第8話 緑色の目の怪物 ー 後編
ずっ、ずっ、と地を這う音が路地に響く。
鼻をつく腐った臭いに、真矢は思わず呻き口を押さえた。怪異や変異などと言った非現実的な現象に多く直面してきた彼女だが、その経験をいとも容易く凌駕する光景が広がっていたのも理由の一つだ。大きく前方に立っていたはずの涼子も、この異様な光景に真矢と寄り添うほど近くまで後退していた。
「……まさか、
そこに蠢いていたのは、一人、二人ではない。折り積み重なった数多の “生きた死体” であった。ゆらゆらと這うように近付いてくる先頭は、先に涼子へ掴みかかろうとした男だ。
「リビングデッド……なんて言うが可笑しな名前だよな」
ふん、とハロルドは鼻を鳴らして自身の前を蠢く死体を不愉快そうに見た。それらは彼がつい先程ここに現れる際に利用した後方の、闇を抱いた洞から溢れんばかりに這い出てきている。その様を(己がその現状をつくり出しているにも関わらず)軽蔑のこもった視線で一瞥すると、まるで皮肉だと首をすくめた。
「だってそいつらは動いちゃいるがただの屍だ。そこに命も意思もない。ひたすら俺の命令を聞くことしか出来ない、鈍臭い人形だよ」
笑いながら言う。
「あぁ、人形だよ。俺が求めているものではない」
涼子は、その言葉の真意を理解していた。彼女の古き友人より、遠き西の島国でかつて起こった悲しい事件を耳にしていたからだ。その話は界隈を長く賑わせて、そうして今や伝説とまでなっていることを長く浮世から離れていたハロルド本人は知らない。
ハロルド・エヴァンスーーーーかつて存在した英国王室付き魔術師の最高位に成人してすぐ君臨した男だ。史上稀に見る天才だと謳われた彼は、当然に将来を約束されていたが、しかし師と仰いでいた人物の謀略により恋人を喪う。そうして湧き上がる怒りの儘に、その師を含む数十人の王室魔術師を全て手にかけて姿を消したのだ。
自身が殺めた、その魔術師たちの亡骸と共にーーーー。
その長い生の中で涼子は、多くの有象無象を眺めてきた。そうして彼女が出した結論として、果てた命はもう元のかたちに戻らないことをよく知っていた。
だから、かつては彼の同僚であり、部下であり、師匠であったであろうこの憐れな死者達に、断罪をもって手を下すことの他に救いが無いことも、よくよく分かっていた。
「真矢、自分の身は自分で守りなさいね」
涼子はそう言って左手を大きく掲げると、青い火を一つ頭上に灯す。それは彼女が呼吸をするたびに一つずつ数を増し、十二の火の玉が彼女を囲うとちりりと揺れた。
あげていた手を前へ振り下ろすと、並ぶ火球は彼女の指の先へと走り突貫する。
爆音。
舞い上がる煙。
涼子が出した火炎は死者の群れへ直撃したが、けれど衣服の解れひとつも与えることはできなかった。屍達だけではない。隣合わせに立つ両端のビルにすら、彼女の攻撃による新しい傷は一つも付いていない。
やれやれ、と涼子は首を振ってハロルドを見やった。
「領域魔法を維持し続けながら、守護結界を自分と屍術にかけるなんて……、ほんと、噂に違わぬ化け物ね」
「化け物にそう言われるとは。褒め言葉として受け取っておくよ」
吐き捨てるように返すと、ハロルドは次はこちらの番だと言わんばかりにアンデッドの山を涼子へと押し向ける。
やっぱり思っていた通りに厄介な相手だと、長い長いため息を吐いて涼子はまた炎をその身に纏うしかなかった。
一方真矢は目の前の二人のやり取りをずっと追っていた。決して呆けていた訳ではない。『涼子』を奉る神社の息女であり、その『涼子』からお墨付きを貰った領界術師。そう、真矢もまた逸材の一人だった。
目の前で死者の群れが青き炎に燃やされて、舞立つ火炎がちりちりと頬を焼く。その中で、いや実際にはこの路地に彼が現れてからずっと、必死にハロルドの隙をひたりと伺っていた。
恐らく涼子の本来の力をもってすれば、この状況など一薙ぎで終わってしまうのだろう。そう真矢は確信をもっていた。しかしそれは、あの緑の瞳を持った魔術師をも巻き込むことを意味する。きっと、彼女が力を行使すれば、目の前には跡形だって残らない。
(涼子さんは、カミサマだ)
普段は戯けていつも余裕に笑っているけれども。その実は、彼女がその気になればいつ大厄災となるかは分からない。それ程の力を彼女は有している、と兄も父も祖父も曽祖父もその先の先祖代々、口を揃えて言っていた。
それでも、真矢にとって涼子は、生まれた時から面倒を見てくれるひとりの明るいお姉さんだった。
(生かすことに意味があるから、その後利用価値があるから、ただそれだけなのかも知れない。でも、私は知ってる。涼子さんは本当に、本当はとても優しいってことを)
生き物のようにうねる火炎を薙ぎ払いながら、ハロルドはひたすらに闇から死者を招いていた。減ることはなく増えるばかりのそれらも遂に加勢が尽きたであろう頃、彼の後方に空いていた洞が波のように揺らぐ。その一瞬を、真矢は見逃さなかった。
きっとそれが善に転ぶのだと、己が奉る神を信じて手を振るう。
「今ぁー!」
弾くように叫んだその声が狭い路地にこだました。
両手を正面に突き出して全力で力を込める。体全身に血が巡り、その熱が掌に集まるのが分かる。そうして五芒星を中心とした陣が彼女の手の先に浮かび描かれた時、バチバチ、と電気にも似た熱が真矢の髪を揺らした。
「涼子さぁん! リンクできました!」
「上出来よ。じゃあ、」
歓喜にも似た興奮をもって涼子を呼べば、待ってましたと言わんばかりの笑みを彼女は真矢に返した。そうして、溢れて積み重なり最早壁とまでなった屍を踏み潰して、その奥に毅然と立つ魔術師へ視線を向ける。
「剥ぎなさい」
涼子の言葉と同時に、ハロルドの足元で輝いていた魔法円が宙へと浮き上がった。
「な……に……!」
まさか気にもしていなかった(正直なところ涼子の荷物とまで思っていた)少女が、その昔圧倒的な実力をもって名を轟かせていた自身の魔術を破るとは思わず、あまりの出来事にその瞬間ハロルドは手を動かすことはできなかった。そもそも、このリビングデッド達を使役しながら守護魔法をかけていることが大業なのだ。丁寧に描かれた魔法円が光を弱め歪んでいく様に、急いで立て直さんと杖を振るうが、ことは既に遅い。シャァンーーーー、鈴のような音を立てて、彼の守護結界は打ち砕かれる。
その光景をしたり顔で眺めて、ふふんと涼子はハロルドに言った。
「あなたが描いていたのはスタンダード故に最強と謳われる四大精霊を布陣とした構築。西の果てで名を轟かせた魔術師が近いうちに来ることは聞いてたのよ。だから、真矢にはそれを読み解く訓練をさせていたの」
ニヤリと笑って手で拳銃を作る。
「チェックメイトよ」
轟音とともに火炎が噴き上がる。地を這い行き場のない死者は勿論、その焔はハロルドをも飲み込んで天へと昇った。同時にパリン、と何かが割れた音がすると、街中の喧騒が耳に飛び込んでくる。辺りを囲っていた結界が壊れたのだ。辺りはすっかり夜の帳を抱えていた。
路地の真ん中には
「……あなた、もう本来の目的は変わってしまっていたのね」
「…………」
涼子は力の加減が苦手だ。だからこそ真矢の助力を今回必要としたのだが、それでもハロルドが先の攻撃で瀕するほどやわでもないことも知っていた。
度重なる強力な魔術の使用で疲弊していたか、あるいはーーーー。
「それにしても綺麗な色ね」
当初纏っていた上等なスーツは見る影もなくボロボロとなっていた。にも関わらず、依然として高慢な表情を苦々しく歪ませると彼は王冠のような金髪を揺らして顔を背ける。
涼子はその細く白い指のついた手を差し向け、彼の汚れた頬を撫ぜた。そうして沿うようにその左眼に指を這わして爪を立てる。翠玉と見紛うような、その美しい眼球に触れて、そして。
「ーーーーっ!!」
人のいない路地に音にならない悲鳴が震えた。
「そして、とっても美味しそう」
涼子は右人差し指と親指で摘んだその宝石を月に透かしてうっとりと微笑んだ。傍では痛みに悶え、虚となった左目を苦悶に埋めながら抑える英国紳士が残った瞳で整い過ぎた彼女の顔を睨め付ける。
疲労と困憊と憔悴で笑う膝を叱咤してハロルドはよろめくように立ち上がった。
「……殺せ」
「イヤよ」
ふん、と鼻を鳴らしながら涼子は切り捨てた。
「あなた、始めからそのつもりで私に会いにきたでしょう。自殺幇助なんてお断りだわ」
図星だった。
ハロルドはもう辟易としていたのだ。
己しかいない屋敷で、何度も何度も成功しない蘇生術を繰り返す日々。今は亡き恋人に会いたいというただひとつの願いのため、それこそ死ぬ思いで血反吐を吐きながら禁忌にまで手を出した。
そうして百年、二百年、三百年と時間ばかりが流れて、終ぞ、何も変わらず今に至る。
(もう、嫌なんだ)
生きる意味はとうに失っていた。
自決するには高すぎる魔力が邪魔だった。
だからといって、他に縋る誰かも見当たらなかった。
その折だ。古書で遥か東に在わすタマモノマエと名乗る存在を知ったのは。
「……多くの人間を手にかけたのだろう?」
「そんなこともあったわね」
涼子はむすっとした顔で答えると、けれど昔のことだと一蹴した。そして顎に手を当て悩む仕草をすると、そうね、と名案を思いついたかのように指を鳴らす。
「願いを叶えることはできないけど、生きる理由を与えることはできるわ」
鮮やかな赤に塗られた爪先を揃えて、遥か西からやってきた緑色の目の怪物へ右手を差し出して言う。
「私に仕えなさい、ハロルド・エヴァンス。さすれば来る時にこの瞳はお返ししましょう」
月が照らしたのは、それは美しく穏やかな笑顔だった。それは、かつての日に優しく笑いかけてくれた恋人を思い出させる。涙は出なかった。ただ、胸を駆ける何かが押し寄せて苦しかった。
いつかまた、自分もそんな風に微笑むことはできるだろうか。凪のような心持ちで、彼女の墓へ赴くことはできるのだろうか。
暖かい風がどこか懐かしい香りを運んで背中を押してくる。まるで促すようなそれに、ハロルドは目を閉じ息を吸った。
それは、蒸すように暑い、ある夏の日の夜のことであった。
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