梟の木

文月六日

第1話 夜明け前


 始発電車が来る前のホームは、とても寒々としていた。

 社会人になりこの街に越してから早七年。けれど、思い返せば今まで一度もこの時間に駅に訪れたことはない。階段を降りて、三番ホーム。電光掲示板では赤く“始発”と強調された出発予定時刻を五時十二分と掲示している。今はまだ、時計の長針は五分をまわったばかりだった。


 (少し、早かったかな)


 自分以外に人が見えないせいか、そこまで早く着いたつもりはなくともどこか物寂しい。閑散としたホームを歩けば自分の足音ばかりが鳴り響いて、それがまた心の空虚を掻き広げているようだった。

 吐く息は、白い。

 春はまだ指の届かぬ先でくすぶっている。どうして冬というのはこうも人を恋しくさせるのだろうか。昨日まで一週間、急遽貰った休みに実家へ戻っていたという理由だけではなく、今の自分は地に足が着いていなかった。まだ朝早く、眠いせいもあるかもしれない。

 せめて気持ちばかりでも、と目の前にこじんまりと設置されたガラス張りの待合室へ足を急ぐ。虚無感を埋められなくとも、物理的に暖をとれば心持ちも変わるはずだった。今の時刻は五時七分、温かい缶コーヒーくらいは嗜めるだろうか。そう思って無機質な自動ドアをくぐろうとした矢先、パァーッと空気を裂くような警笛が鳴り響く。

 驚いて振り返ればそこには赤いラインが特徴の車両がホームへ到着したところだった。始発、だからだろうか。いつもよりも駅入りが早いようだ。この駅は線区の終点では無いので、普段であれば出発時刻と同時に来るのが常だった。

 しかし、見たところ随分と年季の入った列車のようだ。ガガッと鈍い音を立てて金属の一枚扉が開き、中から目深につば付き帽を被った車掌が片足を下ろす。


 「次は、きさらぎ駅です」


 低い、けれどよく通る声だった。

 帽子を深く被っているためにその表情は分からないが、なんとなく、歳は同じくらいのように感じる。外は寒いしもう列車に乗ってしまおうか。そう思って足を踏み出すが、そこでひとつ疑問が過ぎった。


 ーー果たしてここの隣駅は、きさらぎ駅だっただろうか。


 物理的な寒さではなく、背中に悪寒が駆け抜ける。

 普段は急行に乗ってばかりなので各停や始発電車の次停車駅はあまり気にしてはいないが、それでも七年ずっと同じ駅を利用しているのだ。例えばそれが数駅離れたところだとしても、この沿線であれば知らないはずがなかった。そもそも、このご時世に運転席でもなく車掌が乗っていることだっておかしいのだ。慌てて停まっている車両を見なおすと、いかにも古めかしい姿をしているその上部に記されているはずの終着駅名は擦れて読めない。それがまた奇妙さに拍車をかけていた。

 ホームに片足を下ろした車掌は口を真一文字に結んだまま、以降一言も喋らない。おそるおそる車窓の向こう側を覗けば、中の乗客が三人ほど座っているのが見えた。皆一様に首を下に傾げて寝ているようだ。


 (あ……)


 まじまじと見すぎたかもしれない。三人のうち一人、グレーのスーツにトレンチコートを羽織った中年男性と目が合う。曇った窓を挟んで遠く、その男性とは少なからず距離があった。にも関わらず、その瞳は黒く、そして底が見えないほどに深い。深く、深く、吸い込まれそうになる。

 じわり、と思考が滲む。


 (……乗っても、良いだろうか)


 きさらぎ駅、という場所は知らない。ホームには自分しかおらず、時代がかった列車がひとつ、目の前で呼吸をしているばかりだった。何もかもが奇妙で、理解の範疇を超えているのだ。それでも懐かしさを感じるのは、もしかしたら先ほど目の合った男性が、先日亡き者となった父の在りし日の顔に似ていたからかも知れない。

 車掌が左手を持ち上げ、白い手袋の下に隠れた時計を確認したようだった。そろそろ出発してしまうのだろうか。ならば急がなければ。着ている黒いウールコートを前で手繰り寄せ寒さに首をすぼめる。きっと中に入れば暖かいはずだと、乗車するべく足を一歩、出したところだった。


 「にゃー……」

 「……猫?」


 上げた足元、全く気付かなかった。いつの間に入り込んだのだろうか、一匹の黒い猫がこちらを見上げていた。飼い猫だろう、随分と毛並みが良い。ベルベットのような身体と金に輝く瞳が印象的で、このままだとその柔体に足を踏み下ろしてしまうと一度引いて戻すと同時、グニャリと視界が歪む。


 「にゃあ」


 もう一度、鈴のような声で猫が鳴く。

 ゆらりゆらりと視界は揺れて、突如刺すような光束に目を塞いだ。








 「おや、いらっしゃい」


 発光は一瞬だった。

 チリンーー、と確かな金属でできた鈴の音が一度だけ鳴る。

 当然に驚いて何度も瞬きをするが、目の前は古めかしい私鉄電車、ではなく茶色の木肌がそのままの壁が印象的な雰囲気の良い小洒落た喫茶店だった。先の鈴は来店を示すものだったのだろうか。まだ日も明けてない暗いホームに立っていたはずの自分は今、入口の扉を背にして赤い玄関マット上に佇んでいる。

 一体何が起こったのかついていけずに辺りを見回す。そこは数席備えたカウンターと、小さな二人席用のテーブルが四つ店内に並ぶ、幾分かこじんまりとした作りをしていた。温かいオレンジ色の照明がまた良い味を出していて、喫茶店、というよりはその内装は個人バーに近いかもしれない。

 カウンターの向こうには、来店の時に声を掛けてきたであろう店主が一人立っていた。深緑の縁眼鏡と同色のニットベストを纏った男の頭髪は、歳を重ねて白く輝いている。綺麗に櫛で整えられて見た目に気をつかっているのが分かる、老紳士とは彼のような人のことを言うのだろう。その経験の数だけ刻まれたような深い皺を更に濃くして、人当たりの良い柔和な笑顔をたたえていた。


 「ご新規さんとは珍しい。まだ先ほど店を開けたばかりなので簡単なものしか出せませんが、まあ、どうぞこちらへ」

 「はあ、あの、」


 電車に乗ろうとしていたんですけど。

 そう口に出すのは憚られた。当たり前に喫茶店に入って席に促されて、おかしいのはこの状況の筈なのに、まるで自身が気をやってしまったかのようだ。寧ろ、今まで駅にいたことが夢だと言われた方が納得できるような。


 「まあまあ、どうぞ。はて、しかしどのようにこちらへ」

 「いや、あの、ですね。可笑しな話なんです。ですが、あの、猫が……」


 老紳士、もとい店主が促すままカウンター席に座ると、彼は「ははあ」と豊かな眉を下げて笑った。


 「金の瞳の」

 「そうです、金眼の」

 「黒い猫だ」

 「そうなんです」

 「ふふふ、彼女気まぐれなんですよ」


 なんだか随分と楽しそうに笑って、良かったですね、と付け加えられた。何がだろうと首を傾げる間も無く、サービスだと一杯のコーヒーを差し出される。白い陶磁肌に紺と金のラインが入った、華美ではなく品の良いカップだ。白い湯気がゆらりと誘うように揺れる。

 鼻を寄せてひとつ息を吸えば、思わずこぼれるようなため息が漏れた。飲まなくても、分かる。普段はインスタントや安いコンビニのものしか買わないが、それでも目の前で湯気を立てるそれのいかに薫り高いことだろうか。鼻を抜けるローストの芳ばしい香りは頭の先まで突き抜けるようで、惹かれるままに一口つければぶわりと果実のような酸味と豊かな苦味が拡がった。


 「美味しい……」

 「それは良かったです」


 私のオリジナルブレンドなんですよ、と彼は濃紺のマグカップを傾けて言った。続けて、目も覚めることでしょうと瞳を細めてこちらを見やる。

 その言葉にハッとカップを持つ手に力を込めた。一体どこからどこまでが現実なのだろう。これは夢なのか、と思わず口からこぼせば店主はいたずらっぽく笑って首を振った。


 「いいえ、ここは実在する場所ですよ。“梟の木”という私が切り盛りを任されている喫茶店です。辺鄙な場所にあるので、一見さんが訪れる事は少ないですがね」

 

 辺鄙な場所、というのは果たして駅のホームに隣接している(と言うのが正しいのかも最早分からない)ことだろうか。そもそも家に帰れるかどうかすら怪しい今の状況に不安は押し寄せる一方だった。動転していた気が落ち着いて、冷静に考える余裕が出てきたからかもしれない。

 けれど、悪い人では無さそうなのだ、と再びコーヒーカップを傾けながら目の前の老君を覗き見た。変わらず彼は穏やかな顔を崩すことなく、今はコーヒー豆を挽いていた。その手つきは当たり前に手馴れていて、彼が長い間この職に携わってきたことが分かる。


 チン。


 そしてささやかに軽やかなオーブンの音が店奥から聞こえた。いい具合ですね、と店主は言い残してカウンターからいそいそと出ると再び白い紙袋を手にして戻ってくる。


 「そろそろ時計が動く頃ですからもうお行きなさいな。あなたが何を選ぶかは自由ですが、どうぞよく考えてください。今までのご自身を、どうか思い返してみてくださいね」


 そうすれば自ずと答えは見えるはずです。そう皺を深くして笑った店主はおみやげだと白い紙袋を寄越しながら言った。中を覗くと温かなパンがひとつと紙製のコーヒカップが見える。


 「当店自慢のデニッシュです。常連の方は皆さん召し上がるのですぐ無くなるのですよ。どうぞ焼きたてのうちに」

 「あの、お代は」

 「結構ですよ、どうやら彼女のお誘いだったようですから」

 「しかし、」

 「ほら遅れてしまいます。もしご縁がありましたら、どうぞまたいらしてくださいな」


 そうだ、会社に向かわなくては。本来の自分の立場を思い出して眉をひそめる。相変わらず笑顔の店主はひとつだけ頷いて出入り口を指し示した。感謝と申し訳なさとが織り交ぜて一杯な気持ちで、またここに来た時に改めてお礼をと深く頭を下げる。

 そうして木でできた重い扉を押すと、わっと光が視界一面に飛び込んでくる。その眩しさに耐えきれず、片手で顔を隠しながら思わず目をきつく閉じた。









 「乗らないんですか」


 声を掛けられ目を開けるとそこは、再び寒さを抱いた人のいない三番線ホームだった。電光掲示板を見ると時刻は変わらず五時七分で、温まった指先を動かしながらはてと思う。口の中には芳醇なコーヒーの味がまだ広がっていた。

 足元に猫は、もういない。


 「乗らないんですか」


 赤いラインが特徴的な、年季の入った車両から片足を下ろして車掌が再度尋ねてくる。白い手袋をはめた右手はつば付き帽に添えられていて、目深に被っているためここからではその目は捉えられなかった。

 目線をずらして車窓を覗けば、相変わらず窓は曇っていた。しかしどうしてだろう、もう少し中が見渡せたように思えたが、今では黒い影が動いて誰かが乗っていることしか分からない。正確には、どうにもその姿を認識できない、というのが正しいように思えた。

 それでも行かなくてはいけないような気がする。大切な人を、待たせているような。そう脳を侵食されるようにジワリと思考が滲む、その最中、目が醒めるような芳ばしい香りが鼻をくすぐった。


 「あ……」


 右手に抱えていたのは小さな白い紙袋だ。持ち帰り用の紙コップと、まだ温かいデニッシュがひとつ。袋の間口を小さく広げれば、先ほどまで嗜んだコーヒーと焼きたてだというバターの香りが顔前で広がった。

 『どうか思い返してみてくださいね』

 そう年配の彼は目尻の皺を深くして言っていた。きっとその姿からだけでは見えぬ苦労を背負ったような、そんな重みのある言葉だった。


 「……私は、行けません」


 次はきさらぎ駅だという、その電車の終点を私は知らない。惹かれるままに足を向ければ、もしかしたらこの寂寥は癒されるのかもしれない。けれども。


 「私は、そこには行けません」


 聞き入れて貰えたのだろうか。車掌はつば付き帽から手を離し、こちらを見据えたまま後ろ足で車両に乗り込んだ。未だに顔はよく見えないまま、しかし無表情ながらも残念そうだということが、なぜだか分かるようだった。

 古めかしい、言い換えればどこか懐かしい、そんな重々しい音を鳴らして車体が億劫そうに動き出した。そこに、私は乗っていない。人のいない三番線ホームに突っ立って、鈍いオレンジ色のライトが小さくなるのを見送っていた。

 アナログ表記の時計が五時八分を指し示す時、疎らではあるものの始発に乗るべくこの無人ホームにも人が増えてきて、その時初めてこの場がいつもと同じ場所であることを思い出す。そうだ、私は会社に向かうために電車に乗るのだと。

 袋に入ったままの保温処理が施された紙コップを取り出して一口傾ける。また、あの喫茶店に行けたらとは思うが、それもきっと難しいのだろうと理屈ではなく理解をしていた。


 いつもの見慣れた私鉄車両が駅に入ってくる。今度こそ間違えず、暖房の効いた車内に足を乗せる。相変わらず人は疎らだったが、それでも見知ったそれであった。

 今はまだ外は暗いが、しばらく走れば朝日が覗くだろう。それまでは、まだ少し、夢現に微睡んでいよう思う。


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