第3話 昼下がりの追憶

 お気に入りの喫茶店で飲む、お気に入りのコーヒー。

 いつものカウンターの端っこに座って、店内を流れるレコードのジャズに耳を傾ける。手元には課題で出された洋書を置いて、手帳を開きながら明日の予定を考える。

 本来ならば至福のこの時間。だというのに。


 「いやー、ホント可愛くてさ」

 「へぇ」

 「未だに下の名前で呼び合うのが恥ずかしいらしくて、呼ぶたび顔真っ赤にするんだぜ」

 「へぇ」

 「敬語も抜けないんだけどさ、たまに言い間違える“先輩”って言うのがまた、」

 「あのさ、雅親くん?」


 ひとつ席を空けて隣に座る青年をできる限り険しい顔で睨みつける。というのにこの男はへらりと緩みきった顔を隠すことなく、寧ろ自身の話題を遮られたことに怪訝そうな表情を浮かべた。私には一度だってそんな溶けた顔を向けたことないのに。キザな白いタートルネックセーターが似合っているのがまた憎らしい。


 「あなた、私たちの関係覚えてる?」

 「元恋人同士だろ」

 「ご存知の上での愚行なのね」


 嫌味を込めて鼻を鳴らしながら言えば、まだ呆けるには若すぎるからなと返された。いけしゃあしゃあと。

 店で鉢合わせたかと思えば、随分と久しぶりに会ったにもかかわらず当たり前のように声をかけてきて隣に座る、その神経は私には理解できない。挙げ句の果てには今の彼女の惚気話を始めるのだ。図太いにも程があると思う。


 「そもそも偶然にしろ元カノと会うってどうなのよ。彼女怒らないの?」

 「白鳥だったら別に良いんだと」

 「はあ?」


 コーヒーカップを傾けながらため息交じりに言われても、私の口からは風船から空気の漏れた音のような声しか返せない。

 何をもって(かつてとは言え)恋敵に会っても構わないと思うのか。もしや舐められているのかとまで思考を飛ばせば、眉間にシワが寄っていると注意された。誰のせいだ。


 「悔しいほどに、なんか白鳥のこと信頼してるんだよなぁ。悪い人じゃない、とか言ってたけど」

 「あの子バカなの?」


 自分で言うことじゃないかもしれないが、雅親くんとその彼女が付き合い始める前、私は実に汚い手法で相手に嫌がらせを重ねていた。そうして行き着くところまでいって己でも収集がつかなくなった頃に、遂にはその小さな悪事が表沙汰となり彼女から直々に“ささやかな”制裁を与えられたのだ。

 とんだ辱めではあったが自業自得だったし、もっと酷い処罰すら想像していて、当時はそれだけで良いのかと拍子抜けすらした覚えがある。寧ろ、突然胸の位置まであった髪をまるめて坊主となった私を見て、事情を知らない周りの人たちの方が慌てたものだった。

 それももう一年経った話となる。私も雅親くんもこの春に大学の二回生となり、当の彼女も高校を卒業して新しい生活へと歩を進めている。確かご両親の仕事へ興味を持ったとかで考古学を学びにアメリカへ留学すると聞いた。海外へ行く事が決まった際に彼女の親友がこの喫茶店へ訪れて、カウンターで私の隣に座ったかと思うとおもむろに号泣し始めたので(知りたくもない)話をよく知っている。


 「でも、俺もそう思うよ」

 「何がよ」

 「白鳥は悪いやつじゃない」


 頬杖をつきながら白い歯を見せて屈託無く笑う。彼は昔はそんな顔をしなかった。もっと、人を根本的に常に疑っているような、意地の悪い笑顔ばかり浮かべていたと言うのに。

 私のことを二人して“悪いやつじゃない”なんて言うけど、この笑顔を引き出したであろう彼女こそが“いい子”に違いなかった。

 その役目を、彼の隣に立てなかったことを悔しさとして少しだけ思い出して、誤魔化すようにコーヒーを口にする。そうして喉の奥に流し込んだ後、ようやく絞り出すように声に出した。


 「意味が分からないわ。なんの確証があってそう思うのよ。っていうか、嫌がらせをした相手に言う言葉じゃないでしょ」

 「勘だよ」

 「……はあ?」

 「白鳥は、俺によく似ている」

 「…………」


 自分に似ているから悪者のわけがない、とは何と傲慢な理論なのだろう。けれどそれを否定する気もなく、私は返す言葉を失った。

 どことなく、思ってはいたのだ。彼は私に似ている。そしてだからこそ、私は彼に執着をしていた。まるで半身をとられるかのような、恐怖概念に襲われたのだ。

 だが例えそうだとしても今となっては同族嫌悪この上ない。素直に、そして嫌味も込めてそう呟けば、つれないことを言うなと拗ねたように口先を尖らせて言われた。そんな子供のような顔も、知らない。コロコロと表情を変えるその姿はもう私の知っているものではなかった。

 窓から刺す陽光のせいではなく、目の前が眩しい。


 「お話中に恐縮ですが」


 カウンターの奥から店主が伺うように顔を出した。手には持ち帰り用の白い紙袋を携えている。


 「雅親くん、ご注文の品が出来上がりましたよ」


 そう深緑が鮮やかな眼鏡と同色のニットベストが似合う老台から差し出された紙袋の中からは香ばしいバターがふわりと香った。少し大きめのその袋には、きっと二人分のコーヒーと、そしてこのお店名物であるデニッシュが入っている。

 改めて二人の仲の良さを見せつけられた気がして、彼女がここに居ないにもかかわらず居心地の悪さを感じた。どうしてこんな思いをしなければいけないのか。そんな当然な思いを抱いて隣を一瞥するが、雅親くんと言えばへらりと嬉しそうに笑っていて、ああ、本当に幸せなのだなとその姿を見て毒気も抜かれてしまう。


 「ありがとうございます。初めて白鳥から貰って以来、ここのデニッシュ以外食べられなくて。きっと彼女も喜びます」

 「そう言って頂けると私も嬉しいです。どうぞ美味しくお召し上がりください」


 袋を受け取って会計を済ます、その所作までもがよどみなく優雅だ。悔しいことに、この男は自他共に認める完璧な人間なのだと思う。

 自信過剰なところがたまに傷だが。


 「じゃあ、俺は先に行くわ」

 「ええ、さっさと消えてちょうだい」

 「白鳥、」


 立ち上がってグレーのスプリングコートに腕を通しながら彼は言う。


 「お前が困った時、いつでも声をかけろよ。全力で助けてやるから」

 「……例え困窮してもそれはないわね」


 酷いやつ、そう笑って言うと今度こそ背を向けて彼は扉をくぐって行った。大きく扉が開いた際、外を散歩していただろう犬と目が合う。黒くてまんまるな目が印象的で、そして雅親くんはまんまとその可愛さに捕らわれたようだった。扉が閉まる際にしゃがんで撫で回す様が垣間見える。そこに居座る気なのか。


 「……帰りなさいよ」


 大きくため息を吐いて首を振る。

 昔はあんな動物好きではなかった気がするのだが、それも今の彼女の影響なのだろうか。いや、可愛いもの好きではあったから、周りを気にしなくなっただけかもしれない。

 ふふ、と深く皺を刻んだ店主が更に皺を深くして笑った。


 「賑やかでしたねぇ」

 「すみません、うるさくして」

 「いえいえ、楽しかったですよ。私も若い頃を思い出します」

 「総一郎さんの?」

 「ええ。生涯にこの人だけと決めた相手でしたが、まぁよく喧嘩をしたものです」


 眼鏡の奥の瞳が遠くを覗いて、その詳細を聞いていいものかどうか迷った。この店主は終始穏やかだが、その経験の多さであろう故に深淵を見せないものがある。

 逡巡していると先に口を開いたのは店の主人で、ほぼ空となった私のカップを下げて言った。


 「ところで、麗子さんもデニッシュをいかがですか。少し多めに焼いてしまったので、食べて頂けると助かるのです」

 「是非!喜んでいただきます」

 「ふふふ、じゃあコーヒーも新しくお淹れしますね」


 そう笑うと手際よく、店主は新しいカップを取り出して準備を始めた。焼きたてデニッシュから香るバターと、コポコポと音を立てておちるコーヒーの香りが店に充満する。

 すん、と鼻いっぱいに吸い込めば、それだけで幸せに満ちるような気がするから不思議だ。どこか懐かしい、暖かいこの場所がやっぱり私は大好きだった。


 いつものカウンターの端っこに座って、店内を流れるレコードのジャズに耳を傾ける。手元には課題で出された洋書を置いて、手帳を開きながら明日の予定を考える。ようやく訪れたであろう至福の時間に、今か今かとお気に入りのコーヒーが出てくるのを待つ。

 そんなささやかな幸せを、日常の合間に噛みしめて息を吐くのだ。






  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る