第10話 珈琲一杯分の繰言
これよ、と淡白な声でカウンターに置かれたのは、小さな手のひらに乗らんばかりの桐箱だった。
総一郎はその箱を白の手袋越しに持ち上げると、黒と銀の二色の
「これが、ですか」
「えぇ。爺さんの蔵を整理していたら上から降ってきたのよ。危ないったらないわ」
だから生前に何度も蔵掃除をしろと言ったのに。と少しだけ不機嫌そうに、白の陶磁肌に紺と金の線が描かれたコーヒーカップを持ち上げて、客である初老の婦人は目を伏せて答えた。どうやらこの喫茶自慢のコーヒーではその愁眉を開くことは叶わないらしい。しかめた眉をそのままに、彼女はひとつ息を吐くと小さな店内をぐるりと見回す。
数席備えられたカウンターの真ん中に座るそこからは、小さな二人席用のテーブルが四つ店内に並んでいるのが見える。しかし店には今は彼女しかいない。本来会うはずだった馴染みである黒髪の麗人も居らず、相変わらずね、とひとりごちた。
「涼子さんは来れなかったのね」
「どうやら家を抜け出すのがバレたようです」
「まったく、物を頼んできたのは彼女だというのに。だったらあちらに出向いた方が良かったかしら」
まぁ、美味しいコーヒーが飲めるのは嬉しいけれど。そう呟くと深緑の縁眼鏡と同色のニットベストを纏った店主である老年ーー総一郎を見やって婦人は僅かに口元を緩めた。口調こそきついけれど、実のところ彼女は誰よりも繊細な人物だ。細やか故に他人にも自分にも厳しく、必要以上に気を張っている姿は彼女の出で立ちに如実に表れていた。藤鼠色の着物はぱりりと糊が効いており、丁寧に結われた白髪混じりの長髪は気品良くそつのないよう纏められいる。一切の乱れも許されていないそれは、決して侮られまいと己を美しく見せるばかりではなく、見る人に不快感を覚えさせるべきではないと幼き頃からの教えの賜物であった。尤もその徹底ぶりは、寧ろ厳格であると人を遠ざけてしまっていたのだが。
そんな彼女に目をやや細めると総一郎は、開けたままの桐箱をそっと閉じた。紙縒も渡された時と同じように丁寧に結べば、器用なことだと嘆息される。
「これは、美代子さんのご主人の私物なのですか」
「私物というか土産物ね。多分、ロンドンへ行った時に買った骨董品じゃなかったかしら。旅行が好きな人だったから今でも片付けが追っつかないほど色んな土産があるのよ」
これは、綺麗な銀細工に惹かれたのね。と今は総一郎の手の中にある桐箱を美代子は遠い目で見て呟いた。きっと、当時これを手に取ったのは彼女の夫一人だけではない。それを買うに至らせた熱い視線を追っていたのであろうかつての麗女は、今は町の片隅にある喫茶店でコーヒーカップを持ち上げて、かのロンドンに思考を馳せている。
そうしてゆらりと上る湯気に瞳を隠して、嗚呼、と辿るように声を漏らした。
「一人娘も、その孫も。きっとあの人に似てしまったのだわ。二人ともこんな老輩一人を置いてけぼりにして、世界へ飛び出して行ってしまった」
「娘さん、考古学者でいらっしゃいましたっけ」
「ええ。娘は世界を転々としているし、孫はその姿に憧れわざわざアメリカに留学してまで考古学を学んでいるのよ」
そう言ってコーヒーカップの縁を親指でなぞる彼女の横顔は憂いていた。
「……家には、居たくないのかしらね」
ぽつりと落ちたのは多分独り言だ。
幾つ年を重ねても、自分より若い者が周りに溢れ増えても、例え多くの人に敬われるようになっても、それでも己が自身を超える人間になることなど一度たりともなかった。失敗して、挫折をして、擦りむいた膝を叩いて立ち上がって前を向く。そうして等身大の自分を大きく育てあげ、ようやく総一郎も美代子も今ここに立っているのだ。全ての選択が正しかった自信は今尚ない。しかし、必死に未来を繋ごうと歩き走った日々を間違いだとも思わない。
それでも溢れる不安や心配がぽろぽろとこぼれてしまう時もあるのだ。
それは、幾つになっても。
そして、それが掛け替えのない愛する人に対してならば尚更。
「……失礼したわ」
ジャズが流れる店内で、歌っているのは店奥のレコーダーだけだった。
普段はずっと大きな屋敷の当主として肩肘を張り眉を寄せている、誰にも弱った姿など見せられない美代子の、先のそれは間違いなく小さな弱音だった。そんな姿を知己とはいえ垣間見せたことは気恥ずかしく、カップに残った温いコーヒーを仰ぐと席を立つ。藤鼠色の着物の端を直すと、そこに佇んで居たのは大地主として辺りをまとめ上げる貫禄のある姿だ。長居をしたわね、と扉に手を掛けた背中に弱さは微塵も見えなかった。
見えなかった、けれども。
「美代子さん」
なぁに、と彼女は振り向かずに答える。そのキリリとした後ろ姿に美しさを覚えて、変わらないのはこの人も同じだと思う。いつだって背筋を伸ばして、言葉ではなく立ち姿で語ろうとする。そんな強く逞しくも、老いて小柄な身が更に小さくなった背中に優しく言葉を投げかける。
きっと自分が言わずとも、彼女自身が分かっているであろうけれども。
「娘さんも、お孫さんも。あなたがお家にいらっしゃるから、安心して外に出られるのでしょうね」
「…………」
「帰って来られる場所がある、というのは実はとんでもなく幸せなことですよ」
ふん、と美代子は鼻を鳴らして扉に掛けたままの手を握る。そうして一度躊躇うと、また来るわ、と一言だけ残し踵を鳴らして店を出て行った。
カウンターには空になったコーヒーカップと、彼女の夫が遺したという小さな桐箱が残されていた。
店主は眼鏡の向こうでそっと目を細めると、優しく優しくそれを手で包み上げたのだった。
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