第4話 The Good Day to




 その日は春の風も穏やかで、青々とした若葉の薫りが抜ける晴天の、いい日だった。


 そもそもこの河川敷を歩くのも何年ぶりだろう。幼い頃こそ弟と共によく遊びに来ていたものだが、年を経て家を飛び出してからは訪れる機会もなかった。ようやくこうして足を下ろすのも久しく、目を閉じて大きく息を吸う。背中の町並みこそ変われども、目の前の川の流れは、草木の青々とした香りは、昔と何も変わらない。ざりざりと川辺まで降りて水面を覗いてみると、そこはまだ高い日の光を受けて輝いていた。

 対して、映る私の顔はどうだろうか。


 「こんにちは」

 「ーーーー……」


 唐突な声に恥ずかしくも肩を揺らして動揺してしまった。些かぼんやりとしすぎていたのかもしれない。全く気配を感じぬことに驚きつつ振り向くと、そこに立っていたのは見知らぬ、それはそれは美しい女性だ。夜のような闇色の絹髪と、抜けるような金の瞳が印象的である。白いシャツの上に羽織っている濃い鮮やかな青のトレンチコートが風に揺れる。


 「こんにちは」

 「……どうも」


 返事をすれば満足そうに笑顔を浮かべたその女性は、おもむろに隣に立つと私と同じように静かに流れる川を見つめた。水面がキラキラと反射して彼女の金瞳を瞬かせる。並べたかのように整ったその目鼻立ちが柔らかな風に撫ぜられて、そこだけ映画のワンシーンを切り取ったかのように美しい。

 まるでこの世のものではないかのように。


 (あぁーー)


 現実味のなさに思い出すのは今は亡き恋人の姿だ。彼女を喪った日とは随分違う。風は静かで、暖かな陽射しがゆらゆらと私を照らしている。若葉の青々とした香りが鼻をくすぐって、新しい生命の息吹がすぐ横を駆け抜ける。本来ならば喜びの歌をあげるべき日に、私の心は沈んでいる。

 ひと月経った今でも、未だに両腕に彼女の体温が残っているような気がするのだ。これが錯覚だと正しく覚えて、悔しくて、悲しくなった。どうして救えなかったのだろう。どうして彼女だったのだろう。どうせ死ぬのならば、私であれば良かったのにと。もう救えないのなら、いっそ私も彼女の元へ向かうことができるならば、と。

 彼女がそれを聞いたら怒るのだろう。命を無駄に粗末にすることは極度に嫌う人であったから。例え失われる日が来るとしても、それまでは必ず自身の生を全うするのだと、それが自分たちの責任なのだと、常々そう言っていた。

 それでも。


 (私は君が恋しくてたまらないよ、遼子)


 心にあいた風穴は、私を自暴自棄にするには十分過ぎるほどだった。何もかもが憎くて堪らず、何もかもが悲しくて虚しい。「なぜ」「どうして」そんな言葉ばかりが私を支配する。もし叶うならば、願わくば、私は。


 「願い事をするなら何をしますか」

 「えっ……、」


 一瞬、心を読まれたのかと驚き顔を上げる。けれど横に立つ女性は変わらず川向こうを眺めているばかりだった。

 長い睫毛を瞬かせて、艶やかな黒髪を風に遊ばせる。穴の開くように顔を見つめる私を振り返り合った瞳は、射抜くような黄金で人ならざる美しさを湛えていた。もしかしたらこの女性は人ではないのではなかろうか。そうであるならば、もしかすると。


 「……あなたは死神ですか?」


 彼女は意外だという風に大きな目を更に大きく見開くと、紅いリップを塗った唇をあげてにんまりと笑む。そうですね、と少し考えながら一度だけ首を傾げると、風にその黒髪をあずけながら言った。


 「そうだとしたら、あなたは嬉しいのでしょうが、残念ながら違います。けれど、」


 金の瞳を半月に歪めながら更に続けた。


 「……死ぬには、いい日でしょう」

 「ーーーーえぇ」



 その日は、いい日だった。


 うっかりと橋の上から川に落ちてしまうくらいには。



 川向こうの岸では人だかりができていて、その中心で白い服を着た救急隊員が必死に倒れている男に声をかけていた。服は水浸しで顔は土気色をしている。それもそのはずだ、なぜならその『私』は、今ようやく目の前の川から引き上げられたばかりなのだから。長いこと水に浮かんでいて、きっと全身は氷のように冷たいのだろう。恐らくその命だって風前のともし火のものだ。

 あぁ、と思う。そうだ、もし願わくならば。


 「恋人に、もう既に亡き恋人に会いたいです」


 もしこのまま私という存在が消えてしまうというのなら、叶うのならば今一度彼女に会いたかった。会って、抱きしめて、もう一度あの笑顔を臨みたかった。

 隣の女性は悲しそうな顔を隠すように首を振ると、生き長らえたいとは思わないのかと問いかける。だが答えなどとうに分かっているのだろう。無言を貫く私を見て「そうですか」と寂しそうにポツリと呟いた。


 「まず、死者を、生き返すことはできません。それは何人たりとも、覆してはいけない道理なのです」

 「……ええ」

 「けれどあなたはまだ生きている。呼吸を浅く繰り返して、まだ身体は命を刻もうと心の臓を動かし続けている。ならば、」


 一言一句逃してはいけない言葉なのだと思う。だけどその先など聞きたくはなかった。どうせ続く文言はーーーー。


 「ーー喪われていないというのならば。最期まで全うすべき。そうでしょう?」


 きっとあなたの恋人だってそれを望むはずです。そう続けて噤んだ彼女は私の返事を待っているようだが、つまり、答えは『できません』という訳だった。分かっていた当たり前の答えに苦渋を飲む。もやもやと、胸の内を黒く濁していくこの思いを、誰がどうして晴らしてくれるというのか。

 いいや、とひとり首を振る。あくまでも聞かれた問いに答えただけだ。元より理解と昇華を求めた訳ではない。だが、そもそもにして叶わぬ願いだと言うのであらば。


 (もう、この場に未練などあるまい)


 この川原を背にしてあても分からず進むべく歩を下げる。どうせ一度きりの邂逅ならば、挨拶もそぞろに早々とこの場を立ち去ってしまいたかった。最後にもう一度だけ隣の女性の顔を見やろうと、ひとつ動いた瞬間に真白い手に掴まれ制止する。華奢な細腕から出でるその力とは思えぬほど強く、そしてその裏腹に、もし、と彼女は控えめに言った。


 「もし要らぬというならばその命、私に貰えませんか」

 「は?」

 「その果てには、形は変われども、あなたの願いを叶えましょう」


 金の瞳は見透かすようにこちらを射抜いていた。まるで視線を浴びるだけで痛みを感じてしまうかのようだ。深い深い黄金が、ただ一点私を見つめる。

 断る、のは簡単だった。得体の知れない女性に得体の分からぬ問いかけをされているのだ。頷く方がどうかしている。けれど、だけれども。


 (また君に会えるなら)


 瞼の裏で思い描く、記憶の恋人はいつも笑っていた。最期の、息絶える瞬間まで、私を気遣って笑顔をたたえていた。

 あぁ、彼女に会えるというなら。


 「いいでしょう。悪魔にだって魂を売ってやります」


 女性は少し面を食らったかのように目を見開くと、それはおすすめしませんと困ったように笑う。そうしてひとつ、ありがとうと呟くと手を差し出して言った。


 「名前、涼子と言います。あなたは?」


 握り返そうと、あげた右手が手前で中途半端に浮かんで止まる。目頭が熱くなって、ぐっと息を大きく吸い込んだ。あぁ、どうして、なんという因果で。


 「……総一郎、と申します」


 告げられた、亡った恋人と同じ名音を耳にして、どうして悲しみを覚えずにいられようか。溢れ出そうになる何かを、涙を堪えることでどうにか胸の内に抱える。

 ようやく手をとった右手は震えていなかったら良い。だが、例えそうだとしてもきっと、全て彼女には見透かされているのだろう。理由はないが、そう思った。


 (なぁ、遼子)


 死者に魂というものがあるならば、彼女は浮かばれたのだろうか。それとも未熟な自分が心配で、未だ此の世に留まっているのだろうか。その術を持たない私にはどちらとも分からないけれども。


 (どうか私がそちらにいくのはもう少しだけ待っていてほしい)


 目の前の川面が光を浴びて、キラキラと笑うように輝いていた。包むような暖かい春の風がひゅるりと音を立てれば髪を揺らして去っていく。見上げれば、空は抜けるように青かった。


 今日はいい日だった。


 死ぬにはいい日だった。


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