。転居先がどうやっても見つからなかったから、頑なにここにいたいと言い続けていたのか、じゃあ……と恵は考える。それなら。


「そういうご事情でしたら、私。田中さんのおっしゃる条件で転居できる賃貸物件、探してみます」


「「え……?」」


 これには田中さん、風間双方が驚いて恵を見た。


「え……ちょ、平野さん。そこまでやらなくても。それ、僕たちの業務範囲超えてるし」


「だって係長。転居先が見つかれば、田中さんは引っ越す意思はあるんですよ?」


「う、うん……まぁ、そうなんだけど」


「ちょっと私、探してみます」


 そう言って、恵はにっこり笑った。このときはまだ、高齢者の住まい探しがあんなに大変なこととは想像だにしていなかったが。

 

 ――――――――――――――

【メリッサ(レモンバーム)】

 イネ科の多年草。

 レモンに似た爽やかな香りがするため、レモンバームとも呼ばれます。


 精神を落ち着かせて感情のバランスを取り戻し、気持ちを鎮静させて気分を明るくさせる効果が高い精油です。混乱した心、ショックやヒステリー、パニック、神経過敏などに強い鎮静力を発揮すると言われています。


 また、胃を落ち着かせ消化を促す作用や、かぜのときに熱を下げる作用、血圧降下作用もあります。


 アレルギーを抑える作用もあり、とくに喘息などの呼吸器のアレルギー症状に効果があるようです。


 さらに、月経を整える作用もあるため、妊娠中は使用を控えた方が良いです。



【精油の楽しみ方・その3】

 〇トリートメントオイルをつくってマッサージ

 ベースオイル(キャリアオイル)と言われるものに精油を混ぜて、皮膚に付けてマッサージします。

 ベースオイルには、スイートアーモンド油、オリーブ油、マカデミアナッツ油、ホホバ油、植物性スクワランなどが使われます。

 ベースオイル50mlに対して精油10滴を混ぜて使います。


 〇洗顔ソープをつくる

 石けん素地100gに湯30mlを数回に分けて入れ、手で良く揉んで耳たぶより少し固いくらいになるまで混ぜ合わせます。

 次にハチミツ小さじ一杯に精油5滴を混ぜたものを、上記に加えてさらに混ぜ合わせます。

 手で形をつくって、風通しの良いところで一週間ほど乾燥させましょう。


 〇バスオイル

 ベースオイル20mlに精油1~5滴を入れて、よく混ぜ合わせます。あとは、お風呂の湯に入れて、よくかき混ぜてから入浴してください。ベースオイルを天然塩に変えると、バスソルトになります。


 〇発泡バスソルト

 重曹大さじ1杯、クエン酸小さじ2杯、天然塩小さじ2杯をよく混ぜ合わせます。

 グリセリン小さじ1/2杯と精油1~5滴をよく混ぜ合わせ、上記に加えてさらに混ぜ合わせます。

 ラップで包んで、ぎゅっと形をつくるとできあがり。


 〇シャンプーなど

 無香料のシャンプー、リンス、コンディショナーなど50mlに精油10滴を加えてよく混ぜ合わせます。


 ※保存期間は、1ヶ月程度です。高温多湿を避け、冷暗所や冷蔵庫の中に保管し、早めに使い切りましょう。


 ※自分で作ったものの責任は自分にあります。適切に管理し、保存期間を過ぎた物は使わない、異常を感じた物や肌に合わない物の使用はすぐにやめるなど自己管理できるようにしましょう。

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