第9話 her memory


 狐はただ、愛されたかっただけなのです。





 燃え盛る炎を掻い潜り、痛む足を叱咤して、狐はひたすらに山中を走っておりました。

 追っ手はすぐ背中に迫っていました。身体を覆っていた美しい白金の毛皮はところどころ火に焼かれ、赤黒く斑点のように血で汚れております。以前はその滑らかな体躯をもって見た者すべてを魅了する、まるで神の遣い、いや神そのものだと言われたその美しい姿も、やつれ薄汚れて目も当てられない様でした。

 そもそも狐は神ではなく、ましてやその遣いなどではありませんでした。気付いた頃にはひとりで生きていて、周りに父母兄弟、家族なぞ一匹たりとも居なかったのです。ですので、他の仲間の狐を真似て人里に降りては悪さをはたらいたこともありましたが、しかし彼女の本来の望みはただのひとつだけなのでした。


 (ただ、ただ愛して欲しかっただけなのに……!)


 もう体は限界でした。

 それでも、人間の手にかかることは彼女の矜持が許せませんでした。

 大きな岩を目前に認めると、するりとその影に身を隠します。きっとこの場に留まっていてもすぐに居所は改められてしまう。それを聡明に理解をしていて、狐は自身の命を、身体を、真っ二つに分けてしまいました。



 ひとつは、この場に留まり毒を吐き追っ手を退ける役を。

 ひとつは、この場から逃切りどうにか生き延びる役を。



 (そうして来たる日に、半身を拾いてこの身が再び完全となった日に、恨み辛みは晴らせば良い)


 まずは命あっての物種だと、そう泣く泣く身体を分けたのです。

 走り去る手前、岩陰で人に抗う我が半身を憂いて、狐は一度だけ振り返りました。狐は他の仲間よりもずっと長く長く生きて、末に大妖と呼ばれた身ではありましたが、きっと、憔悴し更に二つに別れた身では無事に済まないことは分かっていたのです。

 せめて滅されることだけはないように……。

 そう己が身を祈って、また足をひたすらに走らせるのでした。




 ❀❀❀




 そこは、ある山の頂上近く、高台として幾らかひらけた場所でした。

 半身を置いて毒を吐き、無我夢中で走り続けては山をいくつ越えたかは分かりません。ともかく、命辛々落ち延びたその場所は、それは美しい桜の老木が立つ場所でした。ちらちらと舞う花弁はまるで今にも消えそうな狐の魂を表しているかのようでした。


 (私もここで終いなのか)


 狐は泣きました。

 身体は傷だらけで自慢の毛並みも所々焼けて見るも無残な有様でした。他の狐よりも、人里住まう人間よりも、ずっと長く生きた彼女でしたが、結局は願い虚しくこのようにひとり寂しく命終えるのかと思うととても悲しくなったのです。

 声をあげる体力もなく、ただしくしくと涙を流していると奥の茂みからかさりと音がしました。


 「誰かいるのか?」


 現れたのはよわい七つばかりの少年でした。少年は狐を見ると驚いて一度目を見開くと、すぐさま来た道を走って戻って行きました。


 (ああ、人を呼ばれてしまう)


 狐は遂に覚悟を決めました。泣くのをやめて、金の瞳には静けさを湛えてそっと瞼を下ろしました。体力は限界でした。もうこのまま眠るように穏やかに死んでしまいたい。それが叶わぬのなら、せめてひと思い殺してほしい。

 そうしてまた少年が戻って来た気配を感じると、遂に気丈に上げ続けていたこうべを地面に伏しました。


 (……?)


 しかし訪れたのは決定的な撃ではなく、優しく温かな撫でる手でした。小さな小さなその手のひらは、そっと労わるように狐の背を撫でているのでした。


 「痛むか? みると思うが我慢してくれ。じっちゃの薬はよう効く」


 そっと眼を開いて少年を見ると、腕いっぱいにもって来たであろう薬草と、傍に桶とぬぐいがありました。彼は水を通した拭で狐の傷を丁寧に洗うと、握り潰した草を狐にあてます。


 「ーーーー!!」


 それは痛むなどというものではありません。骨の髄の髄まで響き、思わず少年の頭を噛み砕いてやろうかと思ったほどです。けれどそうしなかったのは、拙いながらも必死に狐を労わるその小さな手が、優しく慈愛に満ちていると分かったからなのでした。




 ❀❀❀




 少年はそれから毎日訪れました。

 傷を纏う布を替えるためです。

 桜の花が散り終え、青々とした葉が茂り、染まるように赤黄に彩られ、ふるわすように方々に散り、そうしてまた淡い紅の花を咲かす一年後には、少年は狐と話を交わすまでになりました。尤も狐は、また怯えられ疎外されることが恐ろしかったため、ただの狐を演じ続けたのではありますが。


 「おめぇはただの狐では無ぇな」


 ある日、少年が青年になった頃、彼は狐に言いました。

 その頃には狐の傷もとうに癒え、全開ではなくとも、この場から逃げても厭わぬほどには回復しておりました。けれどそうしなかったのは、ひとえに怪我が治った後も毎日訪れるその青年と過ごす時間を愛おしく思っていたからです。


 「安心しな。今更どうこうするっちゃあねぇよ。ただ、村の者がお前に会いたいとさ。美しいお前の姿さ見かけて、神の化身だと思ってる」


 構える狐に青年は笑って握り飯をひとつ差し出しました。


 「儂もお前さんを初めて見たとき仰天したもんだ。そして出会って十年は経つが、儂は年を重ねたというのに、狐のお前は老いもしない。寧ろ、怪我も癒えて日に日に美しくなっている」


 儂も皆にお前を自慢したい。

 そう屈託なく笑う青年に狐は戸惑いました。青年のことは信頼しておりましたが、未だ他の人間に会うのは恐ろしかったのです。けれども、自分の傷を手当てしてくれた彼を生み育てたその村を、そこに住まう人々を、無下にするのも気が引けました。

 いいでしょう、と狐は青年の手から飯を食いて答えました。


 「代わりに村でとれた作物を少しだけ寄越しなさい。私が食べれる分だけ、今まで通りで良い。そうしたら、この桜の木の下で、お前に免じて会ってやりましょう」

 「……! お前、」


 喋れたんだなぁ、と青年は驚き笑いました。そうして礼をもってもう一つ、笹の葉で包んだ握り飯を、狐に差し出したのでした。




 ❀❀❀




 時を経て、その老木には神が宿っていると村人が集うようになりました。お狐様が御坐おわしますそこは、長寿のご加護をいただけると皆多分な供物も持ってくるようになりました。

 青年は老人となりました。黒々とした髪は白が混じり、精悍だった顔は皺が寄るようになりました。

 老人は言いました。


 「お前と出会えて楽しかったよ。初めて見たときはな何てもんを見つけちまったものかと思ったが、しかし日々会うにつれて美しくなり、そうして互いに会話をするようになってからは、儂が知らぬ話を沢山してくれた。間違いなく、それは僥倖ぎょうこうであった」


 ありがとう。

 老人は曲がった腰を更に曲げて、桜木の元で九つの尾を揺らす狐に深く頭を下げました。何を今更、と友人の突然の敬意に狐は戸惑い、かぶりを振って直るように老人に言いました。むしろ、礼を言うのは狐の方なのです。そう伝えなければならないとは思いましたが、敢えて口に出すのは気恥ずかしく、少し口をすぼめて視線を逸らしてしまいました。

 そんな狐の姿を見た老人は彼女が言わんとしていることを察して笑いました。意地っ張りなのも出会ってから変わらずだと、優しく背中を撫でたのでした。



 そうしてその日以降、老人が桜の老木を訪れることはありませんでした。



 来る日も来る日も、獣道のある茂みの向こうから見える頭を探しましたが、結局彼が現れることはありませんでした。

 それをずっと見ていた鴉は不憫に思ったのでしょう、木に溜まると視線を変えない狐へと告げます。


 「彼はもう亡くなったよ。一族に見守られて大往生であった」

 「……そうですか」

 「悲しいのかい? 彼も君を追い込んだ人間の一人だと言うのに」

 「ええ。それでも私は、」


 狐はぐっと涙を堪えて言いました。


 「彼のおかげで本当の愛というものを知りました」


 鴉はそうかいと満足そうに頷くと、空高く飛んで行ってしまいました。

 狐はただひとりそこに残ると、彼との思い出の残る桜に背を預けてゆっくりと眼を閉じました。


 (誓おう。私はあなたたちの行く末を必ず守ろうと)


 空は青く晴れておりました。まるで末高く、果てのないようにも見えるそれに、狐は笑って応えました。そうしてゆっくりと立ち上がり、これから手にかける村里を、ぐるりと見渡しました。

 まるでその想いを乗せたかのように、風は桜の花弁を高く高く舞い上がったのでした。



 それは、昔々のお話。

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