16 裏切り

 「島田専務が消えたわ」楢野がいくらか血の気を失って社長室に飛び込んできた。いつも身じまいは完璧なのに、今日は着くずれたブラウスの胸元からピンクのブラが見えていた。

 「どういうこと」

 「市からの業務委託料9780万円が入金されてないから確認してって、今朝専務に頼んだの。そしたらそれっきりよ。携帯つながらないから、さっき市に振込口座がどうなってるか確認したら、専務が勝手に作った口座に変更されてた」

 「どうすんだ」

 「銀行に口座の閉鎖をお願いしたわ。まだ引き出されていなければだけど」

 「いつわかるんだ」

 「4時ごろだって」

 「だめだったらどうする」

 「1億円借りないと今月の給料だって払えないわ」

 「借りれるか」

 「担保が作れるかわかんないけど、やってみる。給料が遅れたら会社は終わりよ」

 「なんで」

 「人あっての会社、それくらいわかるでしょう」

 「大したもんだな。ほとんど社長だ」

 「これくらい経理担当なら普通よ」

 「俺は専務を探してみるよ」

 「できそうなの」

 「金を引き出してればムリだな。もう、静岡にはいない」

 「だよね」

 青井はすでに横領した全額を引き出し、持参人払い小切手10枚に換えていた。楢野は小切手の無効化を銀行に依頼したが、銀行以外の金融機関が善意で(無効化を知らないことにして)買い取ってしまった場合、花崎土木が買戻しをせざるをえないということになった。ブラックルートに流れた場合、下手をすると額面の2倍の損害金を請求されかねなかった。

 柊山は経堂に電話で青井が小切手を持って逃げたことを説明した。

 「1億円くれえたあ欲がねえなあ。何を焦ってんのかな」

 「どうする」

 「もう銀行には来ないな。換金するなら街金か闇金だ。10枚に小切手を分けたのは持ち込みやすくするためだな。そっちのルートを抑えるしかない」

 「よくわかんねえけど、捕まるのか」

 「県内ならなんとかなるが、名古屋とか大阪とかまで行かれるとムリだな。多分今夜中に現金化すると思う」

 どうするつもりなのかわからないが、経堂は詐欺師ならではのコネクションを逆用する捨て身の戦法をとるつもりらしかった。オレオレ詐欺の組織と街金・闇金の組織は同根なのである。


 「社長、すぐに静岡に来れっかな」その夜、経堂から連絡があった。

 「今からか」

 「青井が静岡の手形屋(ジャンクの約束手形や小切手を高割引率で買い取る闇金)に現れたんだ」

 「それで」

 「無効化された小切手を持ち込んだってことで足止めされてる。社長が来ないとらちが明かない。タクシー飛ばして来てくれ」

 「わかった」

 経堂と深夜を過ぎて無人の静岡駅で待ち合わせ、青井が拘束されたという闇金の事務所に向かった。

 「どうすりゃいいんだ」

 「社長は黙ってて。少し金はかかるけど、青井さんは大丈夫だ」

 「そっか、じゃ、任せた」

 闇金は、静岡駅から歩いて5分の両替町通りのドン・キホーテの裏にあった。看板には「格安チケットあります。アイフォン高価買います。」と、ミミズがのたくったような文字で書かれているだけで、店名はなかった。入ってみると、小さなネットカフェのようなところで、ゲームで遊んでいるのは全員中国人らしかった。いわゆるサラ金とはまるで雰囲気が違っていた。奥になんにもない事務所があり、ガタイのいい店番の男が1人と青井がいた。殴られたのか青井の片頬が醜く腫れあがって内出血していた。

 経堂は青井が換金しようとした1千万円の小切手の番号を男から聞いて控え、そのまま青井の身請け金として差し出した。

 「心配ないですよ。明日には使えるように(無効化を解除)しときます」場の空気を察して、柊山はきっぱり言った。ヤクザだろうと中国マフィアだろうと、ケツ持ちのルールは同じだろうと心得ていた。(ケツとはツケを回すという意味)

 「若いのに話が早い社長で感心したよ。さすがは経堂さんの仲間だ」店番の男の黒いTシャツから覗いた太い腕にドラゴンの刺青が見えた。

 手打ちが成立し、青井はあっさり解放された。乱暴されたが命に別条はなかった。残りの小切手も無事だった。

 「大丈夫ですか」騙されたというのに、経堂は青井を気遣っていた。

 「すまねえな、こんなことさせちまって」

 「俺はなんも。社長が1千万出してくれたからだ。社長に礼を言ってくれ」

 「社長、ほんとすまなかった。つい、いつもの癖が出ちまった。ほんと面目ねえ」

 「問題ねえっすよ」

 「腹が減りませんか」

 「そうだなあ。そういや減ったな」

 経堂の案内で深夜営業のラーメン屋に寄り、ビールで乾杯した。青井は腫れあがった顔の疼きが引かず、何も食べられず、ビールを一口飲んだだけだった。それでも強がっていた。

 「それにしてもどうしたんすか。爺さんらしくもねえ」

 「焼きが回ったってことよ。もう引退だな。このごろ、調子が悪くてよ」

 「そう言えば殴られてねえほうも顔色が変だ。まだ、耄碌するような年じゃねえのに」

 「原発に行ったのがたたったみてえだ。俺は大丈夫だと思ってたんだけどよ」

 「病院行ったんすか」

 「ああ、行ったよ。そしたら、そういうのは診られねえと抜かしやがった」

 「なんで」

 「どうせ治らねえってこったろう。それとも診るなと医師会から言われてんのかな」

 「千葉の放医研(放射線医学総合研究所)で診てくれるそうじゃないすか。あと、静大病院でも放射線症病棟を開設したって。明日にも病院行きましょう」

 「いいよ、どうせもうダメだ。研究材料にされんだけだ。それよかよ、おめえの会社、そろそろ潮時じゃねえか」

 「レサシアン・コンサルタンツすか。いま、まさにノリノリっすよ」

 「バックはどこだよ」

 「元役人4人でやってるコンサルで、そりゃもう俺なんか足下にも及ばない切れ者揃いみたいっすね」

 「そいつら相手に何する気なんだ。おめえに騙せる相手じゃねえんだろう」

 「それはまだわからないす」

 「やめとけ。そいつらどうせ、もっと上につながってんだろう」

 「ええ、そうかも」

 「だったら、これ以上かかわるな。でねえと危ねえぞ」

 「もうちょっとなんで」

 「何をやらかすつもりなんだ」

 「今は言えないすけど、一世一代の仕事をやって見せますよ」

 顔の晴れが黒く変色してよくなる兆しがなく、青井は専務を辞めた。事情を聞いた楢野は銀行に勘違いだったと詫びて事なきを得た。身請けに使った1千万円は青井の退職金扱いにした。そうすれば半分は税金で戻ると楢野が余裕の表情で言った。

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