第2話 喉が渇いて死にそうだ
俺は今、とてつもなく喉が渇いていた。
もし今の状態で乾パンなんて食べたら、きっと摩擦で喉がすりきれてしまうだろう。
しかし、なんだって最近こう喉が渇くんだ?
まさか…この俺様が病気だなんてことはないよな…?
それにしても、もうすぐ夕方だってのに暑いな。 今日の最高気温は一体何度まで上がったのだろう。
その時ふと、気が付いた。
そうか。 夏だから喉が渇くのか!
なんだ、そういうことだったか。 くそ…驚かせやがって…。 糖尿病の初期症状かと焦っていた自分が馬鹿みたいじゃねぇか。 まぁ、とにかく原因がわかって一安心だぜ。 そんじゃ、そろそろ喉を潤しに行くとするか。
俺は帽子を深くかぶり直すと、木の上からジャンプし、いつもの様に空中で華麗に一回転しながら地面へと着地した。
別に誰も見ちゃいないんだが、つい癖でこういう下り方になっちまうんだよな…ハハ…。
さて、と。今日はどの娘を襲おうか。
バウム村のレモーネもなかなかよかったが、エクレア町のショコラやロール町のピーチも捨てがたいし…。 みんなEカップ以上のナイスバディだから迷っちまうぜ、畜生。
しかし昨夜の アレはまずかったな…。 アレは俺の人生で最大の失敗だった。 話せば長くなるので簡潔に説明するが、昨夜俺はシャルロットタウンのマスカット嬢を襲った。
あの巻き毛の娘は実に最高だった。 目がくりっとしてて、胸なんかスイカみたいにでかくて――――いや、こんなことはどうでもいいんだ。
そう、俺はマスカット嬢を存分に味わったあと、二階の窓から飛び降りたんだ。 しかし、タイミングが悪すぎた。
ちょうど帰宅したマスカットの父親と鉢合わせしてしまったのだ。
俺がマスカットを襲ったのだと、奴はすぐに気付いた。 しかも、俺は奴に顔を見られている。
これは今朝の朝刊を拾い読みして知ったのだが、マスカットはド偉い公爵の一人娘だったらしい。 つまりあの父親はド偉い公爵様なのだ。 そしてその新聞にはとんでもないことが書かれてあった。
なんとあのオヤジ、この俺様の首に一億
あのオヤジは、頭がイカれてるんじゃないか…?
別に俺はマスカットを殺したわけでも手籠めにしたわけでもねぇのに、奴はなんで大金払ってまで俺を抹殺したいんだか。
ほんのちょっと血を頂いただけだってのによ…。
まぁ、銃持った人間が束になってかかってきたところで、簡単に殺られるような俺様じゃないけどな。 もしそうなったら返り討ちにしてやるぜ。
鬱蒼とした森の中を闊歩しながら、俺はにやりとほくそ笑んだ。
辺りは、恐ろしく静かだった。
森の生き物たちが、俺の姿を見て息を潜めているのだ。
それは、植物だって例外ではない。 森に棲む全ての生き物が、吸血鬼である俺を恐れている。
一体、やつらは何を恐れているんだろうな。 俺は若くてグラマーな女しか襲わねぇのにな…。
それにこっちとしちゃ、同じ森に棲む仲間同士仲良くしたいと思ってるってのに、マダニ一匹たりとも近付いてきやしない。
「む…?」
閑散とした森の中に、一つの小さな気配を感じ、俺は全神経を研ぎ澄ませた。
うーむ…。この距離からじゃ魔物か動物かもわからんな…。
しかしこの俺様が森を歩いているっていうのに、気配を消さずに呑気に散歩している奴がいるなんてな。 信じられん。 ひょっとして、俺に気付かないほど鈍感な奴か?
「ふっ…面白い。どんな奴かこの目で確かめてやる」
俺は地面を思い切り蹴って駆け出した。
――――おっ…近付いてきたぞ…。 む…?この気配は…! 若い人間の女…?
俺はつい半年前にこの森に移住したばかりだが、若い娘が近くに住んでいるとは知らなかったな。
よーし…。 町に移動する手間も省けるし、今日の餌食はあれにしよう。 どんな血の味の娘なのか楽しみだぜ…。 おっといけねぇ…よだれが出てきちまった…。 ハンカチ、ハンカチっと…。
俺はロングコートのポケットから絹のハンカチを取り出し、丁寧に口周りを拭った。
「これでよし、と…。あれっ…?」
娘の気配が消えた…? くそっ!気付かれたか! だが逃がさんぞ!
俺はすぐさま醜い吸血鬼の姿へと変身した。
「身軽な駿足娘のようだから、こっちも本気モードで行かせてもらうぜ。待ってな…お嬢ちゃん」
俺は勢いよく大木の天辺へと飛び乗り、森全体を見渡した。
ああ、いたいた…。あの三つ編みのチビがそうだな。 息を切らしながら懸命に俺から逃れようと走ってやがるぜ…。 いじらしいねぇ…。 見たところ、胸も真っ平らだし、まだ育ち盛りの小娘ってところか。 ガキを襲う趣味はないが、もう喉がカラカラで干からびそうだし仕方ねぇ。それに…よく見たら可愛い顔だしな。
おっ。ついに力尽きたみたいだな。 しかし、なぜだ…?勝ち誇ったような表情を浮かべてやがる。ああ、そうか。離れているから俺の気配を感じないのか。 あのチビ、俺から上手く逃げ切れたと思っているんだ。
「ふん…馬鹿め。人間ごときが吸血鬼から逃げられるわけがなかろう」
俺は蔑みの言葉を吐き、大木の天辺から娘のいる場所へ向かって勢いよく
さすがに気付いたようだな。 しかし、もう遅い。
俺は娘の柔らかい両肩をむんずとつかんだ。
「チェックメイトだ」
低くそう呟き、ゆっくりと白い首筋に顔を近づける。
ところが、牙の先端が首筋に当たったその時、俺はある異変に気付いた。
娘の様子がどうもおかしい。
何やらぶつぶつと念仏のようなものを唱えているし、手には高級なクッキーでも入っていそうな洒落たデザインの箱を持っている。
クッキーなんかで俺が満足して帰るとでも思っているのか…? ハッ!片腹痛いわ!
あまりの可笑しさに、俺は天を仰ぎながら高笑いした。
「ハーッハッハッハッハ!!」
しかし、笑っていられたのはほんの一瞬だけだった。
俺は、完全に油断していたのだ。
次の瞬間、今まで味わったことがないほどの苦しみに襲われた。
娘は俺の手の中からスルリと抜け出し、薄紫のスカートを翻しながらこちらを振り返った。
純真な菫色の瞳が勝ち誇ったようにキラリと光る。
「形勢逆転!観念なさい、化け物!」
娘に杖を突き付けられ、俺はようやく気がついた。
――――この娘…魔術師だ…!
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