第48話四日目、朝

「……う、……きょう、スフレ司教!」

「…………む」

「おはよう御座います、司教」

「……お早う、ブラザー・クラウス」


 開け放たれたドアの向こうに立つ若い神父の姿が、ぼやける。

 数度の瞬きを経て漸く、スフレは自分が老いたという事実に焦点ピントを会わせることが出来た。


 ――昔なら、二三日の徹夜など何とも無かったのだがな……。


 祭りが半分を過ぎたという事実に、スフレ司教は驚愕を禁じ得なかった。連続殺人事件の最中に居眠りをしてしまったという、恥ずべき事実に対しても、だ。

 犯人は明らかに、このリシュノワールで行われる一大イベント、創世祭に犯行の焦点を合わせている――一日一人、正確無比なスケジュールは、祭りの運行以上に狂いがない。

 あのあと、既に昨日の事だが、異端審問会の本部にある自室に戻ったのは夜の一時過ぎの事だ。そこから事件の概要を整理した書類を眺め、そしてそこからの記憶がない。


 三人目ウルカ・トゥシウムの夜は終わった、スフレが寝ている内に。

 最早四人目の朝が始まっている、スフレが寝ている間に。


「……今は、何時だ?」

「六つ時です」


 では、五時間半程寝ていたことになる。一日の内の四分の一で、詰まりは四人目が殺されるまであと十八時間。

 法則の通りなら、十八時間以内に錬金術師の五つの光の内、どれか一つが消える。エングレオ・トリミウム、ルカリオ・ファビウム、そしてイカロス・ワニウム。彼らの内の誰かが。


 彼らの内の誰か、或いはもしかしたら、その全ての人生。

 例えば偉大なる天上の主のような、全知にして全能たる方が、彼ら一人一人に【我が人生】という題名タイトルの本を書いて渡したとして。

 自分の怠惰は、その残りを破り取ったかもしれない――主の最高傑作だったかもしれない、その結末を陳腐に変えたかもしれない。よりにもよって、神に仕えるこの身が。


 過ごした年月そのものが悪いとは思わないが。

 経験は、肉体の衰えを補いこそすれ、癒してはくれない。


「司教、そろそろ朝の礼讚のお時間ですが」

「解っている」


 神父の言葉に、苛立ちを返す。

 経験が仕事を増やす。それも、誰にでも出来るような雑務ばかり。

 そう――誰にでも出来る。

 居並ぶ参列者の前で聖典の一説を読み上げ、祈りを捧げ、そして神の名を呼ぶ。本当ならそれは誰にでも、それこそこの若い神父にでも出来ることだ。


 しかしそれを、人々は自分に求める。

 自分がこの町で、最も長く神の名を呼び続けたというだけで。


「……たまには、君がやってみるかね?」

「は?」

「……何でもない。準備をする。先に行っていろ」

「はい」


 一礼を残し、神父は去っていく。

 そして、雑務が残された。人々の祈りを受け止め、具体的な先を示し、共に祈るという誰にでも出来る、聖人のようなを残して。


 スフレは捜査に用いる簡素なローブを脱ぐと、金や赤の刺繍があしらわれた儀礼用の司教服に着替えた。

 祈らなければならない。狙われた彼らの人生の、更に幾ページかを犠牲にして。









 イカロス・ワニウムは、四日目の朝を執務室の机で迎えた。

 この一文から想像できるような、机に突っ伏して袖を涎で汚しつつ頬に赤い跡を残すなんていう怠惰で無規律な様子は、しかし彼に限ってはあり得ない。

 彼の背筋は、自らに角度を変える機能があるということを忘れたように直立し、背もたれに沿った直線を維持している――イカロスの意識が夢の世界に旅立っている間中、ずっと。


 結果として、イカロスの睡眠時と覚醒時における違いといえば、目を開いているかどうかだけだった。

 彼は秩序神教会厳格派スレイパーのように背筋を伸ばして椅子に腰かけた姿勢のままで、六時間ぶりに目を開いた。


「…………ふむ。斯くもまた日は登り、夜は過去と化したか」


 静かな言葉は、あらゆる感情を含まない冷徹さに満ちていた。

 まさにその昨日、そして一昨日、彼の友人が殺されたという事実を鑑みれば、非情と罵るに充分すぎる態度である。

 だが同時、それも仕方がない、と人々は言うだろう。特に事情を知る者たちならば。


 彼らは皆、

 過去に追い付かれ、過去に食いつかれ、そして過去になった。彼らの屍の上には、ただこの先、過去が降り積もるのみだ。


「そして、我が肉体もそれに続くことになるか……」


 イカロスは、手製の十字架を取り出した。

 五つの光と呼ばれ、頂きに数えられた者たち。彼らがかつて共に夢を誓い合ったとき、造り上げた友情の証だ。


 そしてどうやら、二人の証は悪漢の手に渡ったらしい。


 犯人が無知であるなどと、イカロスは考えていなかった。

 姿のない殺人者は、この秩序十字架に込められた正しい価値を理解しているようだ。


「……果たして。探求者は何処まで達するか……?」


 イカロスはそっと、秩序十字架を窓から射し込む朝の陽射しにかざした。

 秩序円に囲まれた四本の足にはいくつかの飾り。

 そして、中心。

 魔術的にも金銭的にも無価値な硝子。陽射しによって青く輝いた偽りの宝石を手の内に弄びながら、イカロスは静かに頬をひきつらせる。


 もしも己さえ、過去への供物となったのなら。

 最早。正しい光が射すことはないだろう。









 エングレオ・トリミウムは、四日目の朝を眠る間もなく迎えた。


 起きていたいと思っていた訳ではなかった。

 ただ考え事をしていたら、朝になっていたのだ――年若い研究者であった頃のように、解らない現象を解明するべく辞書を引き実験を繰り返した、あの頃のように。


 エングレオにそうさせたのは、彼自身の持ち物。

 二十年以上連れ添ってきた、手製の秩序十字架だ。


 黄土色に輝く硝子を、そっと指で撫でる。

 その切り口は粗雑で、これが宝石の原石であったとしても、こんな磨き方では価値を失っていただろう。

 ましてこれは硝子だ、価値はない。回りを囲む銀も、素人が無理矢理加工したものだ。溶かして打ち直さない限り、幾らの価値も無い。


 それを、犯人は集めて回っている。持ち主を殺しても。


「……この秘密に、気が付いているのか……?」


 もし、そうだとしたら。

 いや、『もし』などという仮定はこの期に及んで無意味だろう。

 既に二人殺された。犯人は知っているのだ、何もかも。


「……一体、何故……?」


 この秘密を知っている者は、けして多くない。

 エングレオの脳裏に、オズマンの死の情報が甦る。その全身は拷問を受けていた。


「オズマンから、聞き出したか……?」


 だが、とエングレオは首を振る。それでは


 オズマンを誘い出し、拷問するためには、彼が秘密を知る者だと知らなければならない。

 ルミアレス、錬金術の最奥の一つ。まともに研究している者でさえ、その名前を知っている者は少ない筈だ。

 犯人は錬金術の知識があるようだが――研究をしているとは思えない。


「正しく【啓蒙の光ルミアレス】を知っていれば、こんなことを起こす筈がない……だが、知らずにこんなことは起こせない」


 論理的に導きだしたどちらも正しい筈の答えが、互いに矛盾する。

 矛盾は錬金術の基礎だ、矛盾ゆえの混沌から、正しい解は産み落とされる。

 だが、解が矛盾することなどあり得ない。それでは、正解ではなくなってしまう。


 可能性は、二つだ。


 導きだした解が間違っているか。或いは――だ。


「……もしかしたら……っ?!」


 びくっと弾かれたように、エングレオは顔を上げた。

 ドアが、叩かれている。礼儀を失わない程度の乱暴さで、こんな朝早くに。


「…………」


 机に十字架を置くと、エングレオは引き出しを開ける。

 ロックされた引き出しに整然と並べられているのは、よく磨かれたナイフだ。護身用の品ではあるが、エングレオは過去訓練でもそれらを扱ったことがない。複雑な手順で開ける隠し引き出しを、そこまでして開く情熱を護身術に対して持ち合わせてはいなかったのだ。


「…………」


 少し悩んで、エングレオは自らの、そして今や犯人にとっても大切な宝をそこに滑り込ませた。

 これを開けるのは、一苦労だろう。もしかしたら、エングレオからナイフを奪って彼の心臓に突き立てるよりも。


 そっと、なるべく音の出ないように、エングレオはドアに近付く。慎重に、慎重に、過剰なほどの警戒心をもって近付き、そして。

 ナイフを持たない左手で、ドアノブを開ける。ナイフはドアの影に、隠したままだ。


 ――誰であれ、一人なら刺してやる。


 自らの心理状態が危険なものであると自覚しつつ、それが間違いではないとエングレオは感じていた。

 最早事態は、やるかやられるかだ。


「……誰かね?」


 興奮を抑えた声で、そう呼び掛ける。

 答えは、予期しないものだった。いや或いはもしかしたら、そうではないかと思っていた相手だったのかもしれない。


「エングレオさん、朝早くに申し訳ない」

「……カルヴァトス教授か」

「至急お尋ねしたいことがあります、ここを開けていただけますか?」


 エングレオは、安堵の息をこぼした。相手が彼であったことに対して……ではない。

 

 決断は正しかった――彼はもしかしたら、犯人と同じくらい危険な相手だ。


 秘密を守ろうと、するのならば。

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