第2話 First Love

 爆音が止まない。


 腕に抱えた彼女は荒れた息を口にして、腹から溢れる血を白い手で抑えていた。私も必死でその上から手を重ねていたが、それがいかに気休めに過ぎないか、互いに了承の上だった。

 分かっている。分かっていたのだ。

 このような仕事を選んだのは自分達で、そして紛争地に赴く限りどのような事態になろうとも当然なのだ。昨日出会った友人が、今日出会った朋友が、目の前で膝落ちる姿を見たのは一度や二度ではない。けれど、けれども。


 「リョウコ、頼むから……」


 いかないでくれ、と続けることはできずに口を噤む。その様を彼女は虚ろな瞳で認めると片口角だけ上げて笑った。彼女もまた、親しい人を目の前で亡くすことは少なくなかった。それが此度自身に降りかかった、というただそれだけのことだった。

 声を出すと痛むのだろうか。それともその域はとうに出でてしまったのだろうか。温かい鮮血が指の先から漏れる。途切れることのないその赤に目が眩んでしまいそうだ。

 背後からは未だ止まない空襲の、ビルが倒壊する爆撃音が鳴り響いていた。かつては医療センターとして使われていたここも、見上げれば砂埃が舞うばかりの石岩が積み重なるただの瓦礫だ。砂漠地帯に構えた建物独特の黄色いその壁は崩れて、寄りかかるのがようやくある程の小さな衝立になってしまっていた。

 突如始まったこの爆撃は、人々を多く惑わせていた。目の前では絶望と空虚に呆然とする人があてもなく走り、叫び、そして座り込んでいる。布を頭部に巻いてその表情をうかがい知ることは難しかったが、俯いて己の体を抱きしめ震える女性の、その目線の先を追うことが恐ろしかった。瓦礫の下に少しだけ見える小さな手足は、今後もう二度と太陽の下で駆けることはない。

 この世界の人口を鑑みればほんの一握りであろう目の前の人たちも救うことができない私はなんて無力なのだろうか。腕の中の、ただ一人すらこれから喪おうとしている。


 「ねぇ、」


 消え入りそうな声だ。

 元々女性にしては低めの、度量のある声をしていた。それが今、乾いた唇で震わすその音は聞き慣れた私でさえ搔き消えそうに感じた。


 「私、あんたに会えて幸せだったわ」


 彼女はこほりと咳を交えて笑った。そんな、最期のような言葉はやめて欲しい。そういつものように一笑に付してしまうことすら今の私にはできない。腹に置いている手に力を込めて、銃器を扱い肉刺跡が残る細い指を握った。今こうして触れ合っている筈なのに、少しずつ薄れていく彼女の存在を、現実を受け入れたくなくて首を振る。嫌だ、とまるで聞き分けのない子供のように言漏らせば、馬鹿だなぁとまた笑われた。


 「私はさ……、帰っても独り身だからさ。でも、あんたは違う。……まだ生きてる親がいて、兄弟がいて、仲が悪くたって家族がいるんだ。あんたが何を選ぶかは自由だけどさ、よく考えなよ」


 今までの自分を、思い返してみなよ。


 私はたくさん貰ったからもう十分だと、そう目尻に溜めた雫をこぼして彼女は瞳を閉じる。ゆっくりと失われていく体温に、まるで自分一人がこの時間に残される錯覚に陥ってしまう。そうだ、私はきっと始めから迷子のようだった。この世界に足を踏み入れたのも、行くあてもなく彷徨って、そうして彼女に出会ってきっと手を引いて貰っていただけだった。


 「嫌だ、リョウコ……」


 どうにかしても目の前で泣くまいと強く心していたが、遂には思い溢れて願いは叶わなかった。ポロポロと落ちるその様は、まるで大粒の雨が降り注ぐようだった。

 彼女の頬をも伝うそれを本人は少しだけ鬱陶しそうに拭うと、腹に置いていた手を持ち上げて私の頬へと添える。導かれるままに顔を寄せれば、乾いた唇からは彼女が愛飲している煙草の香りがした。


 「どうか、幸せに、ソウイチロウ……」


 それは、出会ってから今までで見た一番綺麗な笑顔だったかのように思う。

 ただひたすら穏やかに、瞳を閉じて、微笑みを浮かべて、そうして力なく地に落ちた手は彼女の絶命を伝えていた。

 その現実が受け入れ難く、私は無様に彼女の名を何度も叫ぶ。落ちた手を拾い上げて、腹の傷を必死で抑えて、もう一度「馬鹿だ」とこちらを見て笑ってくれることを期待して、ひたすらにもういない人の名を連ねる。けれど何度私が呼びかけても、再びあの声が返ってくることはなかった。

 それがどれほどの時間だったのかは分からない。一日近くあったかも知れないし、たった数十分の間だったかも知れない。動かなくなってしまった恋人を抱き締め、脱け殻同然にへたりこんでいた私が我に返った頃には、街は静けさを取り戻していた。舞っていた砂埃は一時的に冴え、空は本来の青さを湛えている。

 傾いた日が、眩しい。

 辺りは惨憺たる有様で、幾度となく見てきた光景の筈なのに、今の私には直視することはできそうになかった。きっと明日も、その次の日も、私は彼女を思って泣いているのだろう。そんな背中を叩いて笑ってくれる人はもういない。

 ようやく来た応援の、仲間の声にも反応はせず、私はもう一度だけ彼女に頬を寄せた。君に会えて良かったと、今はまだ口にできそうにはない。

 まるでその様を咎めるかのように、風が眼前に苦い香りを吹き上げて、そうしてそれは空高く昇っていってしまったようだった。








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