第3話 Omenーオーメンー

 都内某所にあるオフィスビル、その一角に株式会社Yonezawaはある。

 そこで働く一人の女性。容姿はなかなかの端麗。短髪ながら艶のある黒髪は、女性なら誰もが羨むほどであろう。

 PCに向かいひたすら指を動かす姿も、なかなかどうして美しい。

 

 が、その日は違った。もともと表情が豊かでない上に寡黙な女性である。それがさらに能面を被せたように無表情に、いわんや言葉の一つとして吐き出そうとしない。

 そのためか仕事のペースは早い。いや、意図的に早くしているようだ。

 これに気づいたのは、長年連れ添った仲であり、左隣の席で同じくデスクワークをしている鰍沢湊かじかざわみなとだった。


「おい、相口、相口」


 そう。この一心不乱に仕事をしている彼女こそ、ここの会社の社長、米沢九郎の意中の人物、「相口のぞみ」その人である。


「おーい、相口サーン?」


 鰍沢の呼びかけにも応じない相口女史。

 だがそこで助け舟が出される。


「鰍沢さん、相口さんは今日のお昼に『まるさんラーメン』を選んだのです」


 相口の右隣で仕事に勤しむ女性。もの静かだが、崇敬の念を込めた声で事情を説明するのは、東冬果ひがし とうかであった。


「へえ、『まるさんラーメン』と言やあ、行列のできる有名店じゃねえか。でも数量限定がネックで長々と並んでラーメンにありつけたのはごく少数の猛者だけっつー……」


「その通りです。ですが、我が社は他社と比べて昼休みが始まるのが幾分早い。そのため、昼休みが始まると同時にここを出立すれば、ギリギリ最後の一品にありつけるのではないか、と。それを実行するため、午後一番に提出する資料を、羅刹の如き勢いで制作中という訳です」

 

 パカん、と相槌をするように勢いよくエンターキーが押される。


「と言っても、希望的観測の域を出ないのですが、しかし、これは経験から導き出した勘に基づく計算的観測です」


 やっと口を開いた相口女史の言葉は、もはや支離滅裂であった。


「なるほど、よく分からないけど分かりました。鰍沢さん、我々は同期の桜として、この結末を見届ける義務があると思います」

「だな。おし、そいじゃ俺も少し気張りますか」


 女性陣の食への執念が見せる衝動。それはまさに羅刹の如しであった。




「ふーんふーんふふふーん、まーるさんのラーメン♪ ふーんふーんふふふーん♪」


 数十分後、鼻歌を歌いながら、男性ばかりの行列に、気が早くも御満悦の顔で並ぶ相口女史の姿があった。もちろん両脇に控えるは鰍沢・東の両名である。


「ふふふーん、しかし意外でした。専務の事ですからその場でチェックをしだすかと思ったのですが……途中で思い直してくれたようですね。やはり今朝の占いは当たっていました。ラッキーアイテムは招き猫です」


 そう言ってドヤ顔で懐から招き猫の小さな人形を取り出した。


「招き猫の携帯を推奨する占いもどうかと思いますが……それを持っている相口さんも相当なものですね」

「ま、いいじゃねーの。おかげであたしらもこうして一緒に出られたんだし。あわよくばお相伴おしょうばんに預かれるかもしれねーし」

「どうでしょう。この行列は大変微妙なところですね。数は50食限定。現在、我々の前に並んでいる人数はおよそ20人。店内の席は10席。そして我々が並んだのが開店から15分過ぎたころ。すなわち、その15分で20人以上が食して出て行ったならば、我々……は、ともかく、相口さんはラーメンを食べ損なうことになります」

「ふむ、ラーメンという性質上、一人分の食事時間は5分から10分。ですがこの短時間で20人もの人数がけるとは思えません。大丈夫です。招き猫を信じましょう!」


 そう言って、相口女史はまたもやドヤ顔で招き猫を見せつける。


「……それ、気に入ったのか?」

「はい、これからはラーメン屋さんに並ぶ時は必須のアイテムとします!」

「幾分気が早いような気もしますが……」


 そういう東は顎に手をあて、不安な表情をする。

 実は彼女は、とある筋から、このラーメン屋の不穏な情報を聞き出している。

 しかし意気揚々と行列に並ぶ相口女史に、それを言うのは野暮というものだと、口をつぐんでいた。


(そもそもあくまでも噂でしかありません。普通に行けば相口さんはラーメンに辿り着けるはず……)


 東の不安をよそに、時間は刻一刻と過ぎ、そして今、彼女たちの目の前にはラーメンやの入り口があった。


「い、いよいよです」

「おー、こりゃ行けそうだな。あたしらの分もあるんじゃねーか?」

「そう……願いたいところですが……」


 その時、入り口のガラス戸が空き、店員が顔を出す。相口女史らは歓喜の表情で一歩を踏み出そうとした。




 が、それを打ち破るように、無慈悲に、残酷に、まるで死刑宣告のように、店員は行列に向かって宣言した。


「すんません、本日は完売となりました。また明日よろしくお願いしま〜す」


 状況が飲み込めなかった。

 何だ、何が起きた? いや、何が起きている!?

 私は何をしていた? そうだ、ここは戦場だった。そして私はとても優位な位置にいたはずだ。引き金を引くまでもなく、ただ一歩踏み出せば我々の勝利は確実だった! それが何だ? 何が起こった? 我々は銃口を突きつけていた気でいたのに、実は突きつけられていたというのかー! いうのかー! いうのかー!(←エコー)


「おい、相口、相口、しっかりしろ!」

「相口さん、お気を確かに!」


 2人の呼びかけに、ようやく現実に引き戻される相口女史。


「はっ、すみません、少々気が動転していました。ですが安心してください。我々の軍にはこの逆境を覆す天才軍師、ネコ=マネキ参謀長がいます!」

「うわ、こりゃ重症だ。しっかりしろ。あたしらの戦いは終わったんだ」

「そうです。我々は負けました。耐え難きを耐え、忍び難きを忍び、ここは少し先にあるチェーン店へ行きましょう」

「そんな……うう、今日こそはと思っていたのに……」


 相口女史は涙にくれた。

 2軒先にあるカレー屋から漂うカレーの匂い、すなわちカレー臭が、慰めるかのようにそっと鼻孔をくすぐってくれたのを、相口女史は生涯忘れないだろう。


 さて、肩を落として店の前から去ろうとした時、中から一人の客が出てきた。


「やや、相口君ではないか!」


 その声には聞き覚えがあった。というかしょっちゅう職場でうんざりするほど聞いている声だ。


「あ、社長だ」

「社長、ですね」

「……」


 相口女史は露骨に嫌そうな顔をする。先ほどの一件で落胆したばかりなので、それはそれは嫌そうな顔である。


「おや、もしかして君たちもここのラーメンを食べに来たのかね? ふむ、その様子では一足遅かったようだな」


 本人に他意はないようだが、一言一言が3人をイラっとさせる。


「あー、そーっすねー、昼休みもうちょっと早くなればいいんすけどねー」

 と険しい顔をする鰍沢。そしてあの噂を得ていた東は、それを確認するように尋ねる。

「社長、我々は開店時間15分過ぎに並びましたが、目視した人数ではとても完売するとは思えませんでした。席の数が決まっている以上、それも織り込み済みでの計算です。ですが、よもや……」

「なるほど、君たちは知らないようだな。ここの店主はやや気が弱い。開店時間前にできる行列を見て、気が気でなくて開けてしまうのだよ。開店時間前に。今日は、そうだな、10分前には空いていたかな」


 米沢は得意げに語る。

 そう、それこそが東が不安に思っていたこと。開店時間前の開店である。


 3人とも空いた口が塞がらず、さらに相口女史は力なく膝をつく。


「やや! 相口君! 大丈夫かい!?」

 

 駆け寄る米沢に向かって相口女史が呟く。


「社長、一つよろしいでしょうか?」

「大丈夫だ。しゃべるんじゃない。君との愛をささやく時間はあとでたっぷりと……」

「死ねばいいのに」


 瞬間、つむじ風が吹いた。ような気がした。


「へ?」

「死ねばいいのに」

「あ、2度言った」

「そうですね、大事なことでしょうからね。さ、相口さん、時間が惜しいから行きますよ」


 しばらく固まったままの米沢を置き去りしに、3人はラーメンチェーン店で昼食をとることとなった。



 その後、何を思ったか、米沢の昼食はカップ麺だけだったという。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

相口さんの大食い 黒崎葦雀 @kuro_kc

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

フォローしてこの作品の続きを読もう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ