第5話 『梟の木』

 『梟の木』という店がある。

 美味しいコーヒーとデニッシュを看板メニューに持つ昔ながらの純喫茶だ。数席備えたカウンターと小さな二人席用のテーブルが四つ店内に並ぶ、幾分かこじんまりとした作りをしている。深緑の縁眼鏡と同色のニットベストを纏った老年がひとりで切り盛りをしていて、彼の淹れるコーヒーは絶品だと来客は皆一様に舌鼓を打って帰る。そうして一度訪れてならばまた次もと、その店に訪れる客は多く常連であった。


 しかしその常連である彼らも望めばかならず来店が叶うわけではなかった。というのも、その見た目は駄菓子屋だったり、電柱と塀の隙間が出入り口であったり、振り返るといつの間にやら店内に入っていることもあるからだ。そのため初めて訪れる者が伝聞で行こうとしても普通は見つけることはできず、そうして見つからないままその店を忘れて日常に戻る。忘却の彼方へと話していたことすら流れていってしまう。


 ならば店に入れる人というのは何かというと、つまりはその店自体に選ばれているのである。その一生において大きな分岐を得るための必要な出会いであったり、もしくは何かしら一般とは違う秀でた才を有していたりとその事情はそれぞれだ。ただ共通して言えるのは、皆しかるべき時に無意識でありつつも、そこに呼ばれて来店を叶えているということだった。

 けれど中には店が、正確にはそのオーナーが希望しない来客もいる。本来入ることに苦労しないそこは、いざ探そうと思うと全く居場所が掴めない。そのどこにあるか分からない入り口を、どうにか骨を折りながら辿っても見つからないのが普通だ。なので、お呼びではないがその喫茶店に行かなければならない人間のひとり、篠山真矢は用があるたび苦労していた。


 「だぁーっ、もう!」


 この前は廃ビルの屋上扉が入り口で、その前は繁華街の一角に悠然と佇んでおり、更にその前はマンホールを開け下に降りると出入り扉だけが置いてあった。それもこれも全て、真矢が今探している女性こそ、その店のメインオーナーであり、そして気紛れでいたずらが趣味で天邪鬼であるが所以だ。彼女いわく「ちょっと苦労するくらいが良い修行になるでしょ」との事だが、毎度家を抜け出しては兄に探してくるよう命じられる身とあってはたまったものではない。修行は休みの日にちゃんとこなすから、どこにいるか明確にして欲しい。いや、そもそもこっそりと外に出ないで欲しい。


 (っていうか神さまがお宮留守にしてホイホイ出掛けちゃダメでしょ)


 駅前に立つ自動販売機の下を覗きながら思う。

 そう、彼女ーー篠山家に住まう涼子と名乗る女性こそが、喫茶『梟の木』のオーナーであり、真矢の生家である神社が祀る御神体そのものであった。由来は大層有名であるそうだが、実のところ真矢はあまりよく知らない。涼子からすすんで話すことはないし、父や兄から勉強しろとは言われているが、正直なところ家を継ぐ気の無い彼女は馬耳東風のごとく多くを聞き流しているのだ。興味がない、というわけではないのだが、必要になれば自然と覚えるだろうというのが真矢の構え方であった。


 (大体なんで毎回入り口変えるかな)


 口を尖らせて文句を心内で呟く。ジメジメとした肌にまとわりつく暑さがまた苛立ちを増長させるのだ。胸の位置まで伸ばした髪をゴムで雑にひとまとめにするも、風のないここでは気休めにもならなかった。そもそも時間帯もよろしくないのだと思う。帰宅ラッシュの今は他の時間よりも人の往来が多く、ここいらの沿線では特に大きな主要駅であるこの場は殊更密度が高い。ジャケットを片手に汗を拭うサラリーマンや、手で顔をあおぎながら談笑する女子高生が、器用にこれだけの人混みの中ぶつかることなく歩き行く。私も早く帰りたい、と涙もちょちょぎれる気持ちで向こうに並ぶ改札を見やった。あそこに、あそこを通って電車に乗れば三駅で家に帰れるというのに。


 (ん? ……んんん?)


 何度も言うがここは主要駅で、そして今は大変人の多い時間帯である。当たり前に改札は溢れんばかりの人が行き交っていて、全ての機体が常に誰かしらを抱えている状況だ。本来であればそれが普通のはずだった。

 木の葉を隠すには木の葉の中に、そう言ったのは誰だっただろう。ならば入り口を隠すには入り口の中が良いのだろうか。

 これだけ多くの人が利用しているにも関わらず、一番人の利用が多いであろうが中央に立つひとつの改札機だけ誰も使用していない。帰宅ラッシュの今はそれこそ他の時間よりも人が多いというのにだ。まるでそこには用がない、いや、そもそも見えていないかのように皆一様にそこだけを避けていた。つまりは。


 「やぁっと見つけたー!」


 まるでゴールテープを切るかのように両腕をあげて一台の改札機を走り抜ける。鳴ったのは機械のエラー音ではなく、金属の音が心地よいチリンと控えめなベルの音だった。ぶわりと眩いばかりの光の束が目の前を走って、ようやく目を開けられる頃にはそこは見知った駅ではなく、待望の店内へと変わっていた。


 「あら、今回は少し時間かかったんじゃない?」


 来店のベルに、向けていた背を返して振り向いたのは、深い闇のような黒髪と貫くような光を湛えた金眼が印象的な女性だ。くすくすと赤のリップを震わせ笑う、その唇をなぞるように寄せた指爪先にも同じ色を纏わせていた。カウンターにゆるりと座っては長い手足を持て余して、一度目にかけたら忘れることはないだろう。絶世の美女とは、きっと彼女のことをいう。そんな美しすぎるが故に持つ一種の威圧を物ともせず、真矢はつかつかとサンダルの踵を鳴らして目前へと詰め寄った。なにせこの美女こそが半日かけて探し続けた相手で、そうして彼女を連れてこそようやく家に帰れるのだ。


 「もう勝手に抜け出すのはいい加減にしてください! お兄ちゃんに怒られるの私なんですよ! 大体なんで毎回入り口変わるんですか、マジ意味分かんないんですけど」

 「あら。でも楽しいでしょ?」

 「楽しいのは涼子さんだけです!」


 もう勘弁してと半泣きで訴えても、どこ吹く風で涼子は手元のコーヒーカップを傾けるばかりだ。多分話なんぞ聞く気ない。


 「頼みますからちゃんとウチの神社で奉られといてくださいよ。最近こっそり犬や猫に化けてまで外散歩してるでしょ。私知ってるんですからね」

 「だって離れにずっとひとりで居てもつまらないんだもの」

 「マンガやゲーム、めっちゃ差し入れしてるでしょ!」

 「んー、人恋しくなるじゃない?」


 ケラケラとついに声出して笑う様は、ついには本気で真矢をからかい始めている。こうなったら柳に風だと大きく長いため息を吐いて頭を抱えて首を振った。おそらく何を言ったって聞きやしない。気まぐれでいたずらが趣味で天邪鬼な彼女に、どうこう無理強いなお願いをするのがそもそもの間違いなのだ。

 目に見えて疲れを抱えた真矢を不憫に思ったのか、豊かな眉を下げてカウンター向こうから老輩が顔を出した。何か飲むかと尋ねられるも、そんか気分にはなれずやんわりと断る。


 「飲めばいいじゃない。ココア好きでしょ」

 「飲みません。とにかく今日はもう帰りますよ、お兄ちゃんに叱られる!」

 「大丈夫よぉ。一杯付き合いなさい」

 「ダメです。帰ります」

 「えぇー」


 子供のように頬を膨らませる神様を引きずりながら、大きく扉を開けて真矢はようやっと帰路に着いた。彼女たちと共に喧騒も去り、店はレコードのジャズが流れるだけの静かな表情を戻していく。後から追うようにチリン、と閉まる扉のベルが鳴るのを見送ると、中に残された老年はどこか楽しそうにひとつだけ笑った。そうして自身の淹れたコーヒーを悠々と口に含む彼を抱えてまた店は入り口を隠し行く。また日を空けない内に訪れるであろう店主を待ちながら、ひっそりと街の片隅で時を刻むのだ。

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