第2話 失恋の定理

 どうしてだろう?

 たった一人の人間がそばにいないだけで、世界はこんなに色あせて見える。

 そんなこと、今まで思いもしなかった。


 まるで詩人のように自分に酔った言葉を脳裏につむぎながら、大守ひろかみはその日二十回目のため息をつく。

 あぁ、どうして君はここにいないのだろうか?

 思い浮かべるのは、先週この場所で声をかけてきた一人の女性の事ばかり。

 気が付くと、ついこの場所に足を向けている。


「ちょっと、大守ひろかみ! さいきんぼーっとしすぎ! ちゃんと私の事見てる?」

「え、あぁ、もちろんだよ」

 そう声をかけられ、ようやく大守ひろかみは自分がデート中だと言うことを思い出した。

 隣にいるのは、先週花粉だらけの悪夢の中で待ちぼうけを食らわせてくれた女性である。

 

 結局……先週は、大守ひろかみの気分がすぐれなくてそのまますぐに別れてしまい、今日はその埋め合わせのデートだった。

 だが、デートの約束こそしたものの、大守ひろかみの心はすでに彼女には無い。

 そんな空気が伝わっているのだろうか、隣の彼女は最初からどこか心細げな顔をしていた。


 早めにケリをつけたほうがいいだろうな。

 大守ひろかみは身勝手な優しさから、そんな言葉を心の中で呟く。

 いつ別れ話を切り出そうか? 彼女のためにもあまり長引かせるのは良くないだろう。


「実はさ……」

 そう切り出すと、彼女の体が雷に怯える子羊のようにビクッと震えた。


「俺、好きな……」

 そう大守ひろかみが言葉を口にしかけた時である。

 ふと、地面に落ちていたカードが視界に入った。

 なんだ、これは?


 大守ひろかみはなぜかそのカード気になって、大切な言葉の途中なのに台詞を止めた。

 そのカードにはひどく細かい文字で何かが記されていたが、見た事も無い文字であり、彼にはまったく読む事ができない。

 生憎とアルファベットでも漢字でもなく、あえて言うならばエジプトの象形文字に近いだろうか。


「なに……それ?」

 大守ひろかみの様子が気になったのだろうか、横にいた彼女も彼の視線の先を覗き込む。

 すると、いったいどうしたことだろうか? その銀色のカードを見つめていた彼女の口から、ぼそぼそと聞きなれない言葉が流れ出したのである。


「……我を過ぐれば歓喜の都あり。 我を過ぐればひと夜の愉楽あり?」

「読めるのか!?」

「うん、なんか知らないけど意味がわかるみたい」

 地面に落ちていたソレを拾い上げ、彼女は小首かしげながらそう呟いた。

 その表情はなんとも釈然としないが、嘘をついているという感じでは無い。


 いったいなぜ彼女はこんな文字を読む事が出来るのか?

 その疑問に答えが出るよりも早く、彼女は何かに気付いたように顔をあげ、そしてこう告げたのである。


「あ、あれ? こんなところに道がある」

 その素っ頓狂に声に、大守ひろかみは首を捻るしかなかった。


「道? 何言ってるんだよ、目の前には壁しかないだろ」

「でも、本当にあるんだって。 ほら」

 そういいながら、彼女が一歩前に踏み出した瞬間である。

 マスクで厳重に守られているはずの大守ひろかみの鼻の中がムズムズとクシャミの予兆を訴えた。

 ――くそっ、どこから花粉が入った!!


「ふぇっ、ふぇっ、ふぇくしっっ!! くそっ、これだから春は嫌いだ。

 ……って、おい、どこにいった!!」

 クシャミの発作がおさまり、大守ひろかみが涙目のまま顔を上げると……隣にいたはずの彼女の姿は忽然と消えていた。

 まるで先日の女性のように。


「まさか……本当にそこに通路があるのか?」

 手を伸ばしても、そこにあるのは硬くざらついたモルタルの壁。 通路などあるはずも無い。


「都市伝説かよ……信じらんねぇ……」

 力なくそう呟きながら、大守ひろかみは不安げな表情で目の前の壁を呆然と見つめるのであった。


**********


 彼女は呆然としていた。

 見た事もない銀色のカードを手にしたとたん、目の前に道が現れたからである。


 ここはいったいどこだろうか?

 足を踏み出した瞬間、風の香りが変わった。


 そこにはアスファルトや排気ガスの臭いは無く、目の前に広がるのは花々の咲き乱れる美しい庭園のような景色。

 春の日差しを照り返しながら目をくように輝く白い石畳の道が、万華鏡のように色とりどりの花を咲かせる森の奥へと続く。

 まるで……御伽噺の中に迷い込んでしまったかのようだ。

 もしや自分の名前がアリスにでもなっていやしないかと、彼女――福留ふくとめ 有紗ありさは、ほんの少し不安になる。


 振り返ると、不思議の国の鏡のように、日本の風景が四角く区切られて存在していた。

 そして、彼女の想い人である大守ひろかみが、ぽかんとマヌケな顔でこちらを見ている。

 いや……その視線はまったくこちらの目とはあっておらず、自分の姿が見えているようには見えなかった。

 そう、今の彼の心のありようと同じで。


 ふとそんな事を考え、有紗は泣きたい衝動に襲われた。

 彼の心が自分には無いことなど、とっくに気付いている。


 どうして、私じゃダメなの?

 私の何が悪いというの?


 口の中で呟いて、有紗の目から一粒涙が零れ落ちた。

 でも、涙は恋をとらえる鎖にはなりえない。

 繋げるのは、せいぜい同情ぐらいだ。


 そのままどれほどの時間がたっただろうか?

「そこで、何をしているんだい?」

「……え?」

 不意に後ろから聞こえてきた声に振り返ると、そこには一匹の黒猫が立っていた。

 そう、まるで古いヨーロッパの物語に出でくる貴族のように高そうな服を着たネコが、二本の足で立っていたのである。


「ネコが……立って歩いている?」

「いや、ネコは普通に立って歩くだろう? それとも君の知っているネコは空を飛ぶ生き物なのかね?」

 有紗の言葉に、その黒猫はつまらない冗談だといわんばかりに肩をすくめた。


 ――あぁ、ここってやっぱり異世界なんだ。

 なんとなく気付いてはいたものの、常識の違いに改めて打ちのめされる。

 一時的にせよ、失恋の痛みと苦しみを忘れるほどに強く。


 そして気が付くと、黒猫の視線が有紗の持っていた銀色のカードに向けられていた。


「あぁ、そのカードを手に入れたのか。

 ならば、君はこの向こうにある場所の客だな。 その様子だと状況がわかっていないと見える」

 黒猫は一人で納得したように頷くと、有紗の返事も待たずに歩き出した。

 客とは一体何の事だろうか?


「はやく来たまえ。 マスターが待ってる」

「あ、ちょっと待って!」

 よくよく考えれば有紗がその招きに応じる必要はどこにもなかったのだが、その時は欠片も疑問に思わなかった。

 もしかしたら、黒猫の態度があまりにも堂々としていたからかもしれない。


 なしくずしに黒猫の後について歩くと、周囲の景色は展覧会の絵のようにめまぐるしく変わりはじめた。

 造りの荒い石材とモルタルでできた町並みを通り、まるで群雲のように咲き誇る紫丁香花ライラックの並木を潜り、黄色と紫の三色菫ビオラの花が豪華な絨毯のように咲き乱れる花畑をかきわける。

 その頃になると、有紗はまるで催眠術にかかったかのような居心地のよさを覚え始めた。

 まるで幼い頃から何度も見る夢の中の景色の中に戻ってきたかのように、はじめてくる場所であるにも関わらず妙に心に馴染むのだ。


「ほら、見えてきたぞ」

 そう告げて、黒猫はふと足を止める。

 素直に指し示すほうを見ると、苺畑に埋もれるようにして一軒の喫茶店のような建物が建っていた。


「わぁ、なんか可愛い建物」

 よほど丁寧に手入れをされているらしく壁は綺麗に白いペンキが塗られ、そこかしこに鉢植えの花やハーブが植えられている。

 あの青い花の咲いている茂みはローズマリーだろうか? 


 呟きながら足を進めると苺の甘い薫りがふんわりと漂いはじめ、極上のアロマとなった風が優しく有紗を抱きしめる。

 あぁ、なんて心地よい場所。

 それにしても、あの建物の中で誰が待っているのだろうか?

 こんな天国のような場所で待っているのだから、天使か神様あたりがふさわしいかもしれない。


「ん……やっときたのか」

 期待と共にドアをあけた瞬間、腰の辺りがざわつくような低くて抱擁感のある声が響く。

 そして、その扉の向こうで彼女を待っていたのはこげ茶色をした毛むくじゃらの壁……ではなくて。


「く、クマがしゃべってる」

「一緒にここまできたネコもしゃべっていただろ? いまさら細かいことを気にするな」

 器用に肩をすくめると、その巨大なクマはゆっくりとした足取りでカウンターの向こうに入り、手招きして有紗を目の前の席に誘った。

 普通ならば恐怖で足がすくむような状況だが、不思議とそんな気持ちは起きない。


「あ、あの……私を呼んだのは、あなた?」

 そう問いかけると、クマは大きく頷いた。

 どうやらこのクマが有紗を呼んでいた存在で間違いないらしい。

 まったくもって予想外だ。

 しかし……恋人に捨てられる寸前の惨めな女に、天国に住んでいるクマさんが何の用だというのか?


「あの、ここっていったい何なんです?」

 恐る恐る席につくと、有紗は不安げに周囲を見渡しながら一言尋ねた。

 すると、目の前のクマは笑いながら苺の香りのするグラスをテーブルに置き、思わずすがりたくなるような優しい声で告げたのだった。


「ここは、歓喜の酒場バル・アレグリア。 ありとあらゆる苦しみを忘れる場所さ。 さぁ、お前の苦しみを話してみるがいい」


♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦

【解説】今回は、『失恋』に関する漢方の解釈についてお話しましょう。


 ストレスがあらゆる病の元になるというのは、今でこそ当たり前かもしれません。

 ですが、よく理解されているかといわれると否と言うべきでしょう。

 その証拠に、鬱に対して根性論を振りかざす方は少なく無いはずです。


 一方、漢方の世界では十二世紀からすでにストレスと病に関する関連性が指摘されています。

 1174年刊行の『三因極一病証方論』によれば、体の不調には大きく三つの原因があるのだとか。

 その内訳は、病の感染や環境の変化による『外因』、生活習慣からくる『不内外因』、そして心のありようから生まれる『内因』に分けられるとされております。


 『内因』はさらに七つにわけられ、この喜・怒・憂・思・悲・恐・驚の七要素をその数にちなんで『七情』と呼びます。

 そしてこの『七情』を、五行思想にあわせ、その法則にしたがって治療するというのが漢方のアプローチなのです。


 さて、では失恋はどう扱われるのか?

 さまざまな感情が渦巻くのは確かでしょうが、共通するのはやはり『悲』でしょう。


 そして『悲』と『憂』は、五行において『金行』にあたります。

 読者の方は覚えているかもしれませんが、『金行』といえば呼吸や代謝に関わる部分であり、臓器では『肺』、そして『大腸』や『鼻』を司る要素です。


 さて、過剰な悲しみと憂いは、呼吸器や代謝に影響を与え、気と水の流れを妨げます。

 すなわち、失恋によるからだの不調はこのように解釈できるのです。


 【気虚】……気の枯渇した状態。 疲れやすい、食欲が無い、元気が無いといった症状を起こす。

 【気滞】……気の流れがとどこおっている状態。 頭が重い、喉が詰まる、落ち込みやすいといった症状を起こす。


 次回の話では、失恋を引きずらないための、復帰を早める食べ物を紹介しようと思います。

 お楽しみに!

♢♦♢♦♢♦♢♦♢♦

 

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