第52話四日目、朝ー5
シンジが差し出した手を、エングレオ氏はじっと見詰めている。
その瞳に迷いの気配を感じて、シンジはそっと唇を湿らせた。
説得がうまく運べば、事件は解決とはいかなくとも、犯人の目的をほぼ完全に打ち砕くことが出来る――【
「既に、僕たちはルカリオの十字架を手にしています。犯人の言葉を信用するのなら、貴方たちが作った十字架は五つ。当然ながら犯人は、ここまでの犠牲者の十字架を奪い取っているでしょうから、二つ手にしている筈です。
エングレオさん、ここで貴方の十字架を渡してもらえれば、犯人と同数になる。相手のアドバンテージを一つ潰すことが出来ます」
「…………」
「エングレオさん!」
「君は……」
エングレオ氏が、迷う素振りのままで口を開いた。「【
ここだ、とシンジは確信した。
ここが分岐点だ。
今回の事件の影に例えば運命なんて名前の大層な、大袈裟な一つの流れがあったとして。それは危険な勢いで破滅的な終わりへと向かっているが、しかし。
それを曲げ、ねじ曲げて、何もかもが壊れる終極を回避できるとしたのなら、この瞬間を除いて他にない。
ヒトは、歳月を経る度に頑なに成っていく。それぞれの過ごしてきた人生が、その人の船の舵を固めていくのだ。
凝り固まった舵では最早、運命という大河の流れに逆らうことは出来ない。外からの力で、無理矢理変えてやらない限り。
今が、その時だ。
「……【
僕は。
シンジは。
シンジ・カルヴァトスは。
魔術師シンジ・カルヴァトスは。
「………………」
「答えられん、か」
唇を強く噛み締めるシンジを、エングレオは静かに見詰めていた。
その視線を受けても尚、シンジの舌は何の言葉も発することが出来なかった。
光。
何代もの魔術師が研究に研究を重ねて、犠牲に犠牲を積み重ねて、夢の残骸を十に二重に積み重ねて。
「誰もが、夢を見た。生まれてからずっと――いや、魔術師として生まれ変わってからずっと」
けして届かない世界。
既に過ぎ去った時代。
今のような理詰めではない、願望をそのまま実現させる奇跡に満ちていた、神話の時代。
そこに手を伸ばすことだけを、魔術師は願い続けてきた。
そこに足をかけることだけを、魔術師は願い続けてきた。
そこに戻ることだけを、魔術師は願い続けてきたのだ。
光。
【
神の象徴である光を操ることの出来る、可能性。
神話の奇跡をヒトの手に委ねる、唯一の可能性。
それを、果たして魔術師はどうしたい。
それを、果たして魔術師シンジ・カルヴァトスはどうすればいい。
シンジは。
僕は。
「君は正しい」
エングレオ氏の言葉が、シンジを現実に呼び戻した。
彼の瞳にはこれまで見たことの無い穏やかさがあった。優しい風、穏やかな日差し。
シンジは失敗を悟った。シンジは彼の説得を、いや、自身の常識を破ることが出来なかったのだ。
「魔術師である以上、錬金術師としても、神秘の探求者であるのならば誰だって、【
十字架は、【
暗号を解読しながら、シンジはそのことに気が付いていた。光の屈折ということなら、十字架そのものに何らかの仕掛けが施してあるのだろうと予想できた。
その時、手元にはルカリオの十字架があった。
犯人の思惑を潰すのなら。
ただ単純に世界の平穏を維持することのみを考えるのなら、シンジはその時点で十字架を破壊するべきだった。
ヒトを殺してでも犯人が回収している物品を五体満足な状態のまま放置しておく必要など無い、手元にあるこれを壊しさえすれば、犯人の目的は永遠に果たされることはない。
そんな道理は、しかしシンジの手を動かすことはなかった。シンジは十字架をルカリオに返すと、彼女ごと最も信頼できる相手に託すことにしたのだ。
次善の策だった。
破壊を選択できないが故の、苦肉の策だ。
そんな葛藤の全てを見透かすように、エングレオ氏は深く頷いた。
「【
「再現不可能だということですか?」
「出来ない。けして、な」
だとすると。
シンジはため息を吐いた。
神の奇跡を損なわないためには、十字架を傷つけるわけにはいかないようだ。
「君が思う通りだ、魔術師殿。神を、その自然の楽園を再現するためには、これを、【
「犯人も、そう思っているでしょう」
「そして君もな、魔術師殿。……それを断言しないだけ、君は人間寄りの魔術師のようだ。それが長所か短所かは別にしても、少なくともこのような事態では信頼が出来ると思うよ」
言葉の後半は、憐憫を含んでいるように思えた。もしかしたら気のせいかもしれないし、それ以下の感情かもしれなかった。
確かなことはただ一つ。
事件の解決方法に【
あとは、正攻法しかないだろう。犯人を捕らえ、十字架を取り返す。【
少なくとも犯人には渡せない。それだけは確かだ。
微かな失望と共に、シンジはエングレオ氏の部屋を辞した。世界の平穏と魔術師の夢とを秤にかけたことを、恥じるように。
「…………」
シンジ・カルヴァトスが退出したドアを、エングレオはじっと見詰めていた。
そして、ほっと安堵の息を吐くと、隠し持っていた短刀を机に置く。神秘殺しの純銀に、刻んだ数個の呪文が青白く光っている。
魔術師対策の武器。あらゆる魔術を切り払うことの出来る代物で、全ての神秘の対抗策だ。
これを使うことが無くて、良かった。
あの若い魔術師は実に魔術師らしく、同時にとても、魔術師らしくなかった――【
そしてそれを、恥じていた。
犯人の思う通りにしないために、それを破壊することのできない自身を、魔術師らしくない人間らしい思考回路で悔しがっていた。
彼は――真っ当な人間だ。魔術師にしておくには、辛いほどに。
魔術師に最適な才能に、向かない魂が宿ってしまったようだ。そのどちらかが欠けていたのなら、シンジ・カルヴァトスはもっと楽な人生を歩むことが出来た筈だ。
偉大なる神は、最も過酷な道を彼に与えたもうたようだった。彼は悩み、苦しみながら、己の才能を活かさなければならない。
そしてどうやら、他の魔術師が持たないものを持ってしまった彼は、多くの錬金術師が持つものを、どうやら持っていないらしい。
「……彼には、信仰がない」
神秘と現実、才能と嗜好との間に大きな隔たりを持ってしまったシンジ・カルヴァトスには、その支えとなるべき柱がなかった。
精神的支柱、全能たる絶対者に自らを委ねることが、彼には出来ない。
それは何よりも厳しいことだ――彼に与えられた過酷の内、最も厳しい重荷だ。
この先彼は、何を支えに生きることになるのだろうか。魔術師としての常識か、ヒトとしての倫理観か。
「……?」
こんこん、という控えめなノックの音が、その時響いた。
首を傾げながらドアに近付いたエングレオの耳に、声が聞こえてくる。
「……エングレオさん」
「魔術師殿か?」
「えぇ。そうです」
聞こえてきた声は、ドアを隔てたことで少々くぐもってはいたが、ついさっき話していた相手のそれだ。
もしかして気でも変わったか。やはり十字架を手中に収めないと気が済まなくなったのか。
「どうしたのだ、忘れ物かね、魔術師殿」
「……えぇ、まあ」
ドアを開けた向こうで、シンジ・カルヴァトスが微笑んでいる。
その物腰にどこか違和感を感じる――だが、どこだ?
その疑惑にエングレオが気が付くより早く、シンジは左手を掲げた。
「忘れ物を戴きに参りました――二十年前の」
左手は、指先から糸がほどけるように変質し。
現れた肌は、淡く発光する幾何学模様に覆われている。
「貴様……っ」
驚愕と恐怖とに目を見開いたエングレオがそれ以上叫ぶより早く。
輝きが、彼を呑み込んだ。
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