9 義捐金
柊山は花崎の免許証を使って銀行口座を開設し、中古のiPhoneを4万円で購入し、レンタカーも借りた。神崎に紹介してもらった安全不動産との契約も済ませた。それでもまだマルハナ斎儀社からもらった70万円の大半が残っていた。直接精算したため親方のピンハネがなかったせいか、予想よりかなり多かった。食費が引かれるというのもウソだった。無精髭を剃り残したままにしていたおかげか、どこでも花崎の免許証はまったく疑問を持たれなかった。でも、このまま一生花崎として生きていく覚悟まではなかった。他人の名前を名乗り、他人の人生を盗むというアドヴェンチャーに、かつてないわくわく感を感じていただけだ。
午前中に藤枝中央病院に入院中と聞いた花崎の妹の様子を伺ってみた。麻美の兄だと名乗ると、ナースセンターはちょっとした騒ぎになった。家族が全員行方不明、本人も意識不明、病院にとってはいろんな意味で不都合な患者だったからだ。準ICU(厚生労働大臣が定める施設基準未満の集中治療室、1日10万円以上になるICU管理料は請求できない)での面会は5分程度で終わり、主治医の道場光一から妹の容体について説明された。外傷は完治したものの、長時間の酸欠の影響で、意識がこのまま戻らないか、戻っても脳に障害が残るだろうということだった。さらにケースワーカーの佐藤結衣から、室料差額(麻美が入っている準ICUは日額3万円)、高額療養費還付の制度などについて、こまごま説明されたけれども、全く耳に入らなかった。柊山が気になっているのは、妹の意識が戻ったら自分の正体がばれてしまうということだけだった。どうするか迷ったあげく、このまま意識が戻らないほうにかけてみることにした。
カーナビが示す榛原市役所は閉鎖されていて、10キロ内陸に仮庁舎があった。わずかな土地勘をたよりになんとか到着したのは午後3時過ぎだった。朝から降り続く雨で、駐車場に水溜りができていた。柊山は傘を差さずにプレハブのエントランスに走った。1階の市民課で義捐金申請書に氏名、住所、生年月日を花崎の免許証から転記した。免許証の住所は榛原のままで、静岡には移されていなかった。職業を学生、校名を静岡大学法学部と書いているとき、花崎祐介の静岡の居所を知らないことに気付いた。電話番号だけは自分の本当の携帯番号を記入した。自分のといっても名義は花崎だった。
「被災状況の聞き取りがありますので、そちらにかけてお待ちください」窓口の女性職員から声をかけられた。
「わかりました」柊山は努めて小声で言った。
5分ほど待つと担当者の五島学が柊山のいるソファまでやってきた。
「こちらへどうぞ」五島は柊山を面接室に案内した。面接室といっても衝立で仕切った2畳ほどの物置のようなスペースだった。個人情報保護の観点から、こんな部屋でも作る必要があったのだ。
「この度はお見舞い申し上げます。いろいろ聞きにくいことをお聞きしますので、ご容赦願います」
「別にいいよ」
「ご家族はお父様と妹様ですね」
「はい」
「消息は何かありましたか」
「妹は藤枝に入院中で、さっき見舞ってきました。オヤジとは連絡が取れないままです」
「当市や隣接市で設置している避難所にも、お父様のお名前の届け出がないので、行方不明者としているのです。そのままでいいですか」
「しょうがないですね」
「ご家族の被災状況を簡単に説明してもらえますか」
「俺は静岡にいたんです。地震の後、すぐ家に連絡したんだけど、家にも携帯にもつながらなくて。心配になって津波警報が解除されるのを待って様子を見に行ったら、家がなくなってて。それで途方にくれてるとき、消防車に拾われて掛川まで送ってもらったんです」
「そこから静岡に戻られたんですね」
「いいえ、父と妹の避難先をずっとこっちで探してました。妹の入院先が最近やっとわかって」
「それじゃあ、榛原に新しい住所があるんですか」
「掛川に部屋を借りました」
「ああ、なるほど。住民登録はされましたか」
「長く住むようならやります」
「今はそこが居所ですね。いちおうそこの住所も書いてもらえますか」
柊山は言われたとおりに、契約したばかりのアパートの住所を義捐金申請書に書き加えた。静岡の居所を聞かれなくてよかったと、いまさらほっとした。
「入院中の妹さんの分も代理受領ができますので申請していってください。意識不明ということですから、委任状とかはいらないです。診断書を提出していただければ医療費の支援もあります。お父様の行方がこのままわからない場合は、ご家族のご判断で死亡届けを出していただくことになります。行方不明のために死亡診断書が出ない場合については、国(法務省)が添付書類を検討中ですが、北日本大震災の前例によりますと、ご遺族の申述書で認められることになると思います。災害死亡が認定されますと生命保険の申請とかができるようになります。国民年金、厚生年金などについては、被災から3か月で行方不明の方のお手続きが可能になる特措法(震災対処特別財政援助法)を国(内閣府)が検討中です。ご自宅はお父様の名義ですか」
「ええ」
「再築には国(国土交通省)の支援があります。同居していた家族や相続人からでも申請できますので」
「そうすか」
「お父様の消息がわかりましたら、こちらからも連絡しますので、花崎さんからもお願いします」
「ええ、そりゃそうすね」
「今聞き取った内容について申述書にしますから、サインをもらえますか」
「いいですよ」
柊山はいったん面接室を出た。ここに及んで市役所には本物の花崎を知っている者がいるんじゃないかと気づいて恐怖を覚えた。しかし何事もなく義捐金の申請は済んだ。1週間以内に100万円が振り込まれるということだった。柊山は逃げるように仮庁舎の駐車場を後にした。義捐金の申請を済ませたことを神崎に報告すべきか迷った。めんどくさいので結局そのままにしておいた。
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