第9話 ローズマリーで頭脳を明晰に

 あるマンションのドアの前で、恵は小さくため息をついた。

 営業第三係は、サポートデスクや管理人では解決できない問題を扱う部署とはいえ、このタイプの仕事は特に気が進まない。


 それが、これ。ゴミ屋敷対応だった。


 ゴミ屋敷というと一軒家をイメージする人も多いが、実はマンションにもある。この部屋の前の共用廊下にも、建設現場においてあるような足場の金属や、古い三輪車、タイヤなどなぜここにあるのかわからないものが雑多に置かれていた。

 しかし通行の邪魔になるからと勝手にそれらを動かしたりすると、この部屋の住人が烈火のごとく怒り出すため、誰も手が付けられないのだそうだ。


 恵の隣に立つ風間は、インターホンのボタンを押す。室内にリズミカルな呼び出し音が鳴っているのがドア越しに聞こえてくるが、中から人が出てくる気配はない。


「お留守なんですかね」


「いや……どうかな。管理人の話だと、いつもこの時間は家に居るってことだったけど」


 もう一度、風間がインターホンを鳴らす。相変わらず中から反応はないが、室内から漏れ出していると思われる腐敗臭はプンプンと漂ってきている。ドアごしに廊下に漏れ出てくる匂いで既に鼻が曲がりそうなのに、ドアの向こう側は一体どんな惨状になっているのか想像するのも怖い。


 三度目のインターホンを鳴らそうとしたとき、ガチャリとドアが内側から開いた。

 中から顔を出したのは、ぼさぼさした長い白髪を後ろで無造作に一つにまとめた、腰の曲がった老婆だった。おそらく歳は80は下らないだろう。しかし、弱々しい印象はなく、逆に、彼女よりもずっと背のある風間をキッと睨み付けるようにしているその姿からは、かくしゃくとしたものが感じられた。

 それからも一悶着あったものの、風間の根気強い説得によってなんとか室内にあげてもらえることになったのだが。


「うわぁ……」


 室内は想像以上だった。玄関からすでに足の踏み場もないほどモノやゴミ袋で溢れている。あまりの匂いに恵は鼻をつまむが、風間は平気そうだ。さすが、こういう現場になれてるんだなと感心しそうになったが、よく見ると鼻に鼻栓が見えた。


「係長、ずるい。それ……!」


「へ? あ、ああ……使う?」


 風間から渡されたビニールの小袋には白い鼻栓が沢山入っていた。その中から二つもらって、恵も鼻に突っ込む。


「あ……結構良いですね、これ」


「これでもまだ匂うときは、マスクもするといいよ」


 二人とも若干鼻声なのは、まぁ、仕方がない。


 モノを掻き分けなんとか玄関を抜けると、部屋の奥にも同じようなゴミの海が広がっていた。時折、視界の端でカサッと黒いものが動くような気もするが、極力そっちは見ないように努める。見てしまったらもう、この部屋に居られなくなりそうだったから。


 しかし、老婆は器用にゴミの間をすり抜けて奥のリビングへと消えていった。風間のあとに続いて恵もなんとかついていくが、リビングはさらに酷い状態だった。壁を覆い尽くしそうなモノの山。床に置かれたコタツ周りだけゴミのないわずかな空間があった。あそこが普段、老婆が生活しているスペースなのかもしれない。


 風間の話では、この老婆は自分の家から出る生活ごみを捨てられないだけでなく、外にでかけるたびにゴミ集積所や空き地などから様々なものを拾ってきては自宅にため込んでしまうのだそうだ。

 そして、それにはおそらく認知症などが絡んでいる可能性も、ここに来るまでの車の中で教えてもらった。


「とりあえず。今日は現場確認だけして。あとは、連帯保証人の息子さんにあたってみよう。遠方らしいから、すぐには来てもらえないかもしれないけど」


「そうですね」


 そんなことを小声で話しながら、恵が通り道を確保するために目の前にある箱をどけようとしたところ、突然、老婆がカッと目を見開いて恵を指さし叫んだ。


「触るんじゃないよ! それは、健坊の大事なものなんだからね! なくなったらあの子がまた泣くじゃないか。ほら、ちゃんと戻しなっ」


「ひ、は、はいっ……申し訳ありませんっ」


 老婆のあまりの剣幕に、すっかり気圧けおされた恵はそーっと箱をもとの場所にもどす。泣きそうな気分だった。というか、一人だったら泣いてた。しかし、老婆はすぐに恵には興味をなくしたらしく、ぶつぶつ言いながらこたつに座って周りのものをあちこちに動かしていた。


 と、そのとき。

 風間がポケットから茶色い小瓶を取り出すと、蓋を開けて棚の空いている僅かなところに置いた。彼が指を軽く鳴らすと、つんとするシャープな香りが部屋中に広がる。ゴミのにおいも一瞬浄化されたような気がした。


「ローズマリーだよ。殺菌作用もあるけど、頭をシャープに冴えさせる効果の方が有名かな」


 風間は小瓶はそのままに、老婆のそばへいって彼女と目線を合わせるように身をかがめた。


「五十嵐さん。もしよかったら、教えていただけませんか。なぜ、貴方がそんなに物を集めるのか」




 それから一か月後。

 ようやくゴミ屋敷の老婆こと五十嵐さんの息子さんが、あの部屋を訪れた。


「母さん、なんだこれ! ぐちゃぐちゃじゃないか!」


 50代とおぼしき息子の健司さんは、母親の家の現状を見て心底驚いていた。

 電話では普通に会話できることも多く、元気そうだったからつい大丈夫だと思っていた。でも、まさかここまで酷いことになっているとはと言って息子は頭を抱えた。


「ああ、もう……母さん、なんでこんなことするんだよ! 近所から苦情が出てるって、こんなになってたら当たり前じゃないか!」


 いらだちを年老いた母親にぶつけようとする息子に、一緒に立ち会っていた恵はどうしていいのかおろおろするだけだったが、風間は「健司さん」と彼に静かに声をかけた。


「五十嵐さんが、なんで物をため込んでいたのか……ご存知ですか?」


「知りませんよ、そんなの。きっと、ボケちゃって、ごみの収集日も忘れたに違いな……」


「それもあったのかもしれませんが……。でも、貴方のためでもあるんですよ」


 穏やかな声音で言う風間の言葉に、息子は怪訝そうに眉を寄せる。


「……へ? 何を言ってるんですか、むしろ迷惑を……」


「五十嵐さん。貴方が喜ぶと思って、外で良さそうなものが捨ててあると拾ってきちゃうらしんです。昔……おそらく、貴方が子どもの頃に、そんなご経験があったんじゃないですか?」


 風間に言われて、息子はしばらく黙っていたが、ふいに「あ……」と声を上げた。


「そうだ……。うちは……父親の身体が弱くて、私の子どもの頃はずいぶん貧しかったんです。だから、何も買ってもらえなくて」


 息子は語りだした。小学校に入学したのに、学習机を買う金が家にはなかったこと。友達の家にあるような立派な学習机にあこがれていたこと。そんなとき、近くの団地の粗大ごみの日に古い学習机が出されているのを母がみつけて、知り合いに軽トラを借りて持って帰ってきてくれたこと。それを見て、大喜びした小さい頃の記憶。


「今は、粗大ごみを勝手にもっていくなんて犯罪ですが。あのころは、月一度の粗大ごみの日にだれでも無料で出せたものだったから、もっていっても咎める人はいませんでした。それで、粗大ごみの日に近所を回って、野球のバッドだったり、なべだったり……母と拾ってきたことがありました。でも、ほんの数回ですよ? それも40年以上前の」


「きっと……その頃のことは、五十嵐さんにとってとても幸せな記憶として残っている時代なんでしょうね。だから五十嵐さんはいま、彼女の心の中では、その時代に戻っていっているのかもしれませんね」


「そっか……」


 五十嵐さんを見る息子の視線が、柔らかくなったように恵には思えた。

 結局、五十嵐さんはその部屋を引き払い、息子夫婦と同居するためにあの街を去っていった。


 ――――――――――――――

【ローズマリー】

 この名前は、ラテン語で「海のしずく」を意味する言葉から来ています。


 心身の感覚を目覚めさせ、精神的な過労や無気力を改善します。また、頭脳を明晰にする作用があり、記憶力を増進や改善に役立ちます。


 発汗作用や利尿作用もあるため老廃物の除去に役立つほか、鎮痛作用があるので筋肉痛やリウマチ、肩こり、痛風などの症状の緩和にも使われます。


 さらに、ローズマリーはヨーロッパで中世から薬や香水として使われてきたハンガリアンウォーター(別名若返りの水)の主成分です。肌を引き締める作用が強いため、たるみやむくみに効きます。頭皮に使えば、フケ抑制や髪の成長を促します。


 ただし、妊娠中や授乳中、乳幼児、てんかんの方は使用を避けてください。



【精油と認知症】

 テレビなどで認知症に精油が効くという話を耳にすることがあります。

 そして、実際に国内外でそのような研究を行っている研究者や医者もいます。


 鳥取大学の浦上克哉教授によると、認知症に効くとされているのは、ローズマリー、レモン、ラベンダー、オレンジ・スウィートの4つの精油です。


 効果の高い使い方としては、午前中はローズマリー・カンファーとレモンのブレンド精油(2:1 ローズマリー4滴に対してレモン2滴のように)の香りを二時間以上、夜は真性ラベンダーとオレンジ・スィートのブレンド精油(2:1)を二時間以上嗅ぐと、認知能力の改善に効果があったそうです。

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