第54話四日目、昼ー2

 宿舎から商会の本館へと続く地下研究区画を、ルカリオは足早に駆け抜ける。


 時間は貴重だし、それとは別に精神衛生上の問題からも、ルカリオは早く通り抜けたかった。


 というのも、大学の図書室に閉じ込められて危うく窒息死しかけたのはつい昨日のことだ。狭い場所、地下という空間に好印象を持つには、相手の悪いところしか目にしていないのである。


 不安が、更に廊下を狭く見せていた。


 魔術師の居城【マレフィセント】でもなし、勝手に動く壁なんて調度品は、現実と堅実を旨とする錬金術師の穴蔵には実装されていない。

 だから、押し潰すような圧迫感の源は、廊下の壁ではなく自分の心の内に過ぎないということくらいは、ルカリオは自覚している。なるほど確かに殺人者はしくじった。しかし、諦めた訳じゃない。


 姿の見えない殺人者の影は、ルカリオの精神を急速に蝕んでいる。気を紛らせるために、ルカリオは口を開いた。


「シムチエールは商会の地下二階にあります。詰まりこの連絡通路の先から、更に下に降りる必要があるんです」

「観光地ではなさそうですが」

 頼れる同行者の声が、彼女に冷静さを取り戻させた。「気軽に入れるものなのですか?」


 黒髪の司教の、穏やかな物腰を思い浮かべることで、ルカリオはかなり落ち着くことができた。

 狭苦しい廊下を駆けるのが一人ではないという単純な事実が、慣れない残酷な事件に苦しむ少女には何より有り難い援助であった。


「いいえ、ネロ司教。入るには、鍵が要ります」

「鍵ですか」

 司教様の声は、ルカリオを気遣うようにゆっくりとしている。「またしても鍵探しというわけですか?」

「昨夜の鍵よりは、見付けやすいと思います、単純な錠前ですから」

「錠前、ですか」


 ネロ司教の雰囲気に何やら変化を感じ取り、ルカリオは振り返った。

 非礼でない程度の距離を開けてついてくる司教様は、走りながら眉を寄せ、考えるような表情を浮かべている。


「ネロ司教?」

「……ルカリオ、お聞きしたいのですが。我々は急ぐ必要がありますよね?」

「は、はい」

 何を考えているのだろうか。解らないままに、ルカリオは頷いた。

「そうですよね」

 重々しく、ネロも頷いた。「では、もう一つお聞きしても良いですか?」


 ネロ・エリクィンとの付き合いがまだ浅いルカリオには、彼のを推し量ることができなかった。

 もしシンジであれば、気が付くことができただろう――或いは、予想することができただろう。


 彼は知っていて、ルカリオは知らない。

 ネロが、


 ネロは穏やかに微笑みながら、こう尋ねた。


「その錠前は魔術的な封印でもなく、?」









「ふっ……!」


 鋭い呼気の後、ネロは腕を強く引いた。

 右腕の先には右手があり、右手にはドアノブが握られていた。ドアノブはドアと離れることはできず、ドアは結局、壁と離れることになった。


「開きましたね、良かった」

「ちょ、は、えぇぇぇっ!?」


 心底安堵した様子でホッと胸を撫で下ろすネロと、彼が片手で持つ鋼鉄製のドアを交互に見ながら、ルカリオは悲鳴をあげた。


 考えがある、というネロ司教を地下へと続くドアの前に案内した直後の出来事だった。

 細身の青年司教は何かを確かめるように数回ドアを撫でて、それからルカリオに、辺りを見張っているよう頼んだ。少女は大人しく従いドアから目を離し、がごん、という物音に振り返ると、そう。

 ドアは開いていたのだった。そして二度と閉まることはないだろう。


 慎重に、ネロ司教は引きちぎったドアを壁に立て掛けた。それから、目を丸くして自分を見詰めるルカリオの顔を不思議そうに見て、首を傾げた。


「どうかしましたか、ルカリオ?」


 勿論どうかしましたけれど。

 大きく口を開けたドアの跡、最早ノブの付いた鉄板と化したドア、そしてネロ司教のことを順繰りに眺めてから、黙って首を振った。

 ドアを片手で引きちぎるヒトに、いったいどんな言葉をかければ良いというのか?


「それでは急ぎましょう、ルカリオ」


 ネロ司教は言うと、さっさとドアをくぐっていく。ルカリオはため息を吐くと、【頼りになる】という評価の度合いがいささか変わってきたその背中を、足早に追い掛けていった。









「ここは、旧聖堂だ」

 袖口から取り出した鍵を差し込みながら、スフレ司教は説明した。「かなり初期に作られたせいか、老朽化が酷くてね。手狭でもあったし、五年ほど前に建て替えたのだ」


 言われて見上げると確かに、遠目からは純白に見えた壁にはヒビや汚れが目立つ。

 鉄製のドアも錆が浮かんでいて、鍵穴に押し込んだ鍵を回すのに司教はかなり苦労しているようだった。

 シンジは、金属に特化した自身の魔術で開けようかと思ったが、止めておいた。異端審問官との関係は昔ほど殺伐としてはいないが、誰にでも個人的な領分というものはある。


 何度目かの試行で、ドアは甲高い鳴き声をあげながらもどうにか開いた。

 途端、埃の匂いが顔面に飛びかかってきて、シンジは思わず咳き込んだ。


「酷いものだろう?」

 シンジの様子に軽く笑うと、スフレ司教は肩を竦めた。「新しいものにヒトが集まれば、古いものは忘れ去られるものだ」

「……ヒトは身近な過去ほど忘れやすいものですから」

 顔をしかめながら、シンジは言った。「逆に遠い過去ほど、しっかりと覚えているものです。自分が生まれていない、遥か昔の歴史とか」

「神話もそうだな。最も、神の物語を覚えさせるために、宗教はあるわけだが」


 スフレ司教が促すのに従って、シンジはドアの隙間から内部へと踏み込んだ。


 埃の爆発は、ドアを開けたことでどうにか落ち着いたらしい。

 それでも空気は爽やかとは言えず、シンジはそっとハンカチを口に当てると、布地に魔力を通した。得意な魔術ではないが、空気の成分を操作することでどうにか、シンジは真っ当な空気を確保することができた。


 スフレ司教は、慣れているようだった。


 過去の香りに満ちた空気をものともせずに、颯爽と進んでいく。

 シンジも、慎重な足取りでそのあとを追った。一歩毎に床板が不気味に軋み、降り積もった分厚い埃が浮き上がる。

 歳月ヒトを待たずとはいうが、神の家だって永遠に待ち続けることはできない。


「来たまえ、こっちだ」


 老齢に見合わぬ速度で、スフレ司教は奥の祭壇にまで辿り着いていた。

 シンジもできる限り急いで彼の後を追い。


「これは……」


 息を、飲んだ。


 ちょうど良い時間だったのだろう。祭壇奥の壁にあしらわれたステンドガラスに、昼の日差しが射し込んでいる。

 聖典の一場面を描いたらしい、黄色を主体とした美しいガラスを通過した光は、彩りと柔らかさを得て祭壇に降り注ぐ。

 忘却の象徴であった埃は舞い上がり、光の帯に照らし出されて身軽な踊り子に華麗な変身を遂げていた。くるくるふわふわ、重力を感じさせない極小のサーカスに、シンジは一瞬見入ってしまった程だ。


「……君の相談に乗るというのは、正直に言うと方便だった」

 同じように祭壇での光のショーを見ていたスフレ司教は、静かに口を開いた。「この時間、この光を見るのが、私たちは好きだった」

「私?」

「あの絵を見れば、解るだろう? 【光に伏す人々】。天才レウム・R・ドルナツ氏の作品だ」


 シンジも勿論気付いていた。

 天使が掲げる一冊の本。そこから放たれる黄色い光が民衆を平伏させているのだが、その天使の生き生きとした描き方に見覚えがあった。

 レウム・R・ドルナツ。現代の天才。単なる絵画から彫刻、書籍、幼児向けの玩具に至るまで、ありとあらゆる創作活動にその圧倒的な才覚を発揮し続けている。

【マレフィセント】の魔術師たちにもファンは多いのだが、彼または彼女の素顔を見た者は居ないという、謎めいた天才である。


 改めて、シンジはステンドグラスを見上げた。

 利用者をハッピーに。そんな信条を掲げている大天才の描いた天使は、光で人々を幸せにしようとしているのだろう。

 それを、ヒトを幸福にする光の絵を、見るのが好きだった人物とは。


「五光と、今では呼ばれている」

「ルミアレス商会の、トップの四人ですね」


 今では、残りは二人だ。


「やはり、司教と彼らとの間には関係があったのですね」

「まあ、無関係には見えないだろうな。彼らと私は、友人関係にあったのだ」


 スフレ司教は祭壇から離れると、長椅子に腰を下ろした。

 シンジも、その隣に腰を下ろす。埃のことを気にするような場面では、多分ないだろう。


「私は若く、彼らも同じく若かった。私は聖典の専門家として、彼らの研究にアドバイスをしていたのだ」

「神の奇跡を再現する研究に、ですか?」

「この町では、珍しいことではない。奇跡のために錬金術師は神を深く知るようになるし、そのは神の威光に彩りを添える」


 なるほど、とシンジは頷いた。

 奇跡の再現など、現実には不可能だ。

 彼らは不可能に挑み、やがて敗北する。約束された敗北の末に道を見失った錬金術師を救うことで、教会は彼らに信仰を与えてきたのだろう。


 そう、出来る筈がなかった。今までは。


 シンジの言わんとするところを察したのか、スフレ司教は深くため息を吐いた。

 埃の躍りが、激しさを増す。


「イカロスたちは、優秀だった。未熟な私に比べて、随分と若い内にそれぞれの分野を極めつつあった」

 無意識だろうか、老人の手がシワだらけの頬を軽く撫でた。「だからだろうな、彼らは無謀な冒険に踏み出した」

「しかし、彼らにとっては無謀ではなかったようですね」

「ふ、流石は教授、というべきかな? どうやら彼らの研究の結末に辿り着いたらしい」

「ということは、貴方もご存じだったのですか」

「君ほど正確にではないがね。何しろ、名前さえ知らなかった」


 だが、とスフレ司教は言いたいようだった。

 光というキーワード、そしてこの絵画を彼らが好んでいたことを考えれば、正体に辿り着くことは難しくなかったのだろう。


 或いは、彼らから何か聞いていたのかもしれない。

 必要であったとはいえ、あれほど大切に十字架を持ち歩く人々だ。神の僕たるスフレ司教に何らかの相談をしていても不思議じゃないだろう。


 だとしたら。

 それほど信頼し合った彼らが、今ではまるで正反対の態度を示しあっている。

 その理由と事件との間に、シンジは予感めいたものを感じた。


「……貴方たちに、何があったのですか?」

「お察しの通りだよ……私たちの友情に変化が生じたのは、二十年前の事件が切っ掛けだ」


 二十年前。

 クォーツ夫婦が街に殺された年。

 そして――ファビウム。ルカリオの父。


 シンジの脳内で緩やかな縁を結んでいた事実が、今、静かに絡み始めていた。


「クォーツ夫婦の死、その直接の原因は勿論先代の異端審問官だが。

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