15 禁断の恋
花崎麻美の意識が戻ったと藤枝中央病院から連絡があった。とうとう来るものが来たと思った。素性がばれたらばっくれるしかない。だが、リスクを犯しても麻美の顔を見たかった。偽の兄の顔を見てどんな反応をするか興味があった。主治医は脳に障害が残るだろうと言っていた。仮に偽者呼ばわりされたとしても、脳のせいにできるだろう。そう好都合にいくかどうかはわからないとしても、出たとこ勝負だと覚悟を決めて病院に向かった。
麻美は準ICUから普通病棟の個室に移っていた。看護師の案内で、おそるおそるドアを開けた。先乗りした楢野がベッドサイドに付き添っていた。麻美は可愛らしいキッドブルーのイチゴ柄のパジャマを着て、ギャッジベッドのリクライニングに背を持たせていた。柊山はそっと麻美の顔を覗き込んだ。前に見舞った時は挿管していたので顔立ちがよくわからなかった。高校2年生というのに、まだほとんど子供だった。童顔なのだ。柊山と似ていないのはおいて、花崎祐介の写真ともそんなに似ていなかった。母親が違うんだろうと思った。麻美は柊山には関心がない様子で、窓の外を眺めたままだった。大きな欅の枝が新緑の葉を付けているのが見えた。
「もう起きられるのか」柊山は楢野に問いかけた。
「ええ、明日から歩行のリハビリも始めるって。だけど、ちょっと問題が」
「なに」
「言葉が戻らないの。記憶喪失とかじゃないみたいなの。自分の名前はちゃんとわかってるみたい。でも、自分から何も言えない」
「脳が悪いのか」
「先生は津波の恐怖でPTSD(心的外傷後ストレス障害)になっているんだろうって」
「そっか」
「お兄ちゃんでしょう、声かけてやりなよ」
「なんか照れるよな」柊山は恐る恐る麻美の前に立った。
「お兄さん、来てくれたよ」無言の柊山の代わりに楢野が声をかけた。
麻美は一目だけ柊山を見て、また目を逸らせた。がっかりするほど無反応だった。完全にシカトされたのだ。
「俺のこと覚えてねえみてえだ」柊山は拍子抜けしたように言った。
「そんなことないよ。いろいろあってショックなだけよ。だんだんと思い出すわよ」予想どうり、麻美が偽の兄に見覚えのない様子を見せても、誰も怪しいと疑わなかった。
麻美の体力はみるみる回復し、食事も歩行もすぐに介助なしにできるようになった。発話障害は続いていたけれども、入院の必要はなくなり、柊山が引き取って自宅療養することになった。校舎が被災したため、県立掛川高校のグラウンドに建てた仮校舎に疎開中の県立吉田高校には楢野が正式に休学届を出した。
柊山を兄の偽者と認識しているのかどうかはよくわからなかったけれども、麻美は柊山との同居を嫌がる様子は見せなかった。楢野がいろいろ世話を焼き、麻美の部屋はすっかり高校生の女の子の部屋らしくなった。診療内科への通院も楢野が付き添った。とにかく声掛けが大事だと主治医に言われていたので、楢野は無反応の麻美に絶えず話しかけていた。1人では決して外出しようとしないし、同級生が見舞いに来ても会おうとしないので、ムリに買い物に連れ出し、ハンバーガーショップやカフェにも行った。おかげで楢野が柊山につきまとう時間は減った。
同居はしているのもの、柊山と麻美が顔を合わせる時間は少なかった。いきなり、お兄ちゃんじゃないと言われても困る。そういう遠慮もあった。柊山は夜遅く帰ってきて、麻美を起こさないようにシャワーを浴びて寝た。朝早くに楢野がやってきて麻美のための朝食を作り、柊山をその日のスケジュールに合わせた場所に送り届けた。楢野は柊山のためにも朝食を作ってあげると言ったけど、照れくさくて朝食は食べない主義だと断った。
麻美と同居して1週間目の朝、早めに目が覚めると、柊山の隣に麻美が寝ていた。びっくりして飛び起きた。安心した顔で寝入っている麻美を抱きかかえて、すぐに彼女のベッドに運んだ。次の朝も同じことが起こった。何が起こっているのかわからなかった。もしや、これは本物の花崎祐介と麻美の秘密だったのかと思った。しかし本人に聞くわけにもいかなかった。仮に聞いても彼女は答えられなかった。拒否すれば兄じゃないと気づかれる。そんな杞憂もあり、柊山は麻美の好きなようにさせることにした。早めに起きて彼女のベッドに運び、毎朝やってくる楢野に気づかれないようにすることは心掛けた。麻美の体はどこからどこまで子どもっぽく、まるで子猫が寝ているように愛おしくて、男としての情は沸かなかった。あくまで兄として、震災の津波の恐怖の記憶から逃れられない妹を大切な存在だと思った。柊山には弱い者を守りたくなる本能のような情がもともとあった。それがかえって互いの不幸を招来する彼自身の弱さでもあった。
彼女がベッドに潜り込んでくるようになって10日目、寝言を言いながらうなされているのに気づいた。
「お兄ちゃん、死んでなかったんだ」口がきけないはずの麻美が震える声で寝言を言った。彼女を失語症に追い込んだ恐怖は、自分が死ぬ恐怖ではなかった。
「死んでないよ」柊山はウソをついた。
「お父さんは死んでないの」
「死んでないよ」柊山は再びウソをついた。
「ならよかった」
柊山はしっかりと麻美を抱きしめ、それ以上声が出ないように思わず唇を重ねた。安心したのか、麻美は柊山の唇を気持ちよさそうに吸いながら静かな寝息を立て始めた。それからふと恐ろしい疑念が思い浮かんだ。大学生になった花崎祐介は静岡に下宿しており、妹と別居していたのだから、一緒に寝ていたはずがないのだ。それなら誰と寝ていたのだ。だが、真相はもうどうでもよかった。父も兄も死んだのだから。いまは麻美の気の済むようにしてやるのが自分の仕事だと思った。
「俺、実は兄貴の幽霊なんだ」柊山は麻美が寝入っているのを確かめて語りかけた。妹にだけはできることならウソをつきたくなかった。ほかの全員にウソをついている罪滅ぼしだった。天性の詐欺師でないかぎり、人は誰か1人にだけは真実を打ち明けたくなる。そうしないと心が苦しさに破裂してしまうのだ。そして自分の心の内を受け入れてくれた人に従うようになる。なぜなら、その人が神になるからだ。
「ほんとの俺なんて、最初からどこにもいないも同然なんだよ。だからまだ幽霊のほうがましなんだ。1度だってうまくやった試しがねえし、誰1人幸せにしてやれたことがねえ。俺がめぐり合わせた人はみんな不幸で、やりたいことの1つもやらないで死んじまう。だから、ほんとの俺なんかより、お前の兄貴の幽霊になった方が何倍かほんとに生きてて、誰かを幸せにだってできそうな気がすんだ。ほんとは、俺だって幸せにしたかった人がいた。生きてて欲しかった人がいたけど、俺じゃ間に合わなかった。だから、俺はもう俺じゃなくなるよ。本気でおまえの兄貴の幽霊になるって決めたから、よろしく頼むぜ、幽霊の妹よ」
それ以後、麻美がベッドにいると寝付かれず、他愛のない寝物語をするのが癖になった。母の話が多かった。柊山が父を知らないように、麻美は母を知らなかった。柊山の声が聞こえていると麻美はうなされなかった。どういう事情にせよ、やっぱり兄を心から慕っていたのだと思った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます