第15話 グレープフルーツで身体を温めよう


 亜里沙のことは恭介に任せて、風間は車に恵を乗せると麓の休日診療所まで向かった。しかし山道を下る間、助手席に座る恵がずっと黙ったままなので、ハンドルを握りながらも風間は少し心配になる。


「まだ、痛む?」


 恵はブルブルと首を横に振った。


「すみません。係長。私の不注意でご迷惑かけて」


 しゅんとして言う恵に、


「なんだ、そんなこと」


 と、風間は小さく苦笑する。


「アウトドアに怪我は付きものだからね」


「……あと、ちょっと寒くて」


 そう言って、恵はわずかに身体を縮ませた。


「え……あ、そう? 暖房は入れてるけど」


「私、冷え性で。それに……」


 ああ、そっか。と風間はようやく気づく。冷え性なうえに、ずっと腕を冷水にさらして、そのうえ今も保冷剤を当てているのだからそれは身体が冷えるだろう。


「ごめん、気づかなくて」


 風間はすぐに車のエアコンの設定温度をあげると、助手席のダッシュボードをあけた。その中にいくつもの小瓶がじゃらじゃらと入っているのを見て、恵がくすりと声を漏らす。


「係長の周りって、いろんなところに精油がありますよね」


「……僕自身が、一番精油に頼ってるからね。と、これでいいや。これ、蓋開けてもらえるかな」


 ダッシュボードの中から一つの小瓶を取り上げると、恵に手渡す。それを恵が開けるのを確認してから指を鳴らした。車内に、ほんのりと苦みのある爽やかな香りが広がる。


「うわあ、これ、えっと……なんでしたっけ。なんか馴染みがある……あ、そうだ。グレープフルーツじゃないですか!?」


 そのころころと跳ねるような恵の声に、風間の表情にも笑みが浮かぶ。落ち込んだ様子だった恵に、元気が戻ってきたように思えて内心、安心もした。


「あたり。気分を上げてくれるし。何より、グレープフルーツもそうだけど、柑橘系の精油は血行よくして身体を温めてくれる物が多いからね。血行良くなると肩こりにもいいから、僕もよく使うんだ」


 車は山間部を抜けて、ようやく市街地に入る。ナビとして使っているスマホの案内に従って風間は目的地の診療所へと車を走らせた。


「係長のその力……いつ見ても思うけど、すごいですよね。どうやって使えるようになったんですか? 気がついたらできるようになった……とか?」


 恵の言葉に、風間はうーんと唸る。いつか聞かれるとは思っていた。実は、この力のことを知っている人間は職場には恵しかいない。風間は結構、人前でも気楽にこの力を使っているのだが、恭介も亜里沙も、単に「おまじない」だと思っているようだ。


 それは、彼らが風間が力を使ったときに増幅される香りの爆発を感じることができないからだ。いままでそれを感知できたのは、自分と、この力について教えてくれた人。それに恵の三人しか風間は知らない。


「僕にこの力があることを見つけて、使い方を教えてくれた人がいるんだ。まぁ、師匠みたいなものかな」


「え……そんな人がいるんですか?」


 丸くした目をこちらに向けてくる恵に、風間は「うん」と答える。


「香奈の……僕の奥さんのお祖母ばあさんなんだけどね。フランス人と日本人とのハーフで、今は南仏に住んでる。だから滅多に会えないけど。彼女こそ、正真正銘の魔女、だろうなぁ」


「うわぁ。フランスに住んでる魔女さんかぁ……きっと、素敵な人なんだろうな」


 目を輝かせている様子の恵がいま、頭の中にどんな人物を思い浮かべているのかは何となく想像つくが、だいたいそれで間違っていないだろうと風間は思う。赤茶けた屋根と白っぽいレンガの家に庭でハーブなんかを育てていて、昔ながらの暮らし方を大事に生きている、そんな人だ。家に行くと、いつもハーブのいい香りがした。


 もうすぐ車は診療所に着く。診療所の看板のある広い駐車場に車を入れながら、風間はふと三年前のことを話しだした。


「あの日。霊安室で最後に会った香奈のさ。手に。ある香りが残っていたんだ」


「……え?」


 なぜ、そんなことを恵にここで話そうと思ったのか、それは風間本人にもよくわからない。でも、なんとなく聞いて欲しい、話したい、そんな気分だった。もしかしたら、一人でずっと秘密を抱えることに疲れてきていたのかもしれない。


「検死されると、身体は綺麗に洗われて戻ってくるんだ。その手を握ったら、信じられないくらい冷たくて。怖いくらい冷たくて。でも、僕はずっと。時間が許される限り、香奈の手を握ってた。それでいよいよ部屋から出されるとき、気づいたんだ。僕の手に、何かの香りが移ってることにさ」


 恵は何も口を挟まず、ただ風間の話を聞いていた。


「その香りは、いままで嗅いだことないものだった。たぶん何かの香料か香水のようなものだと思う。でも、うちにあるものじゃないし、香奈が今まで使ってたものにも覚えがない。だから、……きっとそれは、犯人の匂い。香奈が残した、犯人の手がかりだと思った。その匂いを忘れないために」


 風間は恵に視線を向けると、静かに笑った。


「僕にはこの力が、必要だったんだ」






 キャンプ場では、恭介がトングで網に並べた野菜や肉を焼いていた。そのそばで、亜里沙は長い串に刺したマシュマロを炭火であぶる。じりじりと膨らむマシュマロを眺めるのは楽しい。もうできたかな、でももう少し、中を完全にとろっとろにするんだ、焦げないように注意して、と亜里沙は注意深く串をひっくり返す。


「ほら、もう焼けたよ。肉食べな?」


 恭介の声に、亜里沙はマシュマロから視線を離さず頷いた。


「うん。石田さん、お皿に入れておいて。あとちょっとで、いい具合にマシュマロ焼けるの」


「ほいよ」


 恭介が亜里沙の紙皿に肉や野菜をほいほい入れているのを横目に、亜里沙は熱でふっくら膨らんだマシュマロをクラッカーに挟んで大きく口をあけて頬張った。

 さくさくのクラッカーの間に、とろっとろになったマシュマロの甘みが広がる。


「よしっ、完璧」


 すぐに食べ終わってしまい、もう一個作ろうとマシュマロを袋から出して串に刺していると、肉をつついていた恭介が話しかけてくる。


「士郎とはさ。パパとは。バーベキュー来たりするの?」


 なにげない恭介の言葉に、亜里沙は「ううん」と首を横に振った。


「ママが死んじゃってから来てない。その前は、三人で何度か来たことあるけど」


「そっか……」


 恭介の表情が沈痛なものへと変わったことに亜里沙は気づく。なんで、こんなときにそんな話を持ち出すんだろうと思ったが、マシュマロを焼くのに集中しているフリをした。


「ママがいなくて、寂しい?」


 同情されているのだと感じた亜里沙は、少し仏頂面になって。


「そりゃ……寂しいけど。パパがいるからいい」


 憮然とそう答えた。川原に風が通り過ぎ、向こう岸に生えている背の高い木々がざわざわと葉を揺らす。


「そっか……」


 その葉音に紛れて。


「……メ……ね」


 恭介の言葉は、亜里沙の耳に全ては届かなかった。

 え?と亜里沙が聞き返したときにはもう、恭介はいつもの明るい雰囲気を取り戻していた。


「さあ、どんどん焼こうよ。いっぱい持ってきたから、好きなだけ食べて大丈夫だよ」


「う、うん」


 少し気になったものの、亜里沙もすぐに忘れてしまう。


「パパたち、早く帰ってこないかな」


 焼いたばかりのマシュマロを、竹串にささったままパクッと口に入れた。とろりと甘い幸せな味が口の中に広がった。


 ――――――――――――――

【グレープフルーツ】


 心配や緊張した気持ちを解きほぐして、楽しい幸福感をもたらす香りです。


 血液やリンパの流れを促進して余分な水分を排出する効果があるため、むくみやセルライト、二日酔いにも効きます。血行を良くするので冷え性や肩こりにも。


 食欲のバランスを整える作用があるので、ストレスからくる過食はおさえ、逆に食欲不振に対しては食欲を増進させる働きがあります。一方的に食欲抑制する作用ではなく、あくまで調整する作用なので、ダイエットで食事制限しているときに使うとより食欲を増進してしまう場合もあるため使い方に注意。


 デオドラント作用に優れ、体臭予防にも役立ちます。


 ※光毒性があるため、皮膚に塗ってすぐに日光などの強い紫外線にあたると、皮膚に炎症を起こすことがあります。




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