第50話四日目、朝ー3
エングレオの瞳に何かを見定めるような気配が生まれたのを、シンジは見逃さなかった。
思わずシンジは、部屋内における自身の立ち位置を確認する。
背後、一歩で廊下に入れる。だがそこから外に出るためには、すれ違えないほど狭い廊下を走り抜け、その上で閉じたドアを開けなくてはならない。
エングレオがドアを閉じた瞬間を、シンジは思い起こしていた。彼は鍵を閉めたか? それとも単に、ノブを捻れば開く状態なのだろうか。
エングレオ氏が不自然に右手を背中に回している。彼の右手には、果たして何が握られているのだろうか。
狙われていると知りながら自分を部屋にあげた男が何の自衛策もとらないと、シンジは楽観することはできなかった。
シンジはため息を吐いた。
強行策は、避けた方が無難だろう。少なくとも、そうなるような話の流れは避けるべきだ。
「それで」
エングレオは穏便な会話を望んでいるとは思えない、厳しい視線をシンジに向けている。「何が解ったって?」
「……貴方方が隠そうとしていたもの、その正体に関してです」
心の中で
仕方がないだろう、とシンジは反論した。どう考えても、意見を戦わせる相手が穏やかに納めるつもりがないのだから。
もう始まっている。戦うしか道はない。
「【
「そうだ。そしてそれが、我々にとって重要であるということさえ、君は気付いているのだろう?」
「最早気付いていないヒトはいません。商会のトップファイブが狙われ、脅し文句にその単語が使われた時点で、誰もがそう思ったでしょう」
「だが君は、その先を見ているな」
「……【
故ファビウム氏が娘に遺した遺産を解読した時の、ネロの様子をシンジは思い出していた。「秩序神教会にとっても、かの光は重大な意味を持つようですね」
「『最後に光在り』、か」
驚いた顔を浮かべたシンジを、エングレオは一笑した。「錬金術師もまた、秩序神を信奉する者だよ。聖典の文句くらい、覚えているとも」
言われてみれば、確かに。
世界の創造の一週間、その最後の日に世界を光が覆った。秩序の神アズライトの放った神光は瞬く間に世界を巡り、光と闇――昼と夜とを分けた。
分ける、という行為は必然分類という行程を挟む。それは、学問にも繋がる行為。自然のまま、あるがままの混沌を、神の光は切り開いたのだ。
渾然一体としていた原初の世界にその時、秩序が生まれた。分ける、という行為にはそれだけの意味があるのだ。
神話において、秩序の担い手は相応の偉大さをもって語られる。聖典における最も派手な舞台だ。信者が知らないわけがない。
そうだとすると。
シンジの顔は、わずかに曇った。彼らの行いは――。
「冒涜、と言う他無いでしょう」
エリクィン司教の言葉に、ルカリオは目を伏せた。
教授の友人というネロ・エリクィン司教は、驚くことに異端審問官だという。神の名の下に異端者を狩る、血塗られた聖人だ。
古くは神を信じぬ者、或いは別な神を信じた者が、その手に掛かった。そして時代が移ると、その対象は変わった。他ならぬ、魔術師へと。
言うなれば、魔術師の大敵。
異端審問官は神にのみ許された奇跡を意のままに操る魔術師を狩り、そして、魔術師もまた、ただ狩られていたわけではない。彼らは互いに、自らの技をもって戦った。傷つけ合い、殺し、殺されたのだ。
更に時代は移った。
今では、魔術師たちはその大部分が自分達の空間へと引っ込み、気紛れにヒトの社会に技術を授けつつ、誰に迷惑をかけることもなく研究を続けている。
そして、異端審問官は――同じヒトを狩るようになった。
罪を犯した者を嗅ぎ分け、探し出し、そして捕らえる。その罪状が確かであるのなら、彼らの刃は罪深き者を殺す。
異端審問官は、犯罪者を捜査し、逮捕して、処刑する権限を持つようになった。
現在の人口の、八割は秩序神教徒だ。
であれば――彼らの殺す相手は。
時代の変遷とはいえ、何とも数奇な巡り合わせだと、ルカリオは思う。或いはそれも、カルヴァトス教授の人徳の為せる技だろうか。
「冒涜です」
エリクィン司教は繰り返した。「神の、それも原初の栄光を再現しようとは。神への畏敬の念を持ち合わせているとは思えない」
「で、でもでも!」
ルカリオは、思わず声を上げた。
彼女も、彼女の両親と同じように秩序神を信仰していた。父の人生を聞いた司教様が、彼を冒涜者と断じるのを黙っては聞けない。
「父さんは、いつも神様のことを思ってました! 母さんも……」
「だからこそ、それは冒涜と言われてしまうのですよ、ルカリオ嬢」
必死の訴えに慈悲に満ちた笑みを返しながら、エリクィン司教はしかし、首を振る。「神の名を知り、その偉業を知り、神を信じる者。そうした者が神の奇跡を盗もうとすることが、冒涜という罪となる。無知なる者には、神を貶めることなど出来ないのですから」
「でも……!」
その先に何の言葉も見付からず、ルカリオはただ唇を開いて閉じた。
開いて、閉じて。
閉じたらまた開いたが、結局、閉じるしかない。
だって。
父はもう死んでいるんだから。
父が、アルビレオ・ファビウムが何を思い、何を目指し、最終的に何を為したのか、自分は何も知らない。
自分の知る限り、父は常に神を敬い、ひれ伏していた。
歴史を学び、自然の奥深さに触れ、それらを創り出した神々を崇拝していた。日々の礼讚も欠かさず、手製の十字架を肌身離さず持ち歩いていた。
ルカリオ・ファビウムの見た父は、間違いなく神を信じる者だった。
では――神を尊重する者だったのだろうか?
答えは最早、神のみぞ知る、だ。
「……すみません、ルカリオ。貴女を責めるつもりはありませんでした」
「けれど、父を責めるつもりはあるんですよね?」
「御父上の人格を否定するつもりはありませんよ。ただ、彼の成した事は否定したくもなります。いえ、誤解を恐れずに言うのであれば、否定されなければならない」
「…………」
ルカリオはテーブルに置かれた【完本ヌース=ホルフ】を見下ろす。
解読した結果導き出された、父の研究結果。
その内容は確かに、寛大な神もお怒りになるような代物ではある。
「もしそうなら、司教様は――」
言いかけた疑問を、ルカリオは飲み込んだ。
彼女は、こう尋ねようと思ったのだ――もしそうなら、司教様は、父を殺しましたかと。
父は病死だった。誰かが手を下す前に、神が慈悲を下したのだろうか?
「……朝食をとりに行きましょうか、ルカリオ。何か食べて、温かい飲み物を飲めば、気分も変わるでしょう」
「……はい」
ルカリオは着替えのために寝室に戻る。
昨夜そのまま寝てしまったためシワだらけになったセーターを脱ぎ捨てると、下着の胸元で形見のロザリオが揺れた。
セーターに引っ掛からなくて良かった、と胸を撫で下ろしながら、赤く光る秩序十字を首から外すと窓枠に掛ける。
「…………?」
朝の光、生まれたての太陽の日差しが窓から射し込み、そして。
「っ! 司教様、司教様っ!!」
叫びながら、ルカリオは寝室のドアを勢い良く開けた。
目の前、テーブルに座していたエリクィン司教は、いつもの微笑みを忘れてきたのか、呆然と目を大きく見開いている。
驚いた様子の司教に駆け寄り、ルカリオはその
「司教様、これ、これが答えです!! 犯人は、【
「る、ルカリオ……」
目を何度も瞬かせながら、それでもどうにか視線をあらぬ方へと向けながら、エリクィン司教はため息を吐いた。
「……先ずは、着替えを済ませた方が良いでしょうね」
ルカリオは数回瞬きをした。
それから、甲高い悲鳴を上げた。
エングレオの様子から、シンジは彼が完全な裏方であることを察していた。
老教師は友人が見出だした秘奥、神の奇跡の正体を知り、その製造方法を知り、封印することを選んだのだろう。
エングレオの、こちらがどこまで知っているのかを探るような話運びを、シンジは甘んじて受け入れることにした。
学生に講義をするように、シンジは話を続ける。
「であれば、話は早い。【
「神の権能を再現したと? それはまた、随分と買い被ってもらえたものだな」
「魔術師は買い被らない。万物を正確に見通す眼こそ、僕らの真髄だ」
エングレオの冷笑を一瞥すると、シンジは講義を続ける。「そしてだからこそ解る。ヒトは誰もが、神の下に近付きたいんだ――それぞれのやり方で」
「お前たちも、そうだと言うのか?」
エングレオは怒りを込めてシンジを睨み付ける。「お前たちは昔から、神など歯牙にも掛けていなかったろうに」
「僕たちは、神の偉業には感動している――少なくとも僕は」
魔術の大本は、神話時代の再現だ。
神々の時代、語られる神話において、偉大なる方々は実に気軽に神秘を起こしている――畑を荒らす猪に何の気なしに雷の槍と風の鎌を投げ付けたりするし、それがうっかり当たってしまったヒトに、慌てて時間逆行の呪文を唱え、やり過ぎて赤子にまで戻したりする。
ちょっと歩けば奇跡に出会す、そんな神話時代は、魔術師にとって御馳走の並んだ長机だ。各テーブルをシャンパン片手に冷やかしながら、気になる奇跡をつまみ食い。
研究者として、どんな魔術でも自由自在という環境に興奮しない者は居るまい――既に失われたそれを取り戻すことに、人生を擲つ位には。
「それだけじゃあありません。神は人類史上、誰も成し得なかった偉業を成した」
「…………」
「彼らは世界を統一した――神の名の下に、世界は一つになった」
「神を信じない者も、居ると思うが」
「けれど、知らない者は居ないでしょう」
かつて、これほど世界中に広まった情報は無い。
天使より、悪魔より。
神を知らない者は、この世にいない。
「空は青いとか、金は銀より価値があるとか。そういう共通認識として、世界には神が満ちている。魔力と同じように、目には見えずとも世界に間違いなく実在しています。その偉業を無視することは、誰にも出来ない。……貴方たちにも」
シンジの言葉に、エングレオが寂しげに目を伏せる。
研究者は誰もが、神から逃れられない。彼らもまた、例外ではなかったのだろう。だから――【
「【
口にするのに、何か、得体の知れない威圧感を感じて、シンジは軽く息を吸い込んだ。
魔術師だって、神を敬う。だが、畏れることはけして無い。
「……貴方たちが創り出した【
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