第6話 緑色の目の怪物 ー 前編


 長い長い石段は夏の日差しに揺らめいて、西へ傾いた陽の紅さを映していた。


 「遅かったわね」


 その女性は階段の最上に立つ真っ赤な鳥居に背を預けて言った。風にたなびく黒髪をそのままに、夕日のせいではない、本来持つ黄金の瞳を三日月に細めて笑う。纏っているロイヤルブルーのワンピースが膝下で揺れて、その立ち様は此の世のものではないと見紛うほど美しかった。

 ジジジ、と夏の蝉は鳴くが、一方声を掛けられた篠山真矢は大きく眉を寄せて、一度開けた口を閉じ返事を飲み込んだ。ジーンズに白ティーシャツというラフな格好にスポーツリュックを背負って、今ようやっと二百段ないばかりの階段を登りきる手前であったのだ。蜂蜜色にまで脱色した長髪が蒸し暑く鬱陶しい。ここが自身の生家とはいえ、真夏の最中に(いや、どの季節であっても)長い階段を登るのは苦行でしかない。それが、あの彼女がわざわざ最上段に立って自分を出迎えてくるということは、つまり。


 (今から仕事か……!)


 せっかく大学から帰って冷房の効いた部屋でハーゲンダッツを満喫しようと思ったのに。試験も終わってこれから夏休みで、やっとこさ足を伸ばせると思っていたのに。

 真矢はささくれ立った気分を隠すことなく、残り数段の階段を登りきってこの神社の生きた御神体である彼女ーー涼子の目の前に仁王立ちで正面に向かう。


 「今ですか、涼子さん」

 「急ぎなの。行くわよ」


 そうらしくなく険しい顔を浮かべ、涼子は真矢の手を取り跳躍すると連なる階段をひとっ飛びで降りた。いっそ帰りもこうやって連れ帰ってくれたらいいのに。そう淡い期待をもって風を切りながら前を行く黒髪の麗女を真矢は見るが、それがどんなに確率の低い希望であるかを彼女はよく知っている。寧ろ普段なら助力を一切しない涼子が自身の手を引いてここまで急ぐことの方がずっと稀であった。

 小道を走って山を下り、賑わう繁華街を駆け抜ける。すれ違う人々の脇を動物のようにすり避けて、覗いた涼子の顔はやはり強張っていた。


 「涼子さん、一体何が……」

 「お呼びでない客がね、」


 そこの路地を抜けるわよ、と裏道を指して足を止めることなく会話する。指示されたその裏路地に踏み入った、その瞬間だった。

 耳を貫くガラスのヒビ割れのような音が響き渡り、無機質なパイプ管が伸びるだけの路地は更に色をなくして白と黒の世界となる。昔のモノクロ写真を見ているようだ。


 「……来てしまったのよ」


 がっくりと肩を落として涼子は、先の続きであろう台詞を大きなため息と共に吐き出した。振り返って路地から出ようと試みるが、背後は今通って来た歓楽街ではなく、ただ先の見えない闇がボンヤリと広がっている。手を伸ばしてみるとパリパリと静電気のような痛みを帯びて、どうやらこの細い裏道に閉じ込められてしまったようだった。


 (とんでもない結界だ)


 その道に携わっているからこそ分かる。特に真矢は歴代でも飛び抜けた才を持つと涼子に判を押された程の領界術師だ。それでも今この空間にはびこる、居るだけで肌を電気のように走る力は尋常ではない。まるで質量のように肩にのし掛かるような感覚を、真矢は未だかつて感じたことはなかった。

 背後も闇だが、その路地の奥もまた闇だ。

 どうしたものかと隣に立つ涼子を見れば、構えなさい、と一言だけ告げられる。直後異様に冷たい突風が吹くと、ぐにゃりと十メートルほど先の風景が歪んだ。歪んで拡がり路地の真ん中に宙に浮かんだ洞ができる。冷たい空気はそこから這うように流れていた。洞の中もまた闇より深い漆黒が渦巻いている。


 ーーーーカツリ。


 音が無さすぎて耳鳴りがするまでの静寂の中、低い踵音が響いた。

 歪んだ洞から出て来たのは、金の髪が王冠のように美しい青年だった。品の良い黒革靴を履いて、フルオーダーメイドのスリーピーススーツを着ている。そうして何よりも彼を特徴的としているのが、金の縁取り刺繍が繊細な、濃紺の外套であった。前身頃は刺繍と同じ金の編み紐で閉じられている。スネークウッドの杖を左手でついて、右手は古めかしいトップハットに添えられていた。


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 カツリ、とコンクリートを確かめるように杖を鳴らして一歩出ると、その青年は涼子を認めて恭しく礼をした。帽子を脱いで丁重に頭を下げるその様は手慣れていて美しく、ここが路地裏でなければ舞台劇の挨拶かのようだ。


 「お初にお目にかかります。貴女にお会いしに来たのです、タマモノマエ」


 タマモノマエ、と呼ばれた涼子はその甚だしいまでに畏る青年を見て、先程から歪めていた形の良い眉を更に寄せていた。眉間に皺が残るのではないかと心配にもなるほどに。


 「その名前は捨てたわ」

 「なるほど。では名前は変われども貴女そのもので間違いないと」

 「人違いよ」


 苦々しく吐き捨てるように涼子は言うと、青年はハハッと乾いた笑いをひとつあげて、下ろしていた帽子を被りなおした。その帽子が落とす暗い影の中でも、彼の二つの緑眼は不気味にゆらゆらと存在を主張するかのように光る。


 「人じゃないだろう、女狐が」


 先ほどまでの慇懃過ぎる態度はどこへいったのか、口角をあげて吐き捨てたのは雑然とした罵りだった。宵闇色の外套がはためいて、彼の足元を中心に淡い光がゆっくりと陣を描いていく。改めて彼は涼子を見据えると大仰に慌てた仕草をして笑みに目を細めた。


 「あぁ、これはいけない。申し遅れた、俺は英国から参ったハロルド・エヴァンスという」

 「……涼子って呼んでちょうだい」

 「ふん、名前なんぞどうでも良い。その身、その命、今から俺が貰い受ける」

 「やぁね、野蛮だわ」

 「あの、えぇっと……」


 一人ついて行けてない真矢はオロオロと涼子と青年ーーーーハロルドを見比べる。その様を見てため息を吐くと涼子は、真矢の背中を叩いて構えなさいと再度叱咤した。


 「落ち着いて。いーい? 真矢はあのペテン紳士が構えている魔法円をひたすら読み解きなさい。今のあなたならできるはずよ」

 「うぅ……頑張ります」

 「あなたの手ほどきは私がしてるの。自信を持って」


 行くわよ、そう正面を見据えて涼子は低く構えた。

 視線の先ではまるで化け物の目のように、闇の中で二つの緑眼が揺らめき光っていた。

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