さよならまで、さよならのあとの物語
彼岸花の葬送 一、雨に死して、朝に生じ
小谷君と小学校の前で別れ線路を越えた頃、雨が降って来た。
最初はポツ、ポツと小降りだったが、すぐに雨は視界を白くし、建物を霞ませ、耳は雨音の大きな音に塞がれた。
しばらく陸橋の下で雨宿りをしていたが、何が悲しいのか泣き止む気配は全くない。待てど暮らせど、雨はますます酷くなるばかりで、私はこれ以上酷くなる前に濡れながらでも帰ることを決意した。
制服が濡れるのは、嫌だけど教科書が濡れるよりは断然良い。どうせ登下校しか着ないのだからジャージや運動部とかが着てるウィンドブレーカーを着て明日は行けばいや。きっと先生も解ってくれる。
髪は解いた。ゴムが雨に濡れて切れる方が駄目だ。よく失くすしちゃうし、髪は洗えばいいだけだ。解くと髪は風にまかれて荒ぶっていたが、次第に水を含んで大人しくなる。
走る。
冷たい。
濡れて気持ち悪い。
息が上がる。
手足が冷える。
それでも前に、前に、速く、速く、走った。
信号のない横断歩道だった。
早くお風呂に入りたい。
滅多に車が来ない道だった。
手足が悴んで寒い。
この時間は人が居ない道だった。
ぐっしょりと濡れた制服が重い。
視界は白く、悪かった。
ローファー、明日までに乾くかな。
音は雨音しか聞こえなかった。
運動靴、学校じゃん。
家まであと少しだった。
明日、どうしよう。
車は、無点灯だった。
気がついた時には私は空を飛んでいた。そして、浮いてる、と思った瞬間には墜落した。何が起きたか理解する暇も無かった。
身体は衝撃で機能の大半を壊していたが、生きてはいた。
痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いコイツが悪い痛い痛い痛い痛い突然出てきたコイツが痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い俺は悪くない痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いでもここに居たら見つかるわ痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛いいい場所を知ってるかも痛い痛い痛い昔、肝試しで行った痛い痛い痛い痛い行くぞ痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い運ぶぞ痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い
悲鳴もうめき声も出せず、ただ痛みが頭の中を埋め尽くしていた。
私を跳ねた男女二人は、私を車に乗せた。私から流れた赤は大雨と共に排水溝に消えていくのか見えた。それから数分か、何時間か、解らなかったが、私の身体は再び雨の中に転がされた。
空が見えた。
草と土と雨の匂いがした。
叩きつける雨が痛い。
二人の人影は私を地面に転がすと早々と離れていく。
ねぇ、何処に行くの?
独りにしないで。私はまだ、生きてる。ねぇ、待って、待ってよ。
ヒューヒューと口から出ていく微かな叫びに、答えてくれる人は誰も居ない。
段々と雨は小降りになり、そしてやんだ頃には、身体は完全に機能を停止していた。
人は、いつか死ぬ。
それはずっと先の未来かもしれないし、明日かも知れない。一秒後かもしれない。
それは、誰もが解っていながら解っていない事だった。私も、解っていながら覚悟も何もしてなかった。遠い未来の話だと信じていた。
あぁ、今まで頑張ってきた受験勉強、無駄になっちゃった。
高校生になって、恋をして、この街から離れて、色々な世界を観てみたかった。
読みかけの小説の結末、知りたかった。
新聞も配ってないじゃん。来月のレイアウト考えてたのにな。
私の未来は、一体どこに行くのだろう?
こんな所で終って、消えていくしかないのかな?
哀しくて、悲しくて、寂しくて、恨めしい。
おかしいな、普通にしてただけなのに。何が駄目だったんだろう。
私は誰も居ない、光のない闇の世界でずっと泣いていた。泣いて鳴いて哭いて、世界を、あの二人を、運命を、一方的に、理不尽に、縋るように恨んで妬んで憎んで呪った。小さな炎はだんだんと大きくなっていく。
――だってこんな終わりは嫌だ!
星のない暗闇を見つめてただただ泣いた。長い時間泣いていた。
【お前、そのままだと怨霊になるぞ】
どこからか低く、どこか恐ろしい男の声がした。人の気配は何処にもなく、私の視界には闇だけが広がっている。
それでもいい
【それは俺が困る。ここは一応神社だ。廃れて誰も参らなくなった神社だが、聖域だ。そこが汚されたらたまらない】
ざわざわと暗闇で木々が揺れる音がした。
あぁ、ここは神社だったの
【勝手に消えるかと思ったが、いつまで待っても消えねぇし、怨霊一歩手前と来た。迷惑千万だ】
貴方は神様?
【まぁそんな様なものだ】
この声の主は危険だ、と本能が警鐘を鳴らす。しかし、そんな事はどうでも良かった。だって私は死んでしまったのだから。今更どうなって変わりはしない。
【小娘、呪い続ければお前はお前じゃなくなるぞ】
そんなの事はどうでもいいよ
私は、赦せない。赦せない。何もかも、誰もかもが憎い
しばらく沈黙が訪れ、それから溜息が聞こえた。
【――良いか、よく聴け】
世界は静まり返り、この声に支配される。
【お前には今二つの選択肢がある】
まるで神様の神託みたいだった。
【一つ目は今すぐ俺に喰われる。跡形もなく、何もできずに】
ずずずっ……と闇が、影が動いた。私の下で何かが大きく口を開けている。
【もう一つは恨むことを諦めて、呪うことを諦めて、消える事だ】
【誰にも知られること無く、誰にも見られること無く、触れることも無く、言葉を交わすこともなく、ただ世界を眺め続けるのだ】
それは、今すぐ食べられるのと何の違いが有るの?
【お前を殺した奴を恨み続ける最後か、全てを諦めてお前が欲しかった時間を手に入れる最後か、の違いだ。些細だ。たが、それがお前たちニンゲンに必要なんだろう?】
欲しかった……時間?
暗い闇に黄金色の美しい陽射しが差し込んで、闇が晴れていく。朝が来たのだ。
私の周りで朝の陽射しを浴びて彼岸の花がひっそりと開く。ぶぅぅん……と何処からか蝿が飛んで来るのが見えた。
気が付かなかった。私の側で朱く紅く燃えるように咲いていた彼岸花は、朝日に照らされ綺麗だった。
花言葉は、独立、悲しい思い出、情熱、再会、想うは貴方一人、そして諦め。
ぶっきらぼうに手を振る小谷君を思い出す。こんなに鮮明に思い出せるのに、もうあの背中を追いかけることも掴むことも、一緒に帰ることも、下らない事を言い合うことも、クラスメイトと、班の皆と一緒に卒業する事も、できない。
諦めれば、私が恨むことを諦めれば茶番でも側にいられるだろうか……。
みんなと一緒に卒業できるだろうか……。
暗闇から隻眼の男が現れた。闇の中、その一つだけ覗く金色の瞳の輝きに私は一瞬の夢を観た。
部活の皆と、班の皆と、小谷君と一緒に卒業する夢を観た。それはありふれた、希望に満ちた夢だった。
欲しい、と思った。その瞬間が欲しかった。だって、まだ先のわからない未来の中に、確かにあった筈の、奪われてしまった時間。私が居るはずだった時間。
男が手を差し出す。
「さぁ、選べ」
選択肢なんてもう、一つしか無かった。
動かない筈の手が男の手へ伸びていく。
男はその手を掴むと、私を
泥と血で汚れた
どうやら私の持論は正しかったようだ。自分で証明してしまうとは何て皮肉だろうか。
「決まりだな」
呆然と
男は、私に幽霊の何たるかを説いた後、何も恨まない事、死体が第三者に見つかった時点をタイムリミットとし、私をこの街限定ではあるが、自由に動けるようにしてくれた。(力の弱い幽霊は存在する事すら難しいらしい)
男に見送られながら、神社の表側に出て階段を下る。落ち葉が階段に溜まっていた。
道に出ると見知った景色で、案外家に近いことに気がついた。
「白影神社……今まで気にも止めたことなかった」
それなりに大きいのに……。まぁ恐らくあの男の仕業だろうな、と適当に検討をつけ、家を目指した。今の私には神社のどうこうなど関係ない話だ。
十分程歩けば、家の門の前に着いた。
そもそも、幽霊は門に触れられるだろうか? と危惧したのにも関わらず、入りたいなー、と思った時には門の中に居た。どういう理屈なのかはさっぱりわからない。気がつくと敷地の中に入っていたのだ。やっぱり同じ要領で玄関の中にも入れた。謎だ。
「ワンワン」
幽霊の謎に思考を飛ばしていると、玄関で寝ていたらしき白くて大きな愛犬――八房が尻尾を振って出迎えてくれた。どうやら犬には見えるらしい。たまに動物たちがあらぬ方向に鳴いてるのはこういう訳だろうか。何それ知りたくなかった。
「ただいま」
触れないので頭を撫でてるふりをしながらそう言うと、バタバタとリビングから音が聞こえ、ドアが開いて、
「水野!」
母が血相を変えて飛び出てきた。しかし、玄関を見ると、肩を降ろして、疲れたように八房に「朝は静かにね」と言って戻っていく。
あぁ、本当に見えないんだ。本当に死んだんだ。
母はずっと、リビングで私の帰りを待っていたのだろう。
急に現実感が沸いてきて視界が揺らりと、揺らいで胸が痛くなる。
「お母さん」
八房が器用にリビングのドアを開けてくれる。賢いね、と頭を撫でてやった。
母はテーブルに突っ伏して、泣いていた。付いてるテレビを見ると、あの雨の日から数日経過してる。あの神様、私の事結構ほっといてたんだな。
「おかぁさん、ただいま」
声が震えた。
「どうして」
母の声も震えていた。
「おかぁさん……ごめんね」
「どうしてあの子は帰ってこないの」
「おかぁさん、おかぁさん」
八房は母の足元にそっと寄り添った。
「ごめんね」
返って来ない返事と帰って来ない娘。
あぁ、本当は今すぐに、
手段が無いからじゃない。例え、私に気がついてくれる人をすぐに見つけたとしても、私は私の為に、その選択肢はきっと取れない……。私は母に、家族にこれから非道いことをするんだ。
足が震えて、胸が痛くて、ポロポロと涙が零れる。罪悪感で動けなくなる前に、逃げなくてはいけない。私は、私の為だけに、行かなくてはならないのだ。
必死に言い聞かせて、家から逃げた。けど、きっと私はこの家に帰ってくる。この人達のことを忘れてはいけないんだ。罰の様にきっと家に帰り、家族を見つめるだろう。でも、今は耐えられなかった。
私は、死んだ。
泣きながら街を彷徨い歩いても誰も見向きもしない。見えてないから当たり前だ。
あぁ、きっと私の心残りが消化されることは決してないだろうな。
みんなと一緒に卒業できたとしても、私はその先の未来を望んでしまうのはわかっていた。だってまだ十五歳の子供なんだ。やりたいことなんて一杯ある。
だから私が自然に消えることは無い。
私を殺したあの人たちを恨んで終わるなんて、したくない。
いっそ、誰かに未練たっぷりな私を、どこにも行けない私を殺して欲しい。死んでいるけど。そうすれば、私はきっと私を諦められる気がする。
卒業したら私が見える人を探さないと。
そんな事をつらつら思いながら、下校の波に逆らって螺旋階段を登る。
三階の私の教室、窓側の一番後ろの私の席、私に許された最後の居場所に向かう為だ。
誰も居ない伽藍とした教室に入る。ちょっと来てないだけで、随分と懐かしく感じた。くぐもって聴こえる音楽室から漏れ出す吹奏楽部の音、校庭から聴こえる野球部の声。
西陽が挿し込み、朱く教室を染める。
なんだか安心する。普段家より長くいる場所だもんね。
私が居なくても世界は回って、私が居なくても世界は美しい。明日も晴れそうだ。
防災無線から家路が流れてくる。正しくはドヴォルザークの『新世界より』この街の夕暮れの曲を私は小さく歌う。
「とーおきーやーまにーひーはおーちてー」
ここまで歌って、やっぱり私に会ってるのは二番だと思い至る。楽しい夢が見れたらいいな。
誰かが近づいてくる気配がした。
後ろの黒板を見ると、あぁ、今日は委員会日か。
ガラリと、教室のドアが開く。そこにはうちの班の副班長くんが居て、私は声をかける。
さぁ、一人劇の開幕の時間だ。
「お疲れ様」
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